2009年07月04日
野楡の詩

この本の作者は、軍医であった夫と共に中国大陸に渡り、ソ連侵攻後、当時病院長だった夫と別れ別れになりながら帰国した女性の手記である。
途中、最愛の男児を亡くし生きる希望を失いながらも、夫と同じ病院のやはり軍医の妻であるOさんに励まされながらやっとの思いで遺骨を抱いて生還する事ができた。
この物語に登場し、重要な役割を果たすOさんがわたしの古い顧客さんで本をお借りする事が出来た。
戦時中の苦労を書いた自費出版の本はたくさんあるが、自分の知っている人が準主役として登場する物語は読んでいても一層身に沁みるものがある。
戦争とは何かと言うよりも、人間とは人生とは、家族とは、生きる意味は?死ぬ意味は?と考えさせられる本であった。
拝見したらこの本は、本来なら作者を知るお身内やごく親しい人々にだけ贈る「自分史」であり。門外漢の私が読むことが果たして許される事であるのかと自問せずにはおられなかった。
前述のOさんの「是非読んで貰いたい」と言うお言葉がなければ、おそらくや手にする機会はなかったものと思われる。
日本のみならず、敗戦国民が苦労をするのは戦時中よりも寧ろ戦後である。
彼の獅子文六が、妻の故郷である岩松に疎開したのは戦後しばらく経ってからであったという事実からもその事が伺われる。
況や混乱の極みにある外地に於いてをや、である。
「発疹チフス」と言う、聞きなれない戦地特有の怖い伝染病でも、多くの人が亡くなった。
田宮虎彦の「幼女の声」と言う小説にも、酷似した体験が綴られている。
引揚げの途中で死んだ人は、充分な埋葬もならず爪や遺髪だけを持ち帰るのが常であった。
敵国の兵士だけでなく、崩壊した現地の日本人社会、兵士、病院関係者の中にもとんでもない悪い輩がいて、弱い立場のものを虐げる。逆により人間らしい心を発揮して助け合ったり労わり合ったりする人も居る。
人の醜いところ、美しいところを交互に見る事によって「生きていく意味」と言うものを学ぶものなのかも知れない。
主人公は、病死した愛児を埋葬した小高い墓地の上に野楡の木を植え、失意の極みの中でOさんに言われた「働いてお金をためて薪を買い、火葬してお骨にして、そして3人で日本に帰りましょうよ」
それを心のよりどころにして生きる希望を取り戻したのであった。
作者の上島さんはつい先日、94歳の天寿を全うされた。
その御棺の中には、生前の遺言の通り愛児の遺品を納めたと言う。
その遺品の中には、吾が子が死んだ直後、別れ別れになった夫に見せるために書いた似顔絵もあったと言う。
一方、上島さんを支えて一緒に帰国したOさんは、自分の越し方を文章に留め、後の世に残したいと話しておられた。
生きる意味、死ぬ意味、出会う意味
書き残す事は、それら自分の人生の本当の意味を知る事になる、一つの方法なのかもしれない。
縁あって、この本を手に取る事ができた私は、「薫楠集」と共に、「人生」と言うものを考えるきっかけをまた与えられたような気がする。
掛け替えの無い、ありがたい経験である。
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山下亀三郎の遺産 1 喜佐方隧道

県道272号 吉田町 立間に喜佐方に抜けるトンネルがある。

喜佐方トンネル 宇和島は八鹿だが、吉田は六鹿?


平成5年9月竣工

喜佐方川坑口

こちらはみかんの花が彫られている。

山下亀三郎 頌德碑があった。
以下、意訳
隧道は、昭和15年起工、太平洋戦争中の17年に完成した。
喜佐方は、それまで吉田町に出るためには大きく迂回しなければならず拠って著しく発展が遅れた。
国鉄宇和島ー宇和間が開通する事になり、立間に駅ができることが決まると、竹城下に隧道をと言う「夢想」をするものあるを当地の山下重久がこれに共鳴して、叔父である山下亀三郎に援助を請うと、亀三郎は工事費の全額を寄付してくれた。
吉田町との合併を記念してこの碑を建て山下翁の遺徳を偲び感謝の気持ちを喚起するために碑を建てた。
昭和30年2月28日
喜佐方村長 阿部重剛 撰文

現在のトンネルは、無論後年に改修されたもの
その隣に


から揚げ市場 誰かのブログであったな?

残念!閉まっとるわい!
その奥に

市場風の建物があったが
看板が電柱で見えんぞ!


「吉田直売所 きなはいや」
看板が隠れてるのが、返す返すもザンネンだ

今話題の台湾餃子も売ってるらしいのに。

縫製工場があった。
かつては南予の地場産業と言う感のあった縫製業も、すっかり廃れてしまった。
いつかあの栄光を取り戻すために頑張ってほしいと切に願う。

当時の隧道工事の様子
山下翁が工事費の全額負担をしたと言ったが、
住民は無論指をくわえて見ていた訳ではない。
次回、それを裏付ける資料が登場!
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