2008年07月25日

原油高?

いつも先見の明があるまーきみ。は、原油高で四苦八苦の各業界を尻目に、それを逆手にとって今日も大儲けをしています。

まー、いわゆる、逆転の発想やね。



早朝から人目を忍んでブツを車に積み込む。


〇徳商〇 まーきみ。face06
高校野球の名門校のようだ。






着いたところは市内某所の商店
密かに順番を待つ。





今だ、チャンスだ!




真空飛び膝蹴り!








半年間の古新聞と牛乳パックを売った計算書



なんと、半年前と買取値が倍額になってる!face08


それにしても、こんな所からも原油高、各資源価格高騰の実情を知りました。

ニューヨーク原油は7月15日に1バレル=147・27ドルをつけ、最高値を更新したが翌日から反落、24日には124.44ドルと、終値ベースで6月4日以来の安値となった。
当日開催されたうわじま牛鬼祭りの神通力があったと地元宇和島では専らの噂が流れているかどうかは定かでない。





  

Posted by まーきみ。 at 13:50Comments(0)TrackBack(0)時事総論

2008年07月25日

宇和島鉄道の夜明 2 河原の石



線路を横断する鉄橋から見た宇和島駅 宇和島駅が当初の和霊町(現・城北中学校)から現代の位置に移転したのは大正5年。

尤も当時は国鉄ではなく「私鉄宇和島鉄道」であった。軽便鉄道で軌間(線路の巾)762mmで国鉄の規格である1067mmに変更工事が行われたのは、国鉄に買収された昭和8年以後のことである。

その後、国鉄は四国循環鉄道を敷設すべく計画し、地元も誘致に懸命に運動したのだが、その路線選定に紆余曲折があって予讃線が開通する最後の区間八幡浜ー卯之町間が開通し、西宇和郡双岩小学校で開通式が挙行されたのはたのは終戦間近の20年6月の事であった。






話は変わって


伊吹町の八幡川原


須賀川の右岸に建立された安藤継明忠死の碑 伊達宗彰氏揮毫


後方の古い石碑は字が読めないほど風化している 元吉田町長 清家吉次郎撰文の文字が見える。


寛政5年(1793年)2月12日、山間部の特産である紙の専売制反対と藩政の改革を掲げ、日吉村を中心とした吉田藩の百姓8000人(83ヵ村中80ヵ村)が蜂起し、宗家である宇和島藩の八幡河原に集結した。
一揆の収拾に苦慮した吉田藩家老安藤継明は14日に一揆勢の前で割腹。安藤の至誠に打たれた一揆勢は宗家宇和島藩の仲介もあって帰村。要求のほとんどは認められる事になる。
ご存知「武左衛門一揆」の顛末である。
ちなみに吉田の夏祭りは彼を祭った安藤神社の祭礼だ。



さて、この河原で戦時中、宇和島市長や助役を初め宇和島市民が挙ってこの河原に集結しました。


その様はまさに


「昭和の百姓一揆」




戦時中にこの河原に市民が集結した。



昭和8年に私鉄宇和島鉄道を買収した国鉄ですが、その後の四国循環鉄道は遅々として進みません。
それは路線選定に対して地元の意見がまとまらない事が最大の要因でした。

第104号路線
大洲ー宮之下ー近永ー江川崎ー須崎
(宇和島線は支線となる)


第103号路線
大洲ー八幡浜ー宇和町ー三間ー宇和島ー南宇和郡ー宿毛ー中村


当時の考えとして船舶の航行する海岸部より寧ろ交通不便な山間部こそ汽車を通すべきと言う考えが主流でしたし、また技術的にも法華津峠の勾配は汽車が走るにはきつすぎて結果、104号路線が有望で、国鉄もその計画で進めていたのですがなぜか実現したのは第103号線の計画に沿った現代の予讃線でした。
「村山豊次郎傅」にはその決定を「木の葉が沈んで小石が流れる以上の奇怪事」と表現しています。


昭和18年9月に着工したのですが、当時は戦時中。サイパン、グアム島守備隊が玉砕し、ここを拠点としたB-29の空襲が始まった時期です。

上田市長は国の鉄道建設に協力すべく地元選出国会議員と図って鉄材、人材の供出を呼びかけました。

一番必要な鉄材(レール)は、新設なった宇和島ー吉野生間の鉄道のレールを流用する事を計画しましたが当然ながら鬼北地方の住民に大反対に遭いました。
苦慮した上田市長は松山の伊予鉄道に赴き「松山ー高浜間の複線を単線にして、残るレールを払い下げて欲しい」と交渉しました。
上田市長と予てから親交のあった伊予鉄道の太宰社長はさすがに難色を示しましたが「国防上にも軍事的にも緊要な路線である」と言う戦時下の要求と福本知事の応援もあってこれを了承しました。


鉄材の確保が決まれば次は人材の確保です。
宇和島近辺のみならず、東、西、北の宇和三郡の男女青年団を中心に「速成同盟」を組織し突貫工事に従事しました。
遠くは西宇和郡の三崎半島の遠隔の地からも団体で参加したと言う事です。

前述の如く、宇和島の八幡河原には市長、助役、市会議員を初め各区民が順番で集まり砂利を採取して北宇和島駅まで運びさらに鉄道で工事現場に輸送しました。
勤労奉仕が当たり前の戦時下とは言え、血の滲むような努力で工事が竣功するのには実に3年の年月を要しました。


官民協力して鉄道の建設のために働く地元住民の姿を、かつてこの地で切腹して果てた安藤継明の霊はどのように眺めたのでしょうか。

その後の空襲で宇和島駅舎は消失しましたが鉄道は残りました。

戦後も工事に協力した住民各位は、汽車に乗るたびにかつてこの地にこだました工事の響きを懐かしくも誇らしく思い浮かべた事でしょう。





「僕もうあんな大きな暗(やみ)の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」

「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」

カムパネルラは俄(にわ)かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫(さけ)びました。

 ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかりどうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。何とも云えずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向うの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕(うで)を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。

「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」

ジョバンニが斯(こ)う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座(すわ)っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。

宮沢賢治 『銀河鉄道の夜』




宇和島駅機関区 木製の電柱が往時を偲ぶ縁か



一次資料
「宇和島の明治大正史」津村寿男
「村山豊次郎傅」井上雄馬

  

Posted by まーきみ。 at 08:30Comments(0)TrackBack(0)宇和島タイムスリップ

2008年07月24日

祭りの衣装 奥ゆかしい彼




今夜は私もお祭りに馳せ参じます。

と言っても、おそらく皆様にお会いする事はないでしょう。

目立たずひっそりと、縁の下のドル箱欲しい

奥ゆかしい私にはぴったしの役柄

ちなみにこの服は夏冬兼用

あつくていけんよぉ



  

Posted by まーきみ。 at 16:33Comments(4)TrackBack(0)エッセイ

2008年07月24日

宇和島鉄道の夜明 1



「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。
僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない。」


「うん。僕だってそうだ。」

カムパネルラの眼にはきれいな涙(なみだ)がうかんでいました。


「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」
(宮沢賢治著 『銀河鉄道の夜』より)





駅を出る私鉄宇和島鉄道


私鉄宇和島鉄道の設立を最初に呼びかけたのは好藤村(旧広見町)の今西幹一郎で、明治37~8年の事でした。

宇和島のように航路が開けている海辺の町より、船が行く事のできない山間の町のほうにこそ鉄道が必要だと言う考えが当時の常識で、現在の鬼北地方から鉄道建設の声が上がったのは当然の事であったのでしょう。
国任せでは中々鉄道を敷くことができないと思った彼らは、

「国がやってくれんのやったら、自分らでやったらええわい!」と奮い立ちました。

現代では想像も付かない大きなエネルギーが、人々の中に燃え滾っていた時代。

それはあたかも機関車の釜の中で赤々と燃える石炭の炎のように力強かった事でしょう。



私鉄宇和島鉄道開通式 大正3年 宇和島ー近永 所要時間 1:40 運賃 大人二十九銭

社長   井上角五郎(広島) 
副社長  今西幹一郎(好藤村)
専務   河野虎尾(好藤村)
取締役  井上要  玉井安蔵(愛治村)  石崎忠八(宇和島町)  小西荘三郎 





その宇和島鉄道の名前が残っている唯一の「鉄道遺産」があると聞いて、松野町吉野へ行ってきました。








車を停めて、いざ出発   このあたりがかつて宇和島鉄道吉野駅があったあたりか?



なんか書いてある?



えええええーface08

ちがいますぅーーーーface07


「おもしろ看板」決定face06




しかし、元公園らしい樹林はいくつもあるけど、発見には至りません。



あきらめて帰ろうとしたら一台の車が通りかかり、声をかけて中のご婦人に聞いたら、親切に車を降りて教えてくれました。face10





ありがとうございますーface05

感謝で見送るまーきみ。




美しい田園風景





この池が目印らしい




おや? あれか?






あった!face08

「文殊公園」の石碑





大正13年の竣工




宇和島運輸の堀部彦次郎が宇和島鉄道会社2代目社長に就任し、駅を当初の和霊町(城北中学校あたり)から鶴島町(現在のJR宇和島駅)に移転し、資本を増額して近永から吉野まで伸延。
同時に「文殊公園」を整備し行楽客を誘致した。

明治43年、沿岸航路の運行に着手した宇和島運輸が板嶋丸を建造、赤松遊園地を整備し同船を就航させ好評を博したのと同じ手法である。


後年同路線の国鉄への発展的買収を成し遂げるのにも有利に運んだ一因になった思われる。

「財界に堀部あり、政界に山村あり」

その堀部が死去し、あとを継いだ山村三代目社長(元市長)の活躍の話は後日に譲りたい。




 敷地内には仏像が安置された文殊堂があり、それが公園名の由来となっています。
 水の流れを組み込んだ庭園にはあじさいが数多く植えられており、花の頃には訪れる人々の目を楽しませてくれます
(松野町商工会)




この日は雨 紫陽花も名残の花を咲かせていた。




この古木も、悠久の歴史を見てきたのだろう。




下の畑で農作業をしていたご婦人に話しかけると、手を休めてかつてはこのあたり一体が宇和島鉄道の敷地だと教えてくれた。



当時のホームの跡があると、わざわざ案内してくれた。

右手の更地は最近まで製材所があったそうな。



この勾配と、左手のコンクリート(指先)が当時のホームの名残らしい。





「昔はあのあたりに小さな劇場があったらしい」と説明してくれた。

このご婦人の記憶には無い昔らしい。


「時々宇和島鉄道の事を調べに来る人がいる」とのこと

態々の親切を謝し、家路に着く。



吉野駅跡の全景


このあたりはかつて吉野村と呼ばれたところ。



1889年(明治22年) - 町村制・市制施行時に、吉野(よしの)、蕨生(わらびお)、奥野川(おくのかわ)の3か村の合併により吉野生村となる。
1955年(昭和30年) - 松丸町との1町1村の合併により松野町となる。




一次資料
「宇和島の明治大正史」津村寿男
「村上豊次郎傅」井上雄馬




  

Posted by まーきみ。 at 08:13Comments(0)TrackBack(0)宇和島タイムスリップ

2008年07月23日

花も嵐も 1


宇和島市津島町北灘地区




さて先日もブログを見て、整体に来てくださった方がいました。




その上、わざわざお菓子まで頂きました。


では、お客様のご協力にて・・・・







またかい!(゚Д゚)ノバシィィィィィィィィface07



すんません・・また写真撮る前に食っちまいました。face10

有名なクリームイチゴ大福の敷紙と、これまた有名なお菓子「焼餅」の包装紙です。

津島町の有名なお菓子屋さん「保田家」

さすがに包装にも気品と風格を感じさせますねface06





施術の後 白熊の新聞記事に見入る顧客様 



さて、津島の話題が出たところで思い出したのですが、先日お客様でやはり津島町嵐の出身の方に出会いました。




私は ある事情で「嵐」という地名を子供の頃から知っていました。 face06 

もしかしたら、45年前に既にここに立っていたかもしれないな!face06

下灘村 (愛媛県北宇和郡)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
下灘村(しもなだむら)は、1955年(昭和30年)まで愛媛県の北宇和郡にあった村であり、現在の宇和島市の最南の沿岸部に位置する漁村である。昭和の合併で、津島町となり、平成の合併で宇和島市となり、現在に至っている。











その嵐の方がおっしゃるには 「合併して津島町になるまでは、嵐に津島で一番大きな病院があった」 という事でした。

何時の頃からあったのかははっきりききませんでしたが、お話によると「小学校に行ってた昭和20年代に骨折の治療をしてもらった」との事。

場所は現在、漁協の倉庫になっているらしい。


信号を西に入ると橋がある。









嵐川 このあたりは埋立地らしい








下灘漁協 この建物の裏あたりか?








あの路地の向こうに青い屋根が見えるface08








あそこだ







かなり広い 400~500坪くらいか? 聞いた話では、ここが病院だった場所だ。

かつて病院だったという名残は何も見当たらない。

戦前か戦後か分からないが、その時代に病院を建てるには今では予想できないくらいの苦労があったことと思われる。

昔々に大きな公共施設を作る場合、政治、経済に於いて偉い人が居たという事は簡単に想像できる事だが、歴史を調べていて感じたのはそれ以外に地元の人々に強い公共心があり、骨身を惜しまぬ協力があることが絶対不可欠だという事だ。
国や県に陳情してそれで終わりと言う現在とは違い、おそらく、当時の人々に話を聞けば現代人には想像が付かない「苦労話」とそれらを成し遂げた人々の胸に残った「郷土愛と誇り」を知る事ができるだろう。








病院跡の道を進むと嵐坂に向かう旧道になる。







嵐坂隧道に向かう国道56号線
微かに見える黄色い看板は、釣り人たちの間では有名な釣具店







この山道が嵐坂を越えて畑地に抜ける道だ





冬季には畑地から寒風が吹き抜けると言う坂

「嵐」と言う地名はそこから付いたものだろうか?

ため池や古い隧道もあるらしい。近いうちに踏査してみたいと思う。







旧道のひとつ 隧道はこの先か?






 
その先には「嵐浄水場」がある。




今は公園が平地されている。




水鳥が遊ぶ池  そこから嵐坂を臨む





この美しい公園も、様々なボランティア団体により維持管理されている。


「トレッキング・ザ・空海あいなん」 のルートの一つでもある。



美しい公園にたたずみ、暫し往時をしのぶ



  

Posted by まーきみ。 at 11:48Comments(9)TrackBack(0)整体
プロフィール
まーきみ。
まーきみ。
宇和島市で気功と整体の手技を調和させたセラピーをしています。

顔文字教室
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