2008年04月22日
オーラ写真
オーラ写真と言うものを10年ほど前に撮った。
これって、このあたりでは松山ユース位しかないらしい。
すぴこん等ではよく並んで人気みたいだ。
この写真は平成10年

下のは、その2年後くらい

どんな事を言われたか、サッパリ覚えていないけど同じ色合いに見える。
なんか、注意事項を言われたけどそれも覚えていない。
どっかに仕舞ってたのが探したら出てきた。
あれから10年か、早い気がする。
思えば、あの時願った人生になってる・・かな?
これって、このあたりでは松山ユース位しかないらしい。
すぴこん等ではよく並んで人気みたいだ。
この写真は平成10年

下のは、その2年後くらい

どんな事を言われたか、サッパリ覚えていないけど同じ色合いに見える。
なんか、注意事項を言われたけどそれも覚えていない。
どっかに仕舞ってたのが探したら出てきた。
あれから10年か、早い気がする。
思えば、あの時願った人生になってる・・かな?
タグ :オーラ写真
2008年03月27日
春が来ました
今回の高知行きの目的は「地球交響曲第三番」の鑑賞のため、高知県美術館に行く事だった。
野崎さんと言う見知らぬ女性から手書きの招待状を頂いたのは、去年の夏だったか。
折角のお話をそのまま返事もせずに打っちゃってしまっていた。
「気が向かないと何もしない」この私の性格を世間一般では「薄情な人」と呼ぶ。
キミコはずっと気付いていたそうだが、自分がその事を納得したのはつい最近になっての事と言ってよい。
自分の愚かさをこの年になってさらに発見するのは驚きであるが、同時に有難くもある。
反省する事で、まだ「世間様ともう少し親密になれる」可能性が芽生えたからだ。
「地球交響曲3番」の鑑賞は、上映会で数えれば6回、通算で8回になる。
広見町と宇和島でその「一番、二番」が初めて上映された12年前は映画のポスターの下に「演奏会ではありません」と言う但し書きを必要としたこのシリーズも、三番まで完成して随分認知されてきたと思う。
もっとも、何度見ても見ても心に響くものがそれぞれ違ってくる今の現状から見て、「認知」してないのは自分自身のことだとも思うが、
先日、拙ブログで「ナイノア・トンプソン」の事を少し書いた。
彼とホクレア号を宇和島に呼び寄せる事となったきっかけを考える時、宇和島市民にとってあの悲しい出来事を思い起こさずにいられない。
あの事件が無ければ、宇和島に来ることもあるいは無かったかもしれないし、宇和島市民が親しく彼らを迎えることも無かっただろう。
喜びでもあり、また不幸な事がきっかけとなったイヴェントであった。複雑な心境を誰もが持っていたに違いない。

3番の出演者
「ビル・フラー」
故星野道夫が最も尊敬していた友人。
60歳を過ぎてから、日本語を学び、自転車で北海道から九州まで旅をした。
映画の中で紹介されている彼は78歳だった。上映から既に10年が経過している。
「まだ元気でおるやろうか?」
帰りの車の中でその事が話題になったが、実は彼は去年の夏フェアバンクスの病院で息を引き取っていた。
映画の中では穏やかな笑みを絶やさない彼の一生は決して平坦なものではなかったらしい。
以下、彼の言葉より
「悲しい時に悲しみを分かち合い、嬉しい時に喜びを分かち合う。それ以外、人生に何が必要なのでしょう。」
「悲しみと喜びはいつも共にあります。(中略)幸せはその中に悲しみを内包しています。だからこの悲しみを知ることなしに、至福の喜びを知ることは出来ないのです」
ずっと、昔の事だが
夫婦で今までに無い深刻で不幸(そのときはそう思った)な出来事について二人で悩んでいた時、ふと見るとキミコが葉書に何か一生懸命書いている。
「何しよるん」
「懸賞の葉書、締め切りが明日までやけん」
あまりに可笑しすぎて、泣きながら大笑いした。
「世界が明日終わりになろうとも、私は今日リンゴの木を植える・・」
キミコさん、あんたならビル・フラーになれるでしょう。

高知県美術館

張り出されたなつかしのポスターと「ビル・フラワー」キミコ

星野道夫著 「旅をする木」 CD「ガイアシンフォニー6番サウンドトラック」
現在、地球交響曲は1~6番までYou Tubeで予告編を見ることが出来る。
野崎さんと言う見知らぬ女性から手書きの招待状を頂いたのは、去年の夏だったか。
折角のお話をそのまま返事もせずに打っちゃってしまっていた。
「気が向かないと何もしない」この私の性格を世間一般では「薄情な人」と呼ぶ。
キミコはずっと気付いていたそうだが、自分がその事を納得したのはつい最近になっての事と言ってよい。
自分の愚かさをこの年になってさらに発見するのは驚きであるが、同時に有難くもある。
反省する事で、まだ「世間様ともう少し親密になれる」可能性が芽生えたからだ。
「地球交響曲3番」の鑑賞は、上映会で数えれば6回、通算で8回になる。
広見町と宇和島でその「一番、二番」が初めて上映された12年前は映画のポスターの下に「演奏会ではありません」と言う但し書きを必要としたこのシリーズも、三番まで完成して随分認知されてきたと思う。
もっとも、何度見ても見ても心に響くものがそれぞれ違ってくる今の現状から見て、「認知」してないのは自分自身のことだとも思うが、
先日、拙ブログで「ナイノア・トンプソン」の事を少し書いた。
彼とホクレア号を宇和島に呼び寄せる事となったきっかけを考える時、宇和島市民にとってあの悲しい出来事を思い起こさずにいられない。
あの事件が無ければ、宇和島に来ることもあるいは無かったかもしれないし、宇和島市民が親しく彼らを迎えることも無かっただろう。
喜びでもあり、また不幸な事がきっかけとなったイヴェントであった。複雑な心境を誰もが持っていたに違いない。

3番の出演者
「ビル・フラー」
故星野道夫が最も尊敬していた友人。
60歳を過ぎてから、日本語を学び、自転車で北海道から九州まで旅をした。
映画の中で紹介されている彼は78歳だった。上映から既に10年が経過している。
「まだ元気でおるやろうか?」
帰りの車の中でその事が話題になったが、実は彼は去年の夏フェアバンクスの病院で息を引き取っていた。
映画の中では穏やかな笑みを絶やさない彼の一生は決して平坦なものではなかったらしい。
以下、彼の言葉より
「悲しい時に悲しみを分かち合い、嬉しい時に喜びを分かち合う。それ以外、人生に何が必要なのでしょう。」
「悲しみと喜びはいつも共にあります。(中略)幸せはその中に悲しみを内包しています。だからこの悲しみを知ることなしに、至福の喜びを知ることは出来ないのです」
ずっと、昔の事だが
夫婦で今までに無い深刻で不幸(そのときはそう思った)な出来事について二人で悩んでいた時、ふと見るとキミコが葉書に何か一生懸命書いている。
「何しよるん」
「懸賞の葉書、締め切りが明日までやけん」
あまりに可笑しすぎて、泣きながら大笑いした。
「世界が明日終わりになろうとも、私は今日リンゴの木を植える・・」
キミコさん、あんたならビル・フラーになれるでしょう。
高知県美術館
張り出されたなつかしのポスターと「ビル・フラワー」キミコ
星野道夫著 「旅をする木」 CD「ガイアシンフォニー6番サウンドトラック」
現在、地球交響曲は1~6番までYou Tubeで予告編を見ることが出来る。
2008年03月13日
ホクレア号来る
丁度10年前になるだろうか、「ガイアスタッフ」と言う仲間数人と広見勤労青少年体育センターで、龍村仁監督の「地球交響曲第三番」を上映した事があった。

これは宿毛での講演会前夜の龍村監督と(宿毛ユースホステルで)私も家内も写っている
地球交響曲シリーズは、それまで、宇和島と広見で一度ずつの上映実績があったが全くの手探りで、しかも会場の暖房施設が使えず、急遽ストーブを集めたが、寒い中での上映になった。
思ったほど観客を集める事はできなかったが、映画が終ってからも、しばらくお客さんが席を立たず、照明が点いた時に、会場から拍手が起こり、あぁやってよかったなと、苦労が報われた気がした。

上映会場になった広見町(現鬼北町)
地球交響曲第三番の主人公のひとり、ナイノア・トンプソンがその10年後、宇和島を訪問する事になるとはそのときは予想だにしなかった。映画の登場人物の中では、故星野道夫とともに最も会ってみたい人物の一人だったから。
私は不覚にも、ホクレア号が宇和島に来ることを、去年5月に龍村監督の松山講演で聞くまで知らなかった。
しかも、その日、ホクレア号は沖縄に到着していた。
そして、その数日後、ついにホクレア号は宇和島に入港した。伝説の英雄「エディー・アイカウ」の像と共に。

戎山沖を曳航されて進むホクレア号

挨拶するナイノアとクルー達
今回、ナイノア・トンプソンとその一行の講演会があると聞き、その中でエディーの話が少しでも聞けることを期待した。
ありがたいことに、講演のメインはエディーの事についてであった。
ホクレア号が転覆した時、伝説のサーファー、エディーアイカウは、救助を求めるため単身サーフィンで海原に消えて行った。
他のクルーたちは救助されたが、エディーはそのまま帰ってこなかった。
そのときのナイノアの心境を私の拙い文章で汚す事は厳に慎まなければならない。
ただ言える事は、深い悲しみの中からナイノアは立ち直り、その後のプロジェクトの中心人物となったのである。
講演の途中に、トイレに立った時ドアのそばに偶然にもナイノアがいた。
私は躊躇したが思い切って話しかけることができた。
その時、立ち話にしては、かなり長い間話したがキャプテンはニコニコして聞いてくれた。
私の英語が通じたのか?
そうではない、横に通訳の方がいたのだw
キャプテンは強く握手をしてくれた。通訳の女性は笑顔で胸の前で手を合わせた。
初対面の方に、自分の思いを正直に伝える機会に恵まれた幸運に感謝した。
あの映画を上映してから、自分の周りで大きな変化が起こった。
40過ぎから、今の仕事を始めて、それまで縁のない人に、身内以上にお世話になった。
行く先々で笑顔で迎えられた。
どうしてこんなに親切にしてくれるのか?
と思い及んだ時、あの映画の事が心に強く思い出されるのである。
ナイノアはプロジェクトの中で伝説の自然木による船体を求めて、アラスカに旅立った。
そこでであった人々はかつて、自分たと同じポリネシアンの血を引く人々だった。
木をきる事をためらったナイノアに、彼らはこう言ったらしい。
「これはギフトです。贈り物です。決してお礼をしようなんて考えないでください」
そんな意味だったと思う。
今回のプロジェクトのHPを見ても「ギフト」と言う言葉が頻繁に登場する。
日本で「ギフト」と言うと、お中元やお祝いのお返しの品のように思われるが、彼等の言葉では、もっと深い意味があると感じた。
自分流に解釈したら、
「自分の所有したり管理するもの中で、神からの啓示で、他の誰かに与えるべきもの」
と言う風になるだろうか。
ギフトのおかげで我々は生きることができ、「大いなる意志」を知る事ができる。
ギフトの本当の意味をもっと知りたいと思うし、自分もいつか「ギフト」を他の人々に贈れる事のできる人間になりたいと思った。

これは宿毛での講演会前夜の龍村監督と(宿毛ユースホステルで)私も家内も写っている
地球交響曲シリーズは、それまで、宇和島と広見で一度ずつの上映実績があったが全くの手探りで、しかも会場の暖房施設が使えず、急遽ストーブを集めたが、寒い中での上映になった。
思ったほど観客を集める事はできなかったが、映画が終ってからも、しばらくお客さんが席を立たず、照明が点いた時に、会場から拍手が起こり、あぁやってよかったなと、苦労が報われた気がした。
上映会場になった広見町(現鬼北町)
地球交響曲第三番の主人公のひとり、ナイノア・トンプソンがその10年後、宇和島を訪問する事になるとはそのときは予想だにしなかった。映画の登場人物の中では、故星野道夫とともに最も会ってみたい人物の一人だったから。
私は不覚にも、ホクレア号が宇和島に来ることを、去年5月に龍村監督の松山講演で聞くまで知らなかった。
しかも、その日、ホクレア号は沖縄に到着していた。
そして、その数日後、ついにホクレア号は宇和島に入港した。伝説の英雄「エディー・アイカウ」の像と共に。

戎山沖を曳航されて進むホクレア号

挨拶するナイノアとクルー達
今回、ナイノア・トンプソンとその一行の講演会があると聞き、その中でエディーの話が少しでも聞けることを期待した。
ありがたいことに、講演のメインはエディーの事についてであった。
ホクレア号が転覆した時、伝説のサーファー、エディーアイカウは、救助を求めるため単身サーフィンで海原に消えて行った。
他のクルーたちは救助されたが、エディーはそのまま帰ってこなかった。
そのときのナイノアの心境を私の拙い文章で汚す事は厳に慎まなければならない。
ただ言える事は、深い悲しみの中からナイノアは立ち直り、その後のプロジェクトの中心人物となったのである。
講演の途中に、トイレに立った時ドアのそばに偶然にもナイノアがいた。
私は躊躇したが思い切って話しかけることができた。
その時、立ち話にしては、かなり長い間話したがキャプテンはニコニコして聞いてくれた。
私の英語が通じたのか?
そうではない、横に通訳の方がいたのだw
キャプテンは強く握手をしてくれた。通訳の女性は笑顔で胸の前で手を合わせた。
初対面の方に、自分の思いを正直に伝える機会に恵まれた幸運に感謝した。
あの映画を上映してから、自分の周りで大きな変化が起こった。
40過ぎから、今の仕事を始めて、それまで縁のない人に、身内以上にお世話になった。
行く先々で笑顔で迎えられた。
どうしてこんなに親切にしてくれるのか?
と思い及んだ時、あの映画の事が心に強く思い出されるのである。
ナイノアはプロジェクトの中で伝説の自然木による船体を求めて、アラスカに旅立った。
そこでであった人々はかつて、自分たと同じポリネシアンの血を引く人々だった。
木をきる事をためらったナイノアに、彼らはこう言ったらしい。
「これはギフトです。贈り物です。決してお礼をしようなんて考えないでください」
そんな意味だったと思う。
今回のプロジェクトのHPを見ても「ギフト」と言う言葉が頻繁に登場する。
日本で「ギフト」と言うと、お中元やお祝いのお返しの品のように思われるが、彼等の言葉では、もっと深い意味があると感じた。
自分流に解釈したら、
「自分の所有したり管理するもの中で、神からの啓示で、他の誰かに与えるべきもの」
と言う風になるだろうか。
ギフトのおかげで我々は生きることができ、「大いなる意志」を知る事ができる。
ギフトの本当の意味をもっと知りたいと思うし、自分もいつか「ギフト」を他の人々に贈れる事のできる人間になりたいと思った。
タグ :ホクレア号ナイノア・トンプソン
2008年02月29日
潜在意識
穴馬さんのブログを拝見してから、潜在意識について考えている。
私は、考え出すと夜も眠れない性格だ。
・
・
・
地下鉄ってどこから入れるんだろう?

私がかつて住んでた名古屋では地下鉄が地上を走る区間がある。
大変納得したが。
さて、本題です。
潜在意識の話1
飛行機や船の大事故があったとき、よく「乗る予定だったがキャンセルして助かった人」の話を聞く。
大きな乗り物に乗って、遠くに行くのはよほどの用事があってのことだし、それをキャンセルするのはさらに大切な用事、つまり優先順位でそれまで一位だった「遠くに行く」を凌ぐという必要がある。
そしてまた、この場合の「優先順位」というのは大いに主観的である。
たとえば、まーきみ。が大事な商用で飛行機に乗ってアメリカあたりに行くとする。
すると、美しい女性から「まーきみさんお茶しましょ♪」と誘われる。
すると大事な商用をほったらかして
「は~~い」
と付いて行くに決まっている。
その飛行機にトラブルがあったりした場合、結果不心得なまーきみ。は無事に済む・・と言う事になる。
この場合、どちらを選択するかが「潜在意識」だと思うのである。
「それは、まーきみ。がスットコドッコイだからだろう!」と言う声が聞こえてきそうだが
言い換えればこの日このときのために「スットコドッコイに生きる」と言う潜在意識が働いた結果としたらどうだろうか?
ゆえに「潜在意識は時空を超えて存在する」と言う考え方。また、あるいは「運命」と言い換えても良い。
潜在意識の話2
さて、ここに一枚の写真がある。(ポラロイド)

これは「結果的に」お見合い写真になった写真である。
(結果的に・・という言葉が意味深だが、私の人生には「結果的に」が多すぎるな
)
場所は大洲市北只今はダイエーになってるがパットゴルフがあった場所だ。
手が後に回ってるのはパターを持っていたせいだと思われる。
季節はそう、5月の連休明けだった。
私はここの副支配人と仲良しだった。
クラブハウスの前で談笑してると、ここの親会社「愛媛舗道」の社員さんが来られた。
この社員さんがたまたまポラドイドカメラを持っていたのだ。
「まーきみ。お見合い写真撮ってやらい」
私は当然本気にしなかった。ただ言われるままにポーズをとった。
そういえば彼がが自分の同級生で紹介したい子が居るとか言ってたが、私はその頃、他のお見合い話があったので。
彼にもそれを伝えていた・・・ハズだった。
彼が私のお見合い話があるというのを知っていたか、聞き流してしまっていたか、今となってはわからないが、彼の中でさっさと話を進めてしまっていたのだった。
ここで「魅力的な女性」について概ね二通り有ると言う話をしなければならない。
幼少の頃から天使のようにかわいく、そのまま大人になった女性。
さなぎが蝶になるように、少しづつ変化しながら美しくなる女性。
今、PCの前でこのブログを読んでくれている女性のほとんどは前者であると思われる。
そして、後年「楊貴妃の再来年」「小野小町二丁目」とその美貌を謳われた妻、シャイニング・キミコは後者であり、まだ当時はさなぎであった。
さて、保険マエフリはとにかく
後日、クラブハウスに行くと、副支配人は公休で代わりに支配人がキミコの写真と手紙を預かっていた。
そして、その写真を人目見たとき、
「え~わし、こんな(女性に対して失礼な表現)いややな~~」
すると、支配人が一言
「おまえ、そがいな事言いよったら、一生結婚できんぞ」
それを聴いた瞬間
「それもそうだ」と思い直した。
支配人は私よりいくらか年上だったが独身だった。’(たしか私が記憶する限り40くらいまでは独身だったはずだ)
結婚生活の経験もない支配人の何気ない一言に、考えを改めたのはなぜだったか?今もわからない。
その後、6月に会ってその月のうちに結婚を決め、挙式したのは秋のことだった。
それまでの流れの中で、「流れを止める」機会はいくらもあったし、ここに書いてないが止めようとした事も何度もあった。
しかし、なぜか流れは本流になってしまった。
結婚については誰も同じような経験をしているのではないだろうか?
そして、その「流れ」をコントロールするものが時空を越えた潜在意識だと思うのである。
私は、考え出すと夜も眠れない性格だ。
・
・
・
地下鉄ってどこから入れるんだろう?


私がかつて住んでた名古屋では地下鉄が地上を走る区間がある。
大変納得したが。
さて、本題です。
潜在意識の話1
飛行機や船の大事故があったとき、よく「乗る予定だったがキャンセルして助かった人」の話を聞く。
大きな乗り物に乗って、遠くに行くのはよほどの用事があってのことだし、それをキャンセルするのはさらに大切な用事、つまり優先順位でそれまで一位だった「遠くに行く」を凌ぐという必要がある。
そしてまた、この場合の「優先順位」というのは大いに主観的である。
たとえば、まーきみ。が大事な商用で飛行機に乗ってアメリカあたりに行くとする。
すると、美しい女性から「まーきみさんお茶しましょ♪」と誘われる。
すると大事な商用をほったらかして
「は~~い」
と付いて行くに決まっている。
その飛行機にトラブルがあったりした場合、結果不心得なまーきみ。は無事に済む・・と言う事になる。
この場合、どちらを選択するかが「潜在意識」だと思うのである。
「それは、まーきみ。がスットコドッコイだからだろう!」と言う声が聞こえてきそうだが
言い換えればこの日このときのために「スットコドッコイに生きる」と言う潜在意識が働いた結果としたらどうだろうか?
ゆえに「潜在意識は時空を超えて存在する」と言う考え方。また、あるいは「運命」と言い換えても良い。
潜在意識の話2
さて、ここに一枚の写真がある。(ポラロイド)

これは「結果的に」お見合い写真になった写真である。
(結果的に・・という言葉が意味深だが、私の人生には「結果的に」が多すぎるな
)場所は大洲市北只今はダイエーになってるがパットゴルフがあった場所だ。
手が後に回ってるのはパターを持っていたせいだと思われる。
季節はそう、5月の連休明けだった。
私はここの副支配人と仲良しだった。
クラブハウスの前で談笑してると、ここの親会社「愛媛舗道」の社員さんが来られた。
この社員さんがたまたまポラドイドカメラを持っていたのだ。
「まーきみ。お見合い写真撮ってやらい」
私は当然本気にしなかった。ただ言われるままにポーズをとった。
そういえば彼がが自分の同級生で紹介したい子が居るとか言ってたが、私はその頃、他のお見合い話があったので。
彼にもそれを伝えていた・・・ハズだった。
彼が私のお見合い話があるというのを知っていたか、聞き流してしまっていたか、今となってはわからないが、彼の中でさっさと話を進めてしまっていたのだった。
ここで「魅力的な女性」について概ね二通り有ると言う話をしなければならない。
幼少の頃から天使のようにかわいく、そのまま大人になった女性。
さなぎが蝶になるように、少しづつ変化しながら美しくなる女性。今、PCの前でこのブログを読んでくれている女性のほとんどは前者であると思われる。
そして、後年「楊貴妃の再来年」「小野小町二丁目」とその美貌を謳われた妻、シャイニング・キミコは後者であり、まだ当時はさなぎであった。
さて、
後日、クラブハウスに行くと、副支配人は公休で代わりに支配人がキミコの写真と手紙を預かっていた。
そして、その写真を人目見たとき、
「え~わし、こんな(女性に対して失礼な表現)いややな~~」
すると、支配人が一言
「おまえ、そがいな事言いよったら、一生結婚できんぞ」
それを聴いた瞬間
「それもそうだ」と思い直した。
支配人は私よりいくらか年上だったが独身だった。’(たしか私が記憶する限り40くらいまでは独身だったはずだ)
結婚生活の経験もない支配人の何気ない一言に、考えを改めたのはなぜだったか?今もわからない。
その後、6月に会ってその月のうちに結婚を決め、挙式したのは秋のことだった。
それまでの流れの中で、「流れを止める」機会はいくらもあったし、ここに書いてないが止めようとした事も何度もあった。
しかし、なぜか流れは本流になってしまった。
結婚については誰も同じような経験をしているのではないだろうか?
そして、その「流れ」をコントロールするものが時空を越えた潜在意識だと思うのである。
タグ :潜在意識
2008年02月23日
学校の先生の思い出。
私が行ってた小学校は、鶴島小学校である。
もう数十年前に卒業したが、卒業後、10年くらい経って「もう、鶴島小学校が無くなるらしい。老人施設になるんやと」と言う噂が立った。
後日根も葉もないデマだと判ったのだが、この噂を聞いたとき何ともいえない寂しさが込み上げたのを今も覚えている。
最近、魚神山小学校、僧都小中学校のうち、中学校が廃校となった。在校生ならびに卒業生の心中察するに余りある。
さて、小学校の時分、多分5~6年生だったと思ったが、M先生という女の先生に呼び止められ、咎められたたことがあった。
理由は「運動場に落ちていた水飲み用のカップ(アルミ製)を蹴った」と言うことであった。
言われてみて思い出した、かすかにそんな事をした記憶があった。・・・はるか30分ほど前に・・
「都合の悪いことは3歩歩いたら忘れる」を身上としていたまーきみ。少年に既に時効が成立したと思われる30分も前の事を持ち出す先生もどうかしてる。。。と渋々聞いていたのだが。
後で思うと不思議だが、先生は受け持ちの学年も違う、ほとんど話した事もないのに私の名前をどうして知っていたのだろう?
当時鶴島小学校には一学年100人以上は居た筈である。
まさか私のブログを見ていた訳ではあるまい。
M先生の思い出その2
明倫町のある駄菓子屋に行った時の事、店のおばさんとM先生が話していた。聞くとも無く聞こえてくる会話は、こうであった。
昨日三人ほどで店に来た小学生が「仮面ライダースナック」というのを買い、そのおまけのカードだけ取ってお菓子は店のゴミ箱に捨ててしまった。それを見たおばさんは「もったいないことをするな」と咎めたが小学生達はそのまま帰ってしまったと言う。
これは「仮面ライダースナック事件」と言って当時小学生の間に全国的に派生し大きな社会問題となっていた。ご記憶の方も多いと思う。
店のオバサンは、そんな事をする子供が信じられない。お金や食べ物をなんと思っているのか?親の金でもくすねているのではないのか?と言う相談だった。
神妙に聞いていた先生は、ややあって
「まーきみ。お前もライダースナックを買いにきたんか?」
「ちがいまーーす」
私は当時、仮面ライダーより「ネコジャラ市の11人」のシーラの貫太郎のファンだったのだが。
M先生について記憶していることと言えば、行事のたびに司会を勤めておられた事だ。
そしてすごく美人だった。八千草薫と黒木瞳の良いとこばかりが調和したような風貌と凛とした気品があった。
私がM先生と話したことといえば、それくらいで卒業してから後は、それすらも忘れてしまっていた。
それが数年前、一冊の本を読んでいて鮮やかに思い出したのである。
図書館で借りた「板島橋」と言う本、作者は宇和島市出身の木下博民先生という80も半ばを越えて尚お元気な方である。
板島橋を説明するにはどうしてもその先にある今の坂下津産業団地の前身「宇和島海軍航空隊」通称「予科練」の話をしなければならない。
予科練は名の通り、戦時中、現代の中高生位の年齢の人に軍事教練を施した海軍の施設である。詳しい説明は後日に譲るとして、終戦後、練習生達はそれぞれ復員して故郷に帰ったのだが、台湾、満州(当時の呼称)沖縄など、外地から来て親の所在も判らなくなり残った練習生が十数人いた。
それらの練習生が戦後のある時期、予科練の跡地を開墾し自給自足の生活をした事があった。それらの面倒を見た人物が戦時中司令長官だった、U大佐であった。
実はM先生はU大佐の三人ある娘のうちの長女だったのである。
U大佐は自分の家族を東京から呼び寄せ練習生と暮らし、その後彼らが順々に復員した後も故郷に帰らず、ついに宇和島の人となったのである。
住まいは橋のたもとにあった当時の「白石商店」の裏手にあったそうだ。
この事を知り、後は私の想像である。
M先生は戦後の混乱期の中で経験した諸々の事、物や食べ物を大切にしないといけないことなど、特に当時先生の思い出の地である予科練の向うから通ってくるまーきみ。に教えようとしたのではないか。
甚だ穿った考えで恐縮だが、そうやって考えてみると私が怒られたわけも少し納得できるのである。
運動場に転がっていた土で汚れたカップを蹴ったくらいで、今の先生が生徒を呼びつけて怒ったりするだろうかと
卒業後数十年を経過して、子供の頃に怒られた事の意味を悟る。嬉しいような恥ずかしいような話である。
最後まで読んでくれた方。ありがとうございました。

予科練があった事を示す記念碑。ひにちは忘れたが、毎年元練習生がここに集まっている。
もう数十年前に卒業したが、卒業後、10年くらい経って「もう、鶴島小学校が無くなるらしい。老人施設になるんやと」と言う噂が立った。
後日根も葉もないデマだと判ったのだが、この噂を聞いたとき何ともいえない寂しさが込み上げたのを今も覚えている。
最近、魚神山小学校、僧都小中学校のうち、中学校が廃校となった。在校生ならびに卒業生の心中察するに余りある。
さて、小学校の時分、多分5~6年生だったと思ったが、M先生という女の先生に呼び止められ、咎められたたことがあった。
理由は「運動場に落ちていた水飲み用のカップ(アルミ製)を蹴った」と言うことであった。
言われてみて思い出した、かすかにそんな事をした記憶があった。・・・はるか30分ほど前に・・
「都合の悪いことは3歩歩いたら忘れる」を身上としていたまーきみ。少年に既に時効が成立したと思われる30分も前の事を持ち出す先生もどうかしてる。。。と渋々聞いていたのだが。
後で思うと不思議だが、先生は受け持ちの学年も違う、ほとんど話した事もないのに私の名前をどうして知っていたのだろう?
当時鶴島小学校には一学年100人以上は居た筈である。
まさか私のブログを見ていた訳ではあるまい。
M先生の思い出その2
明倫町のある駄菓子屋に行った時の事、店のおばさんとM先生が話していた。聞くとも無く聞こえてくる会話は、こうであった。
昨日三人ほどで店に来た小学生が「仮面ライダースナック」というのを買い、そのおまけのカードだけ取ってお菓子は店のゴミ箱に捨ててしまった。それを見たおばさんは「もったいないことをするな」と咎めたが小学生達はそのまま帰ってしまったと言う。
これは「仮面ライダースナック事件」と言って当時小学生の間に全国的に派生し大きな社会問題となっていた。ご記憶の方も多いと思う。
店のオバサンは、そんな事をする子供が信じられない。お金や食べ物をなんと思っているのか?親の金でもくすねているのではないのか?と言う相談だった。
神妙に聞いていた先生は、ややあって
「まーきみ。お前もライダースナックを買いにきたんか?」
「ちがいまーーす」
私は当時、仮面ライダーより「ネコジャラ市の11人」のシーラの貫太郎のファンだったのだが。
M先生について記憶していることと言えば、行事のたびに司会を勤めておられた事だ。
そしてすごく美人だった。八千草薫と黒木瞳の良いとこばかりが調和したような風貌と凛とした気品があった。
私がM先生と話したことといえば、それくらいで卒業してから後は、それすらも忘れてしまっていた。
それが数年前、一冊の本を読んでいて鮮やかに思い出したのである。
図書館で借りた「板島橋」と言う本、作者は宇和島市出身の木下博民先生という80も半ばを越えて尚お元気な方である。
板島橋を説明するにはどうしてもその先にある今の坂下津産業団地の前身「宇和島海軍航空隊」通称「予科練」の話をしなければならない。
予科練は名の通り、戦時中、現代の中高生位の年齢の人に軍事教練を施した海軍の施設である。詳しい説明は後日に譲るとして、終戦後、練習生達はそれぞれ復員して故郷に帰ったのだが、台湾、満州(当時の呼称)沖縄など、外地から来て親の所在も判らなくなり残った練習生が十数人いた。
それらの練習生が戦後のある時期、予科練の跡地を開墾し自給自足の生活をした事があった。それらの面倒を見た人物が戦時中司令長官だった、U大佐であった。
実はM先生はU大佐の三人ある娘のうちの長女だったのである。
U大佐は自分の家族を東京から呼び寄せ練習生と暮らし、その後彼らが順々に復員した後も故郷に帰らず、ついに宇和島の人となったのである。
住まいは橋のたもとにあった当時の「白石商店」の裏手にあったそうだ。
この事を知り、後は私の想像である。
M先生は戦後の混乱期の中で経験した諸々の事、物や食べ物を大切にしないといけないことなど、特に当時先生の思い出の地である予科練の向うから通ってくるまーきみ。に教えようとしたのではないか。
甚だ穿った考えで恐縮だが、そうやって考えてみると私が怒られたわけも少し納得できるのである。
運動場に転がっていた土で汚れたカップを蹴ったくらいで、今の先生が生徒を呼びつけて怒ったりするだろうかと
卒業後数十年を経過して、子供の頃に怒られた事の意味を悟る。嬉しいような恥ずかしいような話である。
最後まで読んでくれた方。ありがとうございました。

予科練があった事を示す記念碑。ひにちは忘れたが、毎年元練習生がここに集まっている。
2008年02月20日
気配りのすすめ
椿さんが過ぎ、えんま様を迎えます。
一番寒く、また春の芽吹きを感じる頃。

避寒桜がきれいに咲いていました。
しかし、今年は寒い。灯油の消費量が半端じゃないぞ。値段が高いから余計そう感じるのか。
ところで、この寒さには防寒対策が必要ですね。省資源のためにも「重ね着」が有効でしょう。
女性は男性より薄着をしてるような印象がありますが、あのインナー用のネルの長袖のシャツ。
「OL進化論」のジュンちゃんや久美子ちゃんは、あのインナーを
「ババシャツ」
と呼んでいました。
若い女性の方々、そう、今PCの前でこれを読んでる女性はすべて当てはまりますが・・
しかし、すでにご存知かもしれませんが、この ババシャツ間違っても、
本物のバ・
いえ、その、あの、
「自分より、ちょっとでもおねーさん♪」
の前では言わないようにしましょう。
このおきてを破って、村八分になりかけた人が、私の周りに実際にいます。
結局は許してもらったんですけどね。
やはり、女性は基本的には優しいのです。(ここ、試験に出ますよ!)
話は続きます。
仕事の途中でお客様同士が下記の会話をしてました。どうもへアーマニュキュアの話のようです。
「年を取って、体がえろぉなると、髪の事なんてどうでも、ようならい」
「なぁ、まーきみ。さん?」
いきなり振られた私は、つい
「そうですよねーーー」といってしまいそうになります。
しかしこれは不正解
留守ヶ台予備校模範解答例
「いえいえ、奥様方のように美しい方に限ってそうおっしゃいます」(きっぱり)
そういったら、笑っておられましたがしかし、満足そうでした。
(やったね!)
次は失敗例
私の母親の事を、仕事先では謙譲のいみを込めて
「うちの、ばーさん、ばーさん」と呼んでいました。
ある日、そこの奥様が
「まーきみ。さんのお母さん、幾つになるン?」
「あーええと、〇〇歳になるはずです!」
「わたしと2つしか変わらんやん・・」
明らかにご不快な顔色
Σ(ノ°▽°)ノハウッ!
夏目漱石の「坊ちゃん」には、言葉だけ捉えれば、松山の人にすっごく失礼な部分もあるかもですが、
それらを踏まえても尚、愛されているのは、漱石本人の「純粋でまっすぐ」な気性を感じての事ではないかと思います。
松山の人を、騙したりいじめたりしたわけじゃないもんね。
なんだかんだといっても誠意が一番であることは言うまでもありません。
わかっとるんか!まーきみ。!
「忠誠以て人に接す」(吉田高校〃訓)
一番寒く、また春の芽吹きを感じる頃。

避寒桜がきれいに咲いていました。
しかし、今年は寒い。灯油の消費量が半端じゃないぞ。値段が高いから余計そう感じるのか。
ところで、この寒さには防寒対策が必要ですね。省資源のためにも「重ね着」が有効でしょう。
女性は男性より薄着をしてるような印象がありますが、あのインナー用のネルの長袖のシャツ。
「OL進化論」のジュンちゃんや久美子ちゃんは、あのインナーを
「ババシャツ」
と呼んでいました。
若い女性の方々、そう、今PCの前でこれを読んでる女性はすべて当てはまりますが・・
しかし、すでにご存知かもしれませんが、この ババシャツ間違っても、
いえ、その、あの、

「自分より、ちょっとでもおねーさん♪」
の前では言わないようにしましょう。
このおきてを破って、村八分になりかけた人が、私の周りに実際にいます。
結局は許してもらったんですけどね。
やはり、女性は基本的には優しいのです。(ここ、試験に出ますよ!)

話は続きます。
仕事の途中でお客様同士が下記の会話をしてました。どうもへアーマニュキュアの話のようです。
「年を取って、体がえろぉなると、髪の事なんてどうでも、ようならい」
「なぁ、まーきみ。さん?」
いきなり振られた私は、つい
「そうですよねーーー」といってしまいそうになります。
しかしこれは不正解
留守ヶ台予備校模範解答例
「いえいえ、奥様方のように美しい方に限ってそうおっしゃいます」(きっぱり)
そういったら、笑っておられましたがしかし、満足そうでした。
(やったね!)
次は失敗例
私の母親の事を、仕事先では謙譲のいみを込めて
「うちの、ばーさん、ばーさん」と呼んでいました。
ある日、そこの奥様が
「まーきみ。さんのお母さん、幾つになるン?」
「あーええと、〇〇歳になるはずです!」
「わたしと2つしか変わらんやん・・」
明らかにご不快な顔色
Σ(ノ°▽°)ノハウッ!
夏目漱石の「坊ちゃん」には、言葉だけ捉えれば、松山の人にすっごく失礼な部分もあるかもですが、
それらを踏まえても尚、愛されているのは、漱石本人の「純粋でまっすぐ」な気性を感じての事ではないかと思います。
松山の人を、騙したりいじめたりしたわけじゃないもんね。
なんだかんだといっても誠意が一番であることは言うまでもありません。
わかっとるんか!まーきみ。!
「忠誠以て人に接す」(吉田高校〃訓)
2008年02月18日
行きたいけれど、行けてないところ。
この正月に、久々に足摺岬に行こうと思って結局行けなかった。
もう、何年も行ってない。前はよく行ってたのにね。(ヒマだったから?)
足摺のみやげ物の前で、「小鯵のみりん干」の試食コーナーがあった。
みりん干と、隣に七輪が置いてあった。
焼きながら、食べると言う趣向なのだろう。
シャイな都会人、まーきみ。はそんな田舎の風習になじめず、遠巻きに見ていた。
おもむろに一匹、さらに一匹、七輪の網、所狭しと焼きまくるまーきみ。
一緒に来た子供達が、寄って来たぞ・・
「このサカナは、おっちゃん(まーきみ。)のやけん、とったらいけんで~~」
子供も、負けていない。自分でサカナを取って、
「これは、Sちゃん(自分の名前)の!取ったらいけんよ!」
「じゃーこれはH君の~~」
いあ。それは店のだろう・・・そんなツッコミが脳裏をよぎった・・もう遅い。
たちまち奪い合いが始まった。
ったく、親の顔が見てみたい。
おまえだろ~~!
子供は親の背中を見て育つと言うが、他人の子も大勢いたぞ。
ここは四国のエネルギースポット
心の掃除をしてくれる場所。
(説得力ないし・・)

わりと簡単に登れた(若かったから?)唐人石

はるか太平洋を臨む「白山洞門」

私たちがたってた石は、ここです。
もう、何年も行ってない。前はよく行ってたのにね。(ヒマだったから?)
足摺のみやげ物の前で、「小鯵のみりん干」の試食コーナーがあった。
みりん干と、隣に七輪が置いてあった。
焼きながら、食べると言う趣向なのだろう。
シャイな都会人、まーきみ。はそんな田舎の風習になじめず、遠巻きに見ていた。
なーこた、ありえねーーー!!
おもむろに一匹、さらに一匹、七輪の網、所狭しと焼きまくるまーきみ。
一緒に来た子供達が、寄って来たぞ・・
「このサカナは、おっちゃん(まーきみ。)のやけん、とったらいけんで~~」
子供も、負けていない。自分でサカナを取って、
「これは、Sちゃん(自分の名前)の!取ったらいけんよ!」
「じゃーこれはH君の~~」
いあ。それは店のだろう・・・そんなツッコミが脳裏をよぎった・・もう遅い。
たちまち奪い合いが始まった。
ったく、親の顔が見てみたい。
おまえだろ~~!
子供は親の背中を見て育つと言うが、他人の子も大勢いたぞ。
ここは四国のエネルギースポット
心の掃除をしてくれる場所。
(説得力ないし・・)

わりと簡単に登れた(若かったから?)唐人石

はるか太平洋を臨む「白山洞門」

私たちがたってた石は、ここです。
2008年02月15日
テルミーをギブミー
ある日
森の中~~
・・・失礼しました。
以前、庭ですっ転んで、商売道具の手を骨折してしばらく休養したことがありました。
そのとき、イセキさんがテルミーという温熱療法をしに、わざわざ来てくださりました。(イセキさんって誰だ?
)
イセキさんは牧場の人です。ますますわからん!

まーきみ。の治療室に厳かに置かれるベット

のんきそうに施術を受ける、まーきみ。

テルミーのアイテム一覧。
おかげさまで、体調も戻り、その後無事に復帰しました。
もう数年前の事。イセキさんありがとうございました。
森の中~~
・・・失礼しました。

以前、庭ですっ転んで、商売道具の手を骨折してしばらく休養したことがありました。
そのとき、イセキさんがテルミーという温熱療法をしに、わざわざ来てくださりました。(イセキさんって誰だ?
)イセキさんは牧場の人です。ますますわからん!

まーきみ。の治療室に厳かに置かれるベット

のんきそうに施術を受ける、まーきみ。
テルミーのアイテム一覧。
おかげさまで、体調も戻り、その後無事に復帰しました。
もう数年前の事。イセキさんありがとうございました。



