2008年09月25日
イカ放置事件!まーきみ。社員奮戦す!
はこさんのブログに書いたコメントへの返事で「イカ放置事件」をブログに書いてみたら?」と言われてあれこれ思い出に浸ってると、懐かしい話が次々思い出されたので、個人的なことで恐縮だが思いつくままにあれこれかいてみようと思った。

名古屋市南区岩戸町
わたしの会社はそこにあった。
今は移転して、その場所は駐車場になっているはず。
25年ほど昔、お盆休みが明けた頃、社員約20名の小さな事務所でその事件は起こった。
私は「お盆休み」と言ったが実際この会社はお盆休みと言うものは存在しなかった。
会長が名古屋市役所職員であった名残か、万事市役所風で、役所と同じく会社としての夏季休業は無かった。
その代わり各々が交代で一週間ほどの休みを7~8月の間に取るのが通例になっていた。
余談だが
ある年の夏、各社員の休暇希望一覧表に、ある男女の休暇取得日が全く同じになってるのを見て折角完璧だった「おきて破りの社内恋愛」がばれてしまうと言うケースも実際起こった。
上手の手から水が漏れると言うやつだ。これについても面白いエピソードがあるのだがそれは後日に譲る。
当然の事ながら、お盆時期は休みの時期は希望者が殺到したが、唯一県外に実家がある私は
「まーきみ。社員は、元気な姿をご両親にみせたらなあかんわぁ」と言う情のある上司のお言葉で、優先的にお盆時期の一週間に休みを頂いた。
その上、航空券が中々取れないのを聞いた社長がわざわざ懇意の旅行社に電話をかけてくれたりした。
K社長「もしも~~し、うちの社員がさぁお盆に愛媛に帰たにゃならんのに、航空券が取れへん言うとるんだわぁ。あんた申し訳ないけど、一枚用意してちょ・・・なに!!取れんかもしれん!あかん!絶対取れ!ええか!・・ガチャン!」
K社長「まーきみ。社員、取れたそうだわ・・」
まーきみ。社員 w( ̄o ̄)w オオー!
そうやって、上司の温情で無事にお盆休みを実家で過ごし、帰ってきてすぐの時期だった。
仕事でお付き合いのあったF建設さんが確か北陸あたりのお土産だといって、ある土曜日の午後に大きなイカの一夜干を持ってきて下さった。
当時、土曜日は半ドンでほとんどの社員が帰り、残業をしていたK課長と私と同期のJ君、先輩のSさんと「お茶ガラでお手柄T専務(後社長、故人)それにF建設さんがいた。
他の会社では信じられないことだが、こんな場合必ずといって良いほどK課長が、にやりとして
「おめぇら、なんだぁ~お客さんが来とるのに、ビールも買いに行かんとは何事だぁ~」
と、のたまう。
そう、K課長は、いやこの会社は、まーきみ。社員を除けば大の酒飲みだった。
残業が終われば、近くの酒屋と市場に買出しにやらされ、セコムから電話がかかってくる深夜まで飲み明かすのが通例になっていた。
一度など、玄関に飲み干したビールのケースが山積になり、社長からお小言を頂戴したくらいだった。
その日は、F建設さんのおみやげの一夜干を給湯室のガスで焼いたのが事の外美味で、あまり飲めない私を含めて深夜まで飲み明かした。
そしてそのまま全部、完食したら問題なかったのだが・・・・
かなり酔ったK課長が、一枚残ったイカを指差し
「これは家に持って帰っておかーちゃんと娘に食べささにゃならんで、焼いちゃ行かんぞ!」と言明した。
もちろん上司の業務命令は絶対である。
間違って食べられないように一枚別に取り置きして、給湯室の水屋の上に置いた。
確かに置いたのは私だったような記憶が有るが定かでない。
そして、大いに飲んで怪気炎を上げた上司は、そのまま(イカを持たず)家のある瀬戸市まで帰って行った。
そして、何もかも忘れた月曜日、一番に出社してきた私が件の給湯室をあけたとき・・
ちなみに日曜日は雲ひとつ無い上天気で尚且つ給湯室は西日のまともに当たる部屋だった。
そんな所に置かれた一夜干のイカがどんな事態になるか、もし少しでも同じような経験のある人なら想像できるだろう。
私はバタンと戸を閉めて、そのまま記憶を消去してしまい衝動に駆られた。
しかし、こう見えても私は当時「真実から目を逸らさない青年」だった。そして困難に自ら立ち向かう気概もあった。
気概はこんなんよ♪などと下らないギャグで己と世間をごまかすようになったのはずっと後年のことである。
私はまず、件のイカ本体を新聞に何重にも包み、焼却炉に投げ込んだ。
そして換気扇を全開にした。この換気扇はその少し後に起った隣家の火事でお釈迦になってしまったが、もし、その時この換気扇が無かったらと今から思うと身の毛もよだつ思いである。
世間知らずのまーきみ。社員は、匂いの元のイカが無くなった事、換気をしてることで、時間がたてば全てが解決すると思い込んでいた。
そして、そのまま始業時間を待った。
社員が一人、また一人と出社する。
匂いは消えるどころか部屋中に広がっている。
しかし、身に覚えのある者も、そうでない者も、みな一様に黙して語らない。
この「知ってて黙する」と言うのが今思えばこの会社の、あまり自慢できない社風であると思う。
私の同期で現在社長になっているJ君は、この社風に逸早く気づいた一人であるのでもちろん「関係ないね!」と柴田恭兵を決め込んでいる。
遅れて出社したK課長の耳元で、私が全ての顛末を話すとシラーっとした顔で彼は、
「なんだぁ~おめぇ~~全部食っちまえって言ったがやぁ~」
Σ(゚д゚;) ヌオォ!?
全く、すっとぼけるには名古屋弁と言うものは至極重宝なものであると、名古屋に来て数年の、未だに三河弁が抜けない私は恨めしく思っただらぁ。
要するにこの場合、
「言いだしっぺが全ての責任を負う」
と言う暗黙の社風が私を冷ややかに覆って行った。
その内、給湯室第一担当OL先輩が出社してきた。
(後輩である第二担当OLはまだ入社してなかったと思う)
OL先輩は、当時27~8歳の仕事も趣味の海外旅行もバリバリの女性であった。
私より5~6最年長でなんとなく、気が置ける先輩だった。
今にして思えば、やさしく親切にしてもらった記憶しか残っていないが、このときの彼女の引きつった顔を一生忘れないだろう。
彼女の朝一番の仕事はお茶を入れて各社員に配ることだった。
しかしながら、給湯室に入った彼女はその日、昼休みまで給湯室を出てくることは無かった。
「しゃかしゃか・バンバン・ガガガッガガー」
食器や台所用品の、どこをどうやったらそんな音が出るのだろうと思うくらい、鬼気迫る音が回りに響いた。
しかし、社員の誰もが口を開くことは無かった。
責任の一端(と言うかほとんど)を持たされていると言う自覚のあるまーきみ。は、もちろんその朝お茶が出ないことなんか何でもなかった。
誰もがこのまま時間が去って、何もかもが潜在意識の底に沈んでいくのを静かに祈っていた。
あぁその時、一番年長の御大社員がただ一人、事情を知らずに私に向かってこう言った。
「あ~まーきみ。社員、お茶はどうしただぁ?おめぇさん入れて来い!」
あーよりによって私をご指名とは、他に新入社員は2人居るのに・・仕方ない、私の席は御大の目の前なのだ。
恐る恐る給湯室の扉をあける私の苦悩がご理解いただけるだろうか?
その時目にした彼女の姿をここで語ることはあえて控えたいと思う。
と言うかありがたいことに数十年の時間はほとんど記憶から消えてしまった。
ただ、一言謝った私に腹の底から搾り出すような低い声で
「誰がやったの!」
Σ(・ω・ノ)ノ!
と言う声は忘れられない・・
凍りついた私は、何一つ隠さず白状に及んだ。
「F建設さんが、K課長のお土産にと・・」
「・・・・そう・・怒ってやらんといかんねぇ」
「怒ってやる」
はこの場合の文脈では当然「F建設さんとK課長」に掛かる言葉だと理解する。
しかし、その時OL先輩の怒りはただ一人私に向いていたことは明白である。
その後、どうやってその狭い給湯室で彼女の「ガジャガジャ、ガガッガガー」攻撃を避けながら人数分のお茶を入れたか覚えてはいない。
彼女の奮闘むなしく、給湯室の悪臭はしばらく消えることは無かったが。。。
そして、社員一同その話題に触れることは耐えてなかった。
それから数日たったある晩、残業が終わったらしいT専務が普段は入ったことの無い給湯室に自ら入っていった。
そして、ジャカジャカと何かを燻す音がした。
不審に思った私がドアを開けてみるとT専務が
「わしの田舎ではな、こうやったら匂いが消えるってやってたわ」
T専務の実家は確か熊本県だと聞いた。
その直後、お茶の芳香は辺りを包み、腐ったイカ特有のにおいは徐々にに薄れていった。
しかし、OL先輩の顔に笑顔が戻るにはしばらく時間が掛かったように思う。
黙々とお茶ガラを炒るT専務の行動を見た張本人のK課長は涼しい顔で、こう言った。
「T専務、さすがに責任を感じとらっせるねぇ!」
「一番反省するのはK課長だぎゃ!」\(*`∧´)/ ムッキー!!
私は心の中でそっとつぶやいた。
私のいた会社は当時「日本で二番目に長い名前の会社」と言われていた。
うちの会長は変わっていた。
と言うか豪傑だった。
部長が若い頃、会長(当時社長)に、車を買って来いと言われて
早速ディーラに行って値段交渉
散々値切って、値切り倒して意気揚々と社長に報告した。
「社長!これだけ値切りました!」
すると会長は顔を真っ赤にして怒鳴ったそうな。
「たわけぇ!相手も商売だのに、なんて事するだぁ!言い値で買って来い!」
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名古屋市南区岩戸町
わたしの会社はそこにあった。
今は移転して、その場所は駐車場になっているはず。
25年ほど昔、お盆休みが明けた頃、社員約20名の小さな事務所でその事件は起こった。
私は「お盆休み」と言ったが実際この会社はお盆休みと言うものは存在しなかった。
会長が名古屋市役所職員であった名残か、万事市役所風で、役所と同じく会社としての夏季休業は無かった。
その代わり各々が交代で一週間ほどの休みを7~8月の間に取るのが通例になっていた。
余談だが
ある年の夏、各社員の休暇希望一覧表に、ある男女の休暇取得日が全く同じになってるのを見て折角完璧だった「おきて破りの社内恋愛」がばれてしまうと言うケースも実際起こった。
上手の手から水が漏れると言うやつだ。これについても面白いエピソードがあるのだがそれは後日に譲る。
当然の事ながら、お盆時期は休みの時期は希望者が殺到したが、唯一県外に実家がある私は
「まーきみ。社員は、元気な姿をご両親にみせたらなあかんわぁ」と言う情のある上司のお言葉で、優先的にお盆時期の一週間に休みを頂いた。
その上、航空券が中々取れないのを聞いた社長がわざわざ懇意の旅行社に電話をかけてくれたりした。
K社長「もしも~~し、うちの社員がさぁお盆に愛媛に帰たにゃならんのに、航空券が取れへん言うとるんだわぁ。あんた申し訳ないけど、一枚用意してちょ・・・なに!!取れんかもしれん!あかん!絶対取れ!ええか!・・ガチャン!」
K社長「まーきみ。社員、取れたそうだわ・・」
まーきみ。社員 w( ̄o ̄)w オオー!
そうやって、上司の温情で無事にお盆休みを実家で過ごし、帰ってきてすぐの時期だった。
仕事でお付き合いのあったF建設さんが確か北陸あたりのお土産だといって、ある土曜日の午後に大きなイカの一夜干を持ってきて下さった。
当時、土曜日は半ドンでほとんどの社員が帰り、残業をしていたK課長と私と同期のJ君、先輩のSさんと「お茶ガラでお手柄T専務(後社長、故人)それにF建設さんがいた。
他の会社では信じられないことだが、こんな場合必ずといって良いほどK課長が、にやりとして
「おめぇら、なんだぁ~お客さんが来とるのに、ビールも買いに行かんとは何事だぁ~」

と、のたまう。
そう、K課長は、いやこの会社は、まーきみ。社員を除けば大の酒飲みだった。
残業が終われば、近くの酒屋と市場に買出しにやらされ、セコムから電話がかかってくる深夜まで飲み明かすのが通例になっていた。
一度など、玄関に飲み干したビールのケースが山積になり、社長からお小言を頂戴したくらいだった。
その日は、F建設さんのおみやげの一夜干を給湯室のガスで焼いたのが事の外美味で、あまり飲めない私を含めて深夜まで飲み明かした。
そしてそのまま全部、完食したら問題なかったのだが・・・・

かなり酔ったK課長が、一枚残ったイカを指差し
「これは家に持って帰っておかーちゃんと娘に食べささにゃならんで、焼いちゃ行かんぞ!」と言明した。
もちろん上司の業務命令は絶対である。
間違って食べられないように一枚別に取り置きして、給湯室の水屋の上に置いた。
確かに置いたのは私だったような記憶が有るが定かでない。
そして、大いに飲んで怪気炎を上げた上司は、そのまま(イカを持たず)家のある瀬戸市まで帰って行った。
そして、何もかも忘れた月曜日、一番に出社してきた私が件の給湯室をあけたとき・・
ちなみに日曜日は雲ひとつ無い上天気で尚且つ給湯室は西日のまともに当たる部屋だった。
そんな所に置かれた一夜干のイカがどんな事態になるか、もし少しでも同じような経験のある人なら想像できるだろう。
私はバタンと戸を閉めて、そのまま記憶を消去してしまい衝動に駆られた。
しかし、こう見えても私は当時「真実から目を逸らさない青年」だった。そして困難に自ら立ち向かう気概もあった。
気概はこんなんよ♪などと下らないギャグで己と世間をごまかすようになったのはずっと後年のことである。
私はまず、件のイカ本体を新聞に何重にも包み、焼却炉に投げ込んだ。
そして換気扇を全開にした。この換気扇はその少し後に起った隣家の火事でお釈迦になってしまったが、もし、その時この換気扇が無かったらと今から思うと身の毛もよだつ思いである。
世間知らずのまーきみ。社員は、匂いの元のイカが無くなった事、換気をしてることで、時間がたてば全てが解決すると思い込んでいた。
そして、そのまま始業時間を待った。
社員が一人、また一人と出社する。
匂いは消えるどころか部屋中に広がっている。
しかし、身に覚えのある者も、そうでない者も、みな一様に黙して語らない。
この「知ってて黙する」と言うのが今思えばこの会社の、あまり自慢できない社風であると思う。
私の同期で現在社長になっているJ君は、この社風に逸早く気づいた一人であるのでもちろん「関係ないね!」と柴田恭兵を決め込んでいる。
遅れて出社したK課長の耳元で、私が全ての顛末を話すとシラーっとした顔で彼は、
「なんだぁ~おめぇ~~全部食っちまえって言ったがやぁ~」
Σ(゚д゚;) ヌオォ!?
全く、すっとぼけるには名古屋弁と言うものは至極重宝なものであると、名古屋に来て数年の、未だに三河弁が抜けない私は恨めしく思っただらぁ。
要するにこの場合、
「言いだしっぺが全ての責任を負う」
と言う暗黙の社風が私を冷ややかに覆って行った。

その内、給湯室第一担当OL先輩が出社してきた。
(後輩である第二担当OLはまだ入社してなかったと思う)
OL先輩は、当時27~8歳の仕事も趣味の海外旅行もバリバリの女性であった。
私より5~6最年長でなんとなく、気が置ける先輩だった。
今にして思えば、やさしく親切にしてもらった記憶しか残っていないが、このときの彼女の引きつった顔を一生忘れないだろう。
彼女の朝一番の仕事はお茶を入れて各社員に配ることだった。
しかしながら、給湯室に入った彼女はその日、昼休みまで給湯室を出てくることは無かった。
「しゃかしゃか・バンバン・ガガガッガガー」
食器や台所用品の、どこをどうやったらそんな音が出るのだろうと思うくらい、鬼気迫る音が回りに響いた。
しかし、社員の誰もが口を開くことは無かった。
責任の一端(と言うかほとんど)を持たされていると言う自覚のあるまーきみ。は、もちろんその朝お茶が出ないことなんか何でもなかった。
誰もがこのまま時間が去って、何もかもが潜在意識の底に沈んでいくのを静かに祈っていた。
あぁその時、一番年長の御大社員がただ一人、事情を知らずに私に向かってこう言った。
「あ~まーきみ。社員、お茶はどうしただぁ?おめぇさん入れて来い!」
あーよりによって私をご指名とは、他に新入社員は2人居るのに・・仕方ない、私の席は御大の目の前なのだ。
恐る恐る給湯室の扉をあける私の苦悩がご理解いただけるだろうか?
その時目にした彼女の姿をここで語ることはあえて控えたいと思う。
と言うかありがたいことに数十年の時間はほとんど記憶から消えてしまった。
ただ、一言謝った私に腹の底から搾り出すような低い声で
「誰がやったの!」

Σ(・ω・ノ)ノ!
と言う声は忘れられない・・
凍りついた私は、何一つ隠さず白状に及んだ。
「F建設さんが、K課長のお土産にと・・」
「・・・・そう・・怒ってやらんといかんねぇ」

「怒ってやる」
はこの場合の文脈では当然「F建設さんとK課長」に掛かる言葉だと理解する。しかし、その時OL先輩の怒りはただ一人私に向いていたことは明白である。
その後、どうやってその狭い給湯室で彼女の「ガジャガジャ、ガガッガガー」攻撃を避けながら人数分のお茶を入れたか覚えてはいない。
彼女の奮闘むなしく、給湯室の悪臭はしばらく消えることは無かったが。。。
そして、社員一同その話題に触れることは耐えてなかった。
それから数日たったある晩、残業が終わったらしいT専務が普段は入ったことの無い給湯室に自ら入っていった。
そして、ジャカジャカと何かを燻す音がした。
不審に思った私がドアを開けてみるとT専務が
「わしの田舎ではな、こうやったら匂いが消えるってやってたわ」
T専務の実家は確か熊本県だと聞いた。
その直後、お茶の芳香は辺りを包み、腐ったイカ特有のにおいは徐々にに薄れていった。
しかし、OL先輩の顔に笑顔が戻るにはしばらく時間が掛かったように思う。
黙々とお茶ガラを炒るT専務の行動を見た張本人のK課長は涼しい顔で、こう言った。
「T専務、さすがに責任を感じとらっせるねぇ!」
「一番反省するのはK課長だぎゃ!」\(*`∧´)/ ムッキー!!
私は心の中でそっとつぶやいた。
私のいた会社は当時「日本で二番目に長い名前の会社」と言われていた。
うちの会長は変わっていた。
と言うか豪傑だった。
部長が若い頃、会長(当時社長)に、車を買って来いと言われて
早速ディーラに行って値段交渉
散々値切って、値切り倒して意気揚々と社長に報告した。
「社長!これだけ値切りました!」
すると会長は顔を真っ赤にして怒鳴ったそうな。
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2008年09月20日
ひらけ!ちゅーりっぷ!
おことわり。

それわ・・・
本日のブログには、パチンコに関する情報が多く含まれています。
下記の方は、当店ブログへの入場を固く固くお断り申し上げます。
パチンコ嫌いな方
パチンコをやめようと決心してる方
18歳未満の方
まーきみ。の過去を知りたい方。
明るいブロガー、紳士淑女の社交場!
一筆入魂 書き込みますコメントに、返しますレスポンス!チューリップ!
さあ!あなたも日ごろの鍛えられたそのセンスで、ジャンジャンバリバリ、ジャンジャンバリバリお書き込みください。
読まずに帰る。
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それわ・・・

本日のブログには、パチンコに関する情報が多く含まれています。
下記の方は、当
パチンコ嫌いな方
パチンコをやめようと決心してる方
18歳未満の方
まーきみ。の過去を知りたい方。明るいブロガー、紳士淑女の社交場!
一筆入魂 書き込みますコメントに、返しますレスポンス!チューリップ!

さあ!あなたも日ごろの鍛えられたそのセンスで、ジャンジャンバリバリ、ジャンジャンバリバリお書き込みください。
読まずに帰る。
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タグ :パチンコ
2008年08月31日
王様の労働争議
8月なのにもう涼しくなりましたね。
そろそろ「いもたき」の季節になります。
この季節になると思い出すのは
パチンコですね。
なんでやねん・・・

その昔、こんな店の前に立つとたまらなくエキサイティングになった。
単に、この季節に初めてパチンコしたって事だけですけどね。
パチンコ店での思い出話は尽きないですが、今日思い出したのはストッキングの思い出です。
パチンコとストッキング、どんな関連が・・
もう、15年くらい前になりましょうか、よく行ってたパチンコ店に日曜日になると朝から来る2人連れのおばあさんがいました。
そのうち1人は盲目で、パチンコをするのは主にその方でした。もう一人のおばあさんは、そばで見守りながら、色々と世話を焼いていました。
その盲目の老婆は、決まって打つ台がありました。
パチンコ店では、今はどうだか知りませんが、当時は
「一人の人が毎日決まって打つ台は、取らない」という暗黙の了解がありました。
(それは常連同士の言わばマナーのようなもので、事情を知らない人はこの限りでない)
ある日の日曜、私はその盲目の老婆が何時も打つ台であることを知りながら、その日に限って姿を見せないので、今日はもう来ないのだろうと思ってその台を打ち始めました。
「200円で食いついて全開、しかも連チャンにつぐ連チャンでもうボロボロ・・」
そうです、年に何回かある大勝パターンでした。
と、その時!
気配を感じ、後ろを見てみると例の2人連れ老婆が来ているではありませんか。
その日に限って遅れてきた二人は、心なしか、私のほうを恨めしそうにじっと見ているような気がしました。
そして、私がその台を離れる気がないのを悟るとそっと帰って行ったのです。
いささか、後ろめたい気がしたまーきみ。
その話を翌日、同僚に話すと
「目の不自由な人が、せっかく見つけた台を取るなんて、お前はなんてひどいヤツじゃ!パチンカーの風上にも置けんヤツじゃ!」
と、まさに罵詈雑言の南予人。
深く反省した私は、宇和島のパチンカーをやめて心機一転宇和島本舗のブロガーになりましたとさ。
と、言うのはもちろんずっと後年の事ですが・・・
さて、人の縁とは不思議なものでその後、私は盲目の老婆の連れと親しく話すようになりました。
きっかけは、その老婆が、「N夫人」と言う、やはり昔から親しいパチンカーの共通の知り合いだと判ったからでした。
私は彼女に会うとと、決まってこうはなしかけます。
「おばちゃん!N夫人は まだ元気なかな!」
「あぁ。今朝も会ぅたけど元気やったで」
「なんな!まだ元気なてな?そがいに毎日元気でたまるかい!たまには弱った顔でもすりゃ、カワイゲがあるのになぁ!わしがそがい言いよった言うとってや!」
「そがいな・・アンタ・・気の毒な事を・・・あはははは」
私は、N夫人ともN氏とも、お互い遠慮のない間柄でしたのでそんな冗談を言いながら良く笑いあったものでした。
ところで、パチンコには、「営業割り数」と言うものがありましす。
たとえばパチンコの玉を借りる時は100円で25個
景品交換はパチンコ40個で100円(消費税があり実際は41個・当時)
この場合「営業割り数」は40÷25=16割となり、店側は出す玉を、貸した玉の160%以内に抑えなければ「赤字」と言う事になり、釘調整の一つの目安となります。
つまり40個(税別実際は41個)の玉を、返すと100円の景品(通常は現金に交換できるもの)を貰いますが、それ以下の端数の場合、個数に合わせてチョコや飴玉などの小額の景品をくれる事になります。(ただ販売価格は100円を上回るものもありますが。)
ある日、景品に交換した端数の玉で、通常はチョコレートなどをくれる所が、その日に限ってもらったものがなんと
「パンティーストッキング」
じゃ~あ~りま温泉!
しかし、男にパンストをくれる店員のセンスって一体・・・
冷静になって考えれば、店員に「他のものと代えてくれ」と言えば済むのですが、普段手にする事の無い物を見て、いささかうろたえていたものと思います。
そのまま、それを持ったまま再び店内に戻っていきました。
これをどおする・・・・
このまま持ってるのもなんだし・・・
ポケットに突っ込むと言うのもなんだかな・・・
そう、ブツブツ言いながら、夢遊病者のように数歩、歩いた時、件の老婆の前に来ました。
その時、頭の中に名案が!「
そうだ!
おばちゃんにやったらええわい!
「おばちゃ~ん、これ余り球でもろたけんど、わしには使えん物やけんあげらい!」
そういって差し出すと、おばちゃんは意外な事に顔を赤らめてオロオロし始めました。。。
「そがいなええもん、もらえるかな!奥さんにあげさいや!」
「それがなーわし、かーちゃんにナイショできとるけん、持って帰れんのよーたのむけん、もろてやー」
そう言って再び差し出すと、おばちゃんは
「そしたら・・」

と言って恥ずかしそうに、(しかも予想以上にうれしそうに)受け取りました。
そして何度も何度も礼を言い、そして、連れの盲目の老婆の所に行って貰った事を本当にうれしそうに話しているようでした。
わたしは「たった100円にもならん景品をあんなに喜んで・・」と少し滑稽にも感じました
しかし、よく考えたら・・・・
パンストって、ランジェリーのかてごりー?
年齢と言うものを外して考えると
おいらって、ひょっとして
「ものすごく恥ずかしい事を堂々と」
したんか!?
若いと言う事は、ただ単に失敗を恐れず行動する事である。
(続々まーきみ。語録より引用)
以下余談
もっと若い頃、行きつけのスナックに早い時間に行った頃、ママさんから買い物を頼まれた事がありました。
「まーきみ。くん、Kちゃんのパンストが破けてしもぉたんだわぁ、わぁるぃけどさぁ、どこでもえぇでブラウンのLのパンスト買って来てちょぉ」
「えぇで~お安い御用~♪」
若い女性にものを頼まれる事が何よりもうれしい年頃のまーきみ。は、何時も行く店の片隅にパンストが置いてあるのを思い出して、それを買ってきました。
本業は何の店だったのか忘れてしまいましたが、そのパンストを包装するとき、「HUKUSUKE」と言うメーカー名が確かに目に入りました。
店に帰るバイクの上で
「フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE 」
頭の中でずっとリフレイン・・・
それが、どんなメーカーか詳しく知らない私は、そのパンストを履いたKちゃんの顔と、そのメーカー名から連想する人形をオーバーラップさせて、笑いそうになるのを一生懸命堪えながら飲み明かしました。

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そろそろ「いもたき」の季節になります。
この季節になると思い出すのは
パチンコですね。
なんでやねん・・・

その昔、こんな店の前に立つとたまらなくエキサイティングになった。
単に、この季節に初めてパチンコしたって事だけですけどね。
パチンコ店での思い出話は尽きないですが、今日思い出したのはストッキングの思い出です。
パチンコとストッキング、どんな関連が・・

もう、15年くらい前になりましょうか、よく行ってたパチンコ店に日曜日になると朝から来る2人連れのおばあさんがいました。
そのうち1人は盲目で、パチンコをするのは主にその方でした。もう一人のおばあさんは、そばで見守りながら、色々と世話を焼いていました。
その盲目の老婆は、決まって打つ台がありました。
パチンコ店では、今はどうだか知りませんが、当時は
「一人の人が毎日決まって打つ台は、取らない」という暗黙の了解がありました。
(それは常連同士の言わばマナーのようなもので、事情を知らない人はこの限りでない)
ある日の日曜、私はその盲目の老婆が何時も打つ台であることを知りながら、その日に限って姿を見せないので、今日はもう来ないのだろうと思ってその台を打ち始めました。
「200円で食いついて全開、しかも連チャンにつぐ連チャンでもうボロボロ・・」
そうです、年に何回かある大勝パターンでした。

と、その時!

気配を感じ、後ろを見てみると例の2人連れ老婆が来ているではありませんか。

その日に限って遅れてきた二人は、心なしか、私のほうを恨めしそうにじっと見ているような気がしました。
そして、私がその台を離れる気がないのを悟るとそっと帰って行ったのです。
いささか、後ろめたい気がしたまーきみ。

その話を翌日、同僚に話すと
「目の不自由な人が、せっかく見つけた台を取るなんて、お前はなんてひどいヤツじゃ!パチンカーの風上にも置けんヤツじゃ!」
と、まさに罵詈雑言の南予人。

深く反省した私は、宇和島のパチンカーをやめて心機一転宇和島本舗のブロガーになりましたとさ。
と、言うのはもちろんずっと後年の事ですが・・・

さて、人の縁とは不思議なものでその後、私は盲目の老婆の連れと親しく話すようになりました。
きっかけは、その老婆が、「N夫人」と言う、やはり昔から親しいパチンカーの共通の知り合いだと判ったからでした。
私は彼女に会うとと、決まってこうはなしかけます。
「おばちゃん!N夫人は まだ元気なかな!」
「あぁ。今朝も会ぅたけど元気やったで」
「なんな!まだ元気なてな?そがいに毎日元気でたまるかい!たまには弱った顔でもすりゃ、カワイゲがあるのになぁ!わしがそがい言いよった言うとってや!」
「そがいな・・アンタ・・気の毒な事を・・・あはははは」
私は、N夫人ともN氏とも、お互い遠慮のない間柄でしたのでそんな冗談を言いながら良く笑いあったものでした。
ところで、パチンコには、「営業割り数」と言うものがありましす。
たとえばパチンコの玉を借りる時は100円で25個
景品交換はパチンコ40個で100円(消費税があり実際は41個・当時)
この場合「営業割り数」は40÷25=16割となり、店側は出す玉を、貸した玉の160%以内に抑えなければ「赤字」と言う事になり、釘調整の一つの目安となります。
つまり40個(税別実際は41個)の玉を、返すと100円の景品(通常は現金に交換できるもの)を貰いますが、それ以下の端数の場合、個数に合わせてチョコや飴玉などの小額の景品をくれる事になります。(ただ販売価格は100円を上回るものもありますが。)
ある日、景品に交換した端数の玉で、通常はチョコレートなどをくれる所が、その日に限ってもらったものがなんと
「パンティーストッキング」
じゃ~あ~りま温泉!

しかし、男にパンストをくれる店員のセンスって一体・・・

冷静になって考えれば、店員に「他のものと代えてくれ」と言えば済むのですが、普段手にする事の無い物を見て、いささかうろたえていたものと思います。
そのまま、それを持ったまま再び店内に戻っていきました。
これをどおする・・・・
このまま持ってるのもなんだし・・・
ポケットに突っ込むと言うのもなんだかな・・・

そう、ブツブツ言いながら、夢遊病者のように数歩、歩いた時、件の老婆の前に来ました。
その時、頭の中に名案が!「

そうだ!
おばちゃんにやったらええわい!
「おばちゃ~ん、これ余り球でもろたけんど、わしには使えん物やけんあげらい!」
そういって差し出すと、おばちゃんは意外な事に顔を赤らめてオロオロし始めました。。。
「そがいなええもん、もらえるかな!奥さんにあげさいや!」

「それがなーわし、かーちゃんにナイショできとるけん、持って帰れんのよーたのむけん、もろてやー」
そう言って再び差し出すと、おばちゃんは
「そしたら・・」


と言って恥ずかしそうに、(しかも予想以上にうれしそうに)受け取りました。
そして何度も何度も礼を言い、そして、連れの盲目の老婆の所に行って貰った事を本当にうれしそうに話しているようでした。
わたしは「たった100円にもならん景品をあんなに喜んで・・」と少し滑稽にも感じました
しかし、よく考えたら・・・・
パンストって、ランジェリーのかてごりー?
年齢と言うものを外して考えると
おいらって、ひょっとして
「ものすごく恥ずかしい事を堂々と」
したんか!?

若いと言う事は、ただ単に失敗を恐れず行動する事である。
(続々まーきみ。語録より引用)
以下余談
もっと若い頃、行きつけのスナックに早い時間に行った頃、ママさんから買い物を頼まれた事がありました。
「まーきみ。くん、Kちゃんのパンストが破けてしもぉたんだわぁ、わぁるぃけどさぁ、どこでもえぇでブラウンのLのパンスト買って来てちょぉ」
「えぇで~お安い御用~♪」
若い女性にものを頼まれる事が何よりもうれしい年頃のまーきみ。は、何時も行く店の片隅にパンストが置いてあるのを思い出して、それを買ってきました。
本業は何の店だったのか忘れてしまいましたが、そのパンストを包装するとき、「HUKUSUKE」と言うメーカー名が確かに目に入りました。
店に帰るバイクの上で
「フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE フクスケ 福助 HUKUSUKE 」
頭の中でずっとリフレイン・・・

それが、どんなメーカーか詳しく知らない私は、そのパンストを履いたKちゃんの顔と、そのメーカー名から連想する人形をオーバーラップさせて、笑いそうになるのを一生懸命堪えながら飲み明かしました。

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2008年08月22日
おおくにぬしの みこととて
久々に思い出した事など

蒲の穂 なんれくプールの近所で見た。
湿地帯に群生すると言う蒲の穂だが、昔は家の近所の野原にあった。
これを取って帰ると生け花の添え物として喜ばれた。
そして、母親が因幡の白兎の話をしてくれた。
だいこくさま
おおきなふくろを かたにかけ だいこくさまが きかかると
ここにいなばの しろうさぎ かわをむかれて あかはだか
だいこくさまは あわれがり きれいなみずに みをあらい
がまのほわたに くるまれと よくよくおしえて やりました
だいこくさまの いうとおり きれいなみずに みをあらい
がまのほわたに くるまれば うさぎはもとの しろうさぎ
だいこくさまは だれだろう おおくにぬしの みこととて
くにをひらきて よのひとを たすけなされた かみさまよ
だいこくさまは、「大国様」と書く。長い間七福神の「大黒様」と混同していた。
母親は生け花が好きだった。
私が3歳の頃、地元の婦人会で講師を呼んで生け花のセミナーが戎山で開催された。
楽しみにしていた母親は、秘蔵の白い花器を洗って、玄関先のたたきの上で干していた。
つい先日、父親がコンクリートを練って敷設したたたきの上に・・・・
まーきみ。は既に三歳、して良い事と悪い事の区別は漸くつく頃だった。
また「陶器は固いものの上に落としたら割れる」ということも・・・・・
その花器は、浅く丸くて、子供が両手で持ち上げるのに丁度の大きさだった。
色は白 そう、ポコペンさんの展示会の様子を今日テレビで見たが、あの展示会に出てきた陶器の白が丁度あんな色だったのを思い出す。
母親が目を話した隙にちょっと両手で持ち上げてみた。
そして、そ~~~と置いた(つもりだった)
なのに、なぜかガチャン!と音を立てて割れてしまった。
母親が烈火の如く怒ったのは言うまでもない。
唯一の花器を失った母親は仕方なく、竹の籠、それも魚かなんか入れるきわめて実用的なものを代わりに持って参加した。
他のおばちゃんたちが立派な花器を持ってきてる中で淡々と荒い竹籠の中に花を生けていく様子を昨日の事のように思い出す事ができる。


蒲の穂 なんれくプールの近所で見た。
湿地帯に群生すると言う蒲の穂だが、昔は家の近所の野原にあった。
これを取って帰ると生け花の添え物として喜ばれた。
そして、母親が因幡の白兎の話をしてくれた。
だいこくさま
おおきなふくろを かたにかけ だいこくさまが きかかると
ここにいなばの しろうさぎ かわをむかれて あかはだか
だいこくさまは あわれがり きれいなみずに みをあらい
がまのほわたに くるまれと よくよくおしえて やりました
だいこくさまの いうとおり きれいなみずに みをあらい
がまのほわたに くるまれば うさぎはもとの しろうさぎ
だいこくさまは だれだろう おおくにぬしの みこととて
くにをひらきて よのひとを たすけなされた かみさまよ
だいこくさまは、「大国様」と書く。長い間七福神の「大黒様」と混同していた。
母親は生け花が好きだった。
私が3歳の頃、地元の婦人会で講師を呼んで生け花のセミナーが戎山で開催された。
楽しみにしていた母親は、秘蔵の白い花器を洗って、玄関先のたたきの上で干していた。
つい先日、父親がコンクリートを練って敷設したたたきの上に・・・・
まーきみ。は既に三歳、して良い事と悪い事の区別は漸くつく頃だった。
また「陶器は固いものの上に落としたら割れる」ということも・・・・・
その花器は、浅く丸くて、子供が両手で持ち上げるのに丁度の大きさだった。
色は白 そう、ポコペンさんの展示会の様子を今日テレビで見たが、あの展示会に出てきた陶器の白が丁度あんな色だったのを思い出す。
母親が目を話した隙にちょっと両手で持ち上げてみた。
そして、そ~~~と置いた(つもりだった)
なのに、なぜかガチャン!と音を立てて割れてしまった。
母親が烈火の如く怒ったのは言うまでもない。
唯一の花器を失った母親は仕方なく、竹の籠、それも魚かなんか入れるきわめて実用的なものを代わりに持って参加した。
他のおばちゃんたちが立派な花器を持ってきてる中で淡々と荒い竹籠の中に花を生けていく様子を昨日の事のように思い出す事ができる。
2008年07月18日
世良公則とその時代 ’78
ある方から「あんたのバラードをユーチューブで拾って記事にしてみたら」と言われた。
それも面白いかも?とすぐ乗るまーきみ。
やっぱ
ロックンロールはノリがいちばんだぜぇぇぇぇぇぇぇ~~い。
何時からロックンローラーに・・・・・
http://jp.youtube.com/watch?v=IJyMLyW5sV8
あんたのバラード
私は、この曲は高校を卒業した1978年だと思っていたが意外にもその前年のリリースだった。
勘違いしたのは、紅白でこの歌を歌ったのが78年で、主にその年に流行ったからなのだろうと思う。
ちなみに「ロックが商業ペースに乗る事を証明した」のは彼らが最初で、78年のサザン・オールスターズのヒットに道をつける結果になった。
そういえば、最近テレビでよく見かける「迷い道」の渡辺真知子も77年のデビューだった。やはり78年の紅白にこの曲で出場している。
他に初出場で個人的に印象深いのは
平尾昌晃(4)・畑中葉子(初) カナダからの手紙
榊原郁恵(初) 夏のお嬢さん
庄野真代(初) 飛んでイスタンブール
サーカス(初) Mr.サマータイム
などなど、
現代でもカラオケで歌い継がれているスタンダードといっても過言ではない。
余談だがこの第29回NHK紅白歌合戦は、史上初めてレコード大賞を受賞しながら出場を辞退したピンクレディーが物議を醸した。
「普通の女の子に戻りたい」と言う名台詞を残してキャンディーズが引退したのもこの年だった。
私がなぜこの年のことを印象深く覚えているかというと、高校を卒業して愛知県のアイシン精機株式会社と言う自動車部品製造会社に就職、初めて暮らす異郷の地で耳にする音楽が、今まで以上に心に染みたからだと思う。
この年、何事においても消極的だった私が会社や寮の生活になじめず、だんだんと孤立感を深め、今思えば鬱寸前まで行って、自殺するまでは考えなかったがなんとなく「このままだと、生きてるのがいやになるのでは?」と言う訳の分からない不安にさいなまれる日が続いた。
仕事は昼勤、夜勤が週代わりで、夜勤の週は朝8時に終わって朝食をとり10時ごろ就寝、夕方6時前くらいに目を覚ます。
秋になって日照時間が短くなると、夕方目が覚めたらもうあたりが暗くなっていた・・そんな時狂おしいほど寂しい思いをした。
http://jp.youtube.com/watch?v=7H5555py7OA
森田童子の曲が身に染みるように感じたのもこの頃。
そんな年の暮れに労働組合の新入社員研修合宿の最終日、とあるアトラクションの時間に、やけくそでやったギャグが大うけに受けて、図らずも「最優秀賞?」を受賞した。
それまで目立たないキャラだったのに会社の構内を歩くと見知らぬ人からも声をかけられるようになり、何時しかさびしさや不安は消えていた。
愛媛県人会々長に担ぎ上げられて大弱りしたのもこの頃であった。
その頃の友人や先輩は結婚式にも遠路出席してくれた。今は皆、出世しているようだ。
ギャグは地球を救うとまでは言わないが、私が今日まで生きてこれたエネルギーの多くの部分を占めるのは間違いないかもしれない。
後年
現役当時は一番ヒットした曲でも5万枚しか売れなかったと言う超マイナーな森田童子の曲がテレビで流れて耳を疑った。
野島伸司プロデュースの「高校教師」の音楽に森田童子の数曲が使われたのである。
女房や子供に囲まれながらテレビから流れてくる童子の曲を聴きながら、往時の事を懐かしく思い出したものである。

寂しい時代を過ぎて、充実していた頃(19歳当時か)
それも面白いかも?とすぐ乗るまーきみ。
やっぱ
ロックンロールはノリがいちばんだぜぇぇぇぇぇぇぇ~~い。
何時からロックンローラーに・・・・・

http://jp.youtube.com/watch?v=IJyMLyW5sV8
あんたのバラード
私は、この曲は高校を卒業した1978年だと思っていたが意外にもその前年のリリースだった。
勘違いしたのは、紅白でこの歌を歌ったのが78年で、主にその年に流行ったからなのだろうと思う。
ちなみに「ロックが商業ペースに乗る事を証明した」のは彼らが最初で、78年のサザン・オールスターズのヒットに道をつける結果になった。
そういえば、最近テレビでよく見かける「迷い道」の渡辺真知子も77年のデビューだった。やはり78年の紅白にこの曲で出場している。
他に初出場で個人的に印象深いのは
平尾昌晃(4)・畑中葉子(初) カナダからの手紙
榊原郁恵(初) 夏のお嬢さん
庄野真代(初) 飛んでイスタンブール
サーカス(初) Mr.サマータイム
などなど、
現代でもカラオケで歌い継がれているスタンダードといっても過言ではない。
余談だがこの第29回NHK紅白歌合戦は、史上初めてレコード大賞を受賞しながら出場を辞退したピンクレディーが物議を醸した。
「普通の女の子に戻りたい」と言う名台詞を残してキャンディーズが引退したのもこの年だった。
私がなぜこの年のことを印象深く覚えているかというと、高校を卒業して愛知県のアイシン精機株式会社と言う自動車部品製造会社に就職、初めて暮らす異郷の地で耳にする音楽が、今まで以上に心に染みたからだと思う。
この年、何事においても消極的だった私が会社や寮の生活になじめず、だんだんと孤立感を深め、今思えば鬱寸前まで行って、自殺するまでは考えなかったがなんとなく「このままだと、生きてるのがいやになるのでは?」と言う訳の分からない不安にさいなまれる日が続いた。
仕事は昼勤、夜勤が週代わりで、夜勤の週は朝8時に終わって朝食をとり10時ごろ就寝、夕方6時前くらいに目を覚ます。
秋になって日照時間が短くなると、夕方目が覚めたらもうあたりが暗くなっていた・・そんな時狂おしいほど寂しい思いをした。
http://jp.youtube.com/watch?v=7H5555py7OA
森田童子の曲が身に染みるように感じたのもこの頃。
そんな年の暮れに労働組合の新入社員研修合宿の最終日、とあるアトラクションの時間に、やけくそでやったギャグが大うけに受けて、図らずも「最優秀賞?」を受賞した。
それまで目立たないキャラだったのに会社の構内を歩くと見知らぬ人からも声をかけられるようになり、何時しかさびしさや不安は消えていた。
愛媛県人会々長に担ぎ上げられて大弱りしたのもこの頃であった。
その頃の友人や先輩は結婚式にも遠路出席してくれた。今は皆、出世しているようだ。
ギャグは地球を救うとまでは言わないが、私が今日まで生きてこれたエネルギーの多くの部分を占めるのは間違いないかもしれない。
後年
現役当時は一番ヒットした曲でも5万枚しか売れなかったと言う超マイナーな森田童子の曲がテレビで流れて耳を疑った。
野島伸司プロデュースの「高校教師」の音楽に森田童子の数曲が使われたのである。
女房や子供に囲まれながらテレビから流れてくる童子の曲を聴きながら、往時の事を懐かしく思い出したものである。

寂しい時代を過ぎて、充実していた頃(19歳当時か)
2008年06月24日
パチンコ必勝ガイド
開店前のパチンコ屋に、並んだ事はありますか?
ボクはあります。
世間様からどう思われようと、あのひと時が、パチンカーにとっては実に「快感」でした。
シャッターが一尺ほど開いたら、モグラのように潜り込んで、新台目指して一直線!
どうせやるなら、こうでないとね!
今更言うのもなんだが、ボクは凝る性格ですですから
「人が並んどるのを見たときは〇ホやないかと思うとったが、自分が並ぶと、せいらして(意欲的になれるの方言?)のぉー」
と言う、某塗装屋さんの話に、大いに納得したものです。

既に亡くなったが田山幸憲と言うパチプロをご存知だろうか?
農林省の役人である父を持ち、自身も東大生と言うエリートでありながら、在学中にパチンコにのめりこみ、とうとう退学してパチプロになってしまった。
「パチンコ必勝ガイド」と言う雑誌に「パチプロ日記」と言うエッセイを寄稿し、パチンカーの間では全国的に有名になった。
わざわざ彼に会いにネグラである池袋の「S店」まで、地方から尋ねてくる人も居たと言う位であった。
彼の文章(エッセイ)は単にパチンコの技術論に留まらず、「ソバケン」「左官屋」「ノッポ」「マルチ小僧」など、毎日パチンコ屋で顔を合し、夜になると飲み歩くと言う仲間との交流も面白おかしく人間味たっぷりに紹介して、そのパチンカーとしての生活や思想に同調する読者、ファンから絶大な支持を受けていた。

彼の本の中にも書かれているが、パチンコ屋で出会い知らず知らずの間に口を聞き、親しくなった人でも向うから話さない限りプライベートな事は聞かないことが暗黙のルールになっている。
私もパチンコに熱中してる時、仲良くしてても名前さえ知らない人がほとんどだった。
私が行ってた店にSさんという見るからに強面の人がいて、いつも睨みつけるような目つきで盤を見ながら打ってたおじさんがいた。
怖いのでなるべく近寄らないようにしてたのだが、ある日大当たりの最中に口から泡を吹いてそのまま倒れてしまった。
Sさんはそのまま、隣の奥さんと思われる女性の膝枕でしばし痙攣しながら休んでいたが、その時彼の頭をなでながら愛おしむように見つめる奥さんの顔を見て、なんとなくSさんはそんなに怖い人ではないような気がした。
それからしばらくして、Sさんと口を利くようになった。
彼は冗談を言うと、睨むように「なんや~こら!」とすごんで見せるが、次の瞬間見せるはにかんだ様な笑顔がなんとも可愛らしかった。
パチンコ屋にいくと必ず彼を見つけて背中を叩きながら冷やかすのが常になっていた。
パチンコをやめた後も、警備員をしていたSさんに、道で時々会っていたがしばらくして見かけなくなった。
JR宇和島駅で何年かしてあった時「おまえ、この頃見んが、どこのパチンコ行きよら?」と聞いたので「わしはもう、パチンコやめたんよ」と言ったら「ウソぬかせ!〇〇やん!」と全然本気にしない風でホームの中に消えていった。
その外「髪の長いネーチャン」と呼ばれていた私より少し年配の主婦がいた。ダンナを送り出した後の11時くらいに店に来て夕食の準備が始まる4時過ぎに帰っていった。
お金に余裕があるのかあまり勝っていないようだったが、会うとよくコーヒーをおごってくれた。夜はほとんど見かけなかったが昼間に負けが込んで悔しい時には当時珍しかった携帯電話をハンドバックに忍ばせて来る事もあった。
自転車に乗って天赦園方面から毎日通ってきていたようだった。

最後にハマった京楽産業の「たぬ吉君2」 余談だが「CR冬のソナタ」はこの会社の製品である。
夫婦者で来てる人も多かったが、一人だと好きなときに帰れるのに2人だと、自分が負けて帰りたいと思っても、もう一人がまだ打ってて帰れずに、待っているうちに手持ち無沙汰からまた打ってしまう・・という悪循環を繰り返し、負けが込んでしまう事が多く、よく「長期休暇」に追い込まれることがあった。
ある私より少し年配の夫婦が、家内が出産間近である事を心配して「あんた、今生まれてみさい、一生恨まれるで」と奥さんが注意してくれた。ダンナはポケットから小銭を取り出し「今日の稼ぎがもう、こんだけしかない。情けない話やが、おまえもこうなるぞ!」と苦笑しながら教えてくれた。
幸い、パチンコ中に出産と言う事態には至らなかった。子供が生まれた事を話したら二人とも喜んでくれた。
その少し後、私がパチンコを辞めたのは、当時勉強し始めた「気功」の今は亡くなった会長の「氣」を受けてからであった。
どうした事かそれ以後、パチンコ屋に行こうと車に乗っても直前でハンドルが切れなくなり駐車場を通り過ぎてしまう。
引き返しても同じ事、というのを繰り返し「あぁもう辞めろと言う事か」と納得してそれから13年経った今日まで行っていない。
タバコもほぼ同時期やめた。
今でも時折、タバコを吸いながらパチンコに興じ仲間と談笑すると言う夢を見ることがある。
さめてから、あぁ夢でよかったと思うと同時にエキサイティングなあの頃が懐かしいと思うこともある。
前述の「続・パチンコ告白記」の最終章は、次のような一節で終わっている。
「当然のことながら、この日708番はボロボロに出て、次の日、完膚なきまでにシメられていた」
判る人には判る、ギャンブルに付き物の物悲しい空気が全身を包む。
おもうしろうて やがて悲しき 博打かな
ボクはあります。
世間様からどう思われようと、あのひと時が、パチンカーにとっては実に「快感」でした。
シャッターが一尺ほど開いたら、モグラのように潜り込んで、新台目指して一直線!
どうせやるなら、こうでないとね!
今更言うのもなんだが、ボクは凝る性格ですですから

「人が並んどるのを見たときは〇ホやないかと思うとったが、自分が並ぶと、せいらして(意欲的になれるの方言?)のぉー」
と言う、某塗装屋さんの話に、大いに納得したものです。

既に亡くなったが田山幸憲と言うパチプロをご存知だろうか?
農林省の役人である父を持ち、自身も東大生と言うエリートでありながら、在学中にパチンコにのめりこみ、とうとう退学してパチプロになってしまった。
「パチンコ必勝ガイド」と言う雑誌に「パチプロ日記」と言うエッセイを寄稿し、パチンカーの間では全国的に有名になった。
わざわざ彼に会いにネグラである池袋の「S店」まで、地方から尋ねてくる人も居たと言う位であった。
彼の文章(エッセイ)は単にパチンコの技術論に留まらず、「ソバケン」「左官屋」「ノッポ」「マルチ小僧」など、毎日パチンコ屋で顔を合し、夜になると飲み歩くと言う仲間との交流も面白おかしく人間味たっぷりに紹介して、そのパチンカーとしての生活や思想に同調する読者、ファンから絶大な支持を受けていた。

彼の本の中にも書かれているが、パチンコ屋で出会い知らず知らずの間に口を聞き、親しくなった人でも向うから話さない限りプライベートな事は聞かないことが暗黙のルールになっている。
私もパチンコに熱中してる時、仲良くしてても名前さえ知らない人がほとんどだった。
私が行ってた店にSさんという見るからに強面の人がいて、いつも睨みつけるような目つきで盤を見ながら打ってたおじさんがいた。
怖いのでなるべく近寄らないようにしてたのだが、ある日大当たりの最中に口から泡を吹いてそのまま倒れてしまった。
Sさんはそのまま、隣の奥さんと思われる女性の膝枕でしばし痙攣しながら休んでいたが、その時彼の頭をなでながら愛おしむように見つめる奥さんの顔を見て、なんとなくSさんはそんなに怖い人ではないような気がした。
それからしばらくして、Sさんと口を利くようになった。
彼は冗談を言うと、睨むように「なんや~こら!」とすごんで見せるが、次の瞬間見せるはにかんだ様な笑顔がなんとも可愛らしかった。
パチンコ屋にいくと必ず彼を見つけて背中を叩きながら冷やかすのが常になっていた。
パチンコをやめた後も、警備員をしていたSさんに、道で時々会っていたがしばらくして見かけなくなった。
JR宇和島駅で何年かしてあった時「おまえ、この頃見んが、どこのパチンコ行きよら?」と聞いたので「わしはもう、パチンコやめたんよ」と言ったら「ウソぬかせ!〇〇やん!」と全然本気にしない風でホームの中に消えていった。
その外「髪の長いネーチャン」と呼ばれていた私より少し年配の主婦がいた。ダンナを送り出した後の11時くらいに店に来て夕食の準備が始まる4時過ぎに帰っていった。
お金に余裕があるのかあまり勝っていないようだったが、会うとよくコーヒーをおごってくれた。夜はほとんど見かけなかったが昼間に負けが込んで悔しい時には当時珍しかった携帯電話をハンドバックに忍ばせて来る事もあった。
自転車に乗って天赦園方面から毎日通ってきていたようだった。

最後にハマった京楽産業の「たぬ吉君2」 余談だが「CR冬のソナタ」はこの会社の製品である。
夫婦者で来てる人も多かったが、一人だと好きなときに帰れるのに2人だと、自分が負けて帰りたいと思っても、もう一人がまだ打ってて帰れずに、待っているうちに手持ち無沙汰からまた打ってしまう・・という悪循環を繰り返し、負けが込んでしまう事が多く、よく「長期休暇」に追い込まれることがあった。
ある私より少し年配の夫婦が、家内が出産間近である事を心配して「あんた、今生まれてみさい、一生恨まれるで」と奥さんが注意してくれた。ダンナはポケットから小銭を取り出し「今日の稼ぎがもう、こんだけしかない。情けない話やが、おまえもこうなるぞ!」と苦笑しながら教えてくれた。
幸い、パチンコ中に出産と言う事態には至らなかった。子供が生まれた事を話したら二人とも喜んでくれた。
その少し後、私がパチンコを辞めたのは、当時勉強し始めた「気功」の今は亡くなった会長の「氣」を受けてからであった。
どうした事かそれ以後、パチンコ屋に行こうと車に乗っても直前でハンドルが切れなくなり駐車場を通り過ぎてしまう。
引き返しても同じ事、というのを繰り返し「あぁもう辞めろと言う事か」と納得してそれから13年経った今日まで行っていない。
タバコもほぼ同時期やめた。
今でも時折、タバコを吸いながらパチンコに興じ仲間と談笑すると言う夢を見ることがある。
さめてから、あぁ夢でよかったと思うと同時にエキサイティングなあの頃が懐かしいと思うこともある。
前述の「続・パチンコ告白記」の最終章は、次のような一節で終わっている。
「当然のことながら、この日708番はボロボロに出て、次の日、完膚なきまでにシメられていた」
判る人には判る、ギャンブルに付き物の物悲しい空気が全身を包む。
おもうしろうて やがて悲しき 博打かな
2008年06月05日
極めてシロクマ!
宇和島タイムスリップ余話1 ホッキョクグマで掲載した「大宮ホールのホッキョクグマ」に関して、詳しい事が判りました。
判ったのは、市内某所です。
若い職員「オジさん、こちらの客人がシロクマの新聞記事見たいぃ言うて来とられますがのぉ」
まーきみ。
「シロクマやありゃせんじゃない!ホッキョクグマやぁゆうとるじゃない!」
「断っときますがのぉ、新聞ゆうたらでぇ、著作権にはうるさいとこですけん!写真なんかブログに載せたら、わしゃ ~責任とれませんけんそこんとこをひとぉつ判ってつかいさいや」
まーきみ。
「な・なぁも、そのまま使うとは、ゆぅとりゃせんじゃない!わしゃ真実をしりたいだけですけん・・わしの言うことにも一理あるじゃろう?のぉ?」
職員
「バ〇〇れ、このぉ~イッコもわかっとりゃせんじゃない?こんなのことじゃけん『引用してもいいんよぉ~』やら、カバチぬかしとるんじゃないんでぇ!」
まーきみ。
「ドキっ」
職員
「土器は縄文時代じゃ~ここにゃ~〇〇時代のものしか置いとりゃせんのじゃ!」
そんなわけで、、、、
著作権について、念を押されたので新聞に掲載された写真も有るのですが載せられない事が残念です。
(著作権の遵守のため、場所が特定されないように、方言を一部変えております。ご了承ください)
ホッキョクグマ物語
剥製になったのは、サーカスで宇和島に来ていたときに死んだクマだったと言う事は既に述べた。

松の木の向うにTグラウンドが見える。
昭和41年 サーカスが来てTグラウンドにて公演した。
当時、まーきみ。たち宇和島幼稚園児は、団体でそのサーカスを見に行ったが、ホッキョクグマが来たのは記録によればどうもその時のサーカスだったようだ。
その時の記憶
公演前に先生に連れられて像を見学に行った。
生まれて初めて見た像は、絵本と同じ長い鼻を上げて、飼育員からエサを貰っていた。
あまりの大きさに圧倒されながら、先生に促されて「象さんのうた」を合唱した。
「ぞぅさん~♪ ぞぅさん~♪おはながながいのね~♪」
と、その時!
「パォォォォォォォ~~~!」
像は園児達の大声にびっくりしたのか長い鼻を上げて大声で鳴いた。
すごくびっくりしたのを覚えている。
次の日は園児が大挙してサーカス見物に訪れた。(料金20~30円を親から貰って行った)
初めて見るサーカスは、まさに興奮の連続だった。
像やライオンの曲芸や空中ブランコ。一番印象に残っているのは斜めに張ったロープをレオタードの女性が背中で滑って降りたシーン。今でもサーカスと聞いたらそのシーンが蘇る。
この時連れて来たホッキョククマが病気で死んだらしい。記録によれば、市の幹部が無料で貰いうけ10万円をかけて剥製加工し、しばらく市長室に飾っていたが大きすぎるので数ヵ月後公会堂ロビーに移したとある。
その後、49年10月に、同年開館した博物館の館長が管理していた総務課から譲り受けるまでの8年余り、大宮ホールロビーに展示されていた。
私が小学校に入学した年から、中学3年生の秋までと言う事になる。
博物館に移転した当初から損傷激しく、毛に虫がついて悪臭を放ち防臭剤を買ったりケースを新調したりと相当苦労したようだ。
県外の来館者の中には「愛媛にしかいないというニッポンカワウソか?」「伊達の殿様が狩をした時の獲物か」と質問する人もあったという。
市民の中にも賛否があったようで「クマをきっかけに子供が興味を持つので良い」と言う意見もあったが「ニッポンカワウソならともかくサーカスの白クマでは・・」と言うような否定的な意見が多かったらしい。
前述したようにホッキョクグマの剥製は昭和62年に処分された。いつ頃まで展示されたかは不明であるが、上記のように識者の間でも概ね好意的ではなかったようで、その「晩年」は寂しいものだったのだろうと推察される。
それにしても、よく記録が残っていたものだと感心した。調べてくださった関係者各位に感謝申し上げたい。
判ったのは、市内某所です。
若い職員「オジさん、こちらの客人がシロクマの新聞記事見たいぃ言うて来とられますがのぉ」
まーきみ。
「シロクマやありゃせんじゃない!ホッキョクグマやぁゆうとるじゃない!」
「断っときますがのぉ、新聞ゆうたらでぇ、著作権にはうるさいとこですけん!写真なんかブログに載せたら、わしゃ ~責任とれませんけんそこんとこをひとぉつ判ってつかいさいや」
まーきみ。
「な・なぁも、そのまま使うとは、ゆぅとりゃせんじゃない!わしゃ真実をしりたいだけですけん・・わしの言うことにも一理あるじゃろう?のぉ?」
職員
「バ〇〇れ、このぉ~イッコもわかっとりゃせんじゃない?こんなのことじゃけん『引用してもいいんよぉ~』やら、カバチぬかしとるんじゃないんでぇ!」
まーきみ。
「ドキっ」
職員
「土器は縄文時代じゃ~ここにゃ~〇〇時代のものしか置いとりゃせんのじゃ!」
そんなわけで、、、、
著作権について、念を押されたので新聞に掲載された写真も有るのですが載せられない事が残念です。

(著作権の遵守のため、場所が特定されないように、方言を一部変えております。ご了承ください)
ホッキョクグマ物語
剥製になったのは、サーカスで宇和島に来ていたときに死んだクマだったと言う事は既に述べた。

松の木の向うにTグラウンドが見える。
昭和41年 サーカスが来てTグラウンドにて公演した。
当時、まーきみ。たち宇和島幼稚園児は、団体でそのサーカスを見に行ったが、ホッキョクグマが来たのは記録によればどうもその時のサーカスだったようだ。
その時の記憶
公演前に先生に連れられて像を見学に行った。
生まれて初めて見た像は、絵本と同じ長い鼻を上げて、飼育員からエサを貰っていた。
あまりの大きさに圧倒されながら、先生に促されて「象さんのうた」を合唱した。
「ぞぅさん~♪ ぞぅさん~♪おはながながいのね~♪」
と、その時!
「パォォォォォォォ~~~!」
像は園児達の大声にびっくりしたのか長い鼻を上げて大声で鳴いた。
すごくびっくりしたのを覚えている。
次の日は園児が大挙してサーカス見物に訪れた。(料金20~30円を親から貰って行った)
初めて見るサーカスは、まさに興奮の連続だった。
像やライオンの曲芸や空中ブランコ。一番印象に残っているのは斜めに張ったロープをレオタードの女性が背中で滑って降りたシーン。今でもサーカスと聞いたらそのシーンが蘇る。
この時連れて来たホッキョククマが病気で死んだらしい。記録によれば、市の幹部が無料で貰いうけ10万円をかけて剥製加工し、しばらく市長室に飾っていたが大きすぎるので数ヵ月後公会堂ロビーに移したとある。
その後、49年10月に、同年開館した博物館の館長が管理していた総務課から譲り受けるまでの8年余り、大宮ホールロビーに展示されていた。
私が小学校に入学した年から、中学3年生の秋までと言う事になる。
博物館に移転した当初から損傷激しく、毛に虫がついて悪臭を放ち防臭剤を買ったりケースを新調したりと相当苦労したようだ。
県外の来館者の中には「愛媛にしかいないというニッポンカワウソか?」「伊達の殿様が狩をした時の獲物か」と質問する人もあったという。
市民の中にも賛否があったようで「クマをきっかけに子供が興味を持つので良い」と言う意見もあったが「ニッポンカワウソならともかくサーカスの白クマでは・・」と言うような否定的な意見が多かったらしい。
前述したようにホッキョクグマの剥製は昭和62年に処分された。いつ頃まで展示されたかは不明であるが、上記のように識者の間でも概ね好意的ではなかったようで、その「晩年」は寂しいものだったのだろうと推察される。
それにしても、よく記録が残っていたものだと感心した。調べてくださった関係者各位に感謝申し上げたい。
2008年05月20日
のんびりおやじさんの秘密 2
のんびりおやじさんの秘密・・・決して一人で読まないでください。
ある日、一人の美しいブロガーさん、吉永小百合(仮名)さんから電話をもらった。
小「わたし・・・なにかに狙われているんです!」
ま「????」
小「宇和島本舗ブログに、足あと機能ってついているじゃないですか・・」
ま「あーはいはい」
小「その名前をクリックしたら、その方のブログに飛ぶわけじゃないですか・・」
ま「うんうん」
小「でも、、、いくらクリックしても、どこにも飛ばないHNがあるんです。」
ま「え?」
小「きっと、ヨーカイだと思うんですね。。」
ま「ちょっとまって、もしかして、そのヨーカイは・・・小百合さんに・・」
小「え・・・・なんですか・・」
ま「あ・・いや。気にしないで・・」
小「ちょっと・・やめてくださいよぉ。。。気になるじゃないですか・・・はっきり言ってください!」
ま「じゃ、言うけどさ、驚かないでね。」
小「・・・・・・」
ま「もしもだよ。。そのヨーカイは、小百合さんに・・・」
小「ひぃ・・・・・」
『なんか用かい?』
(゚Д゚)ノバシィィィィィィィィ (゚Д゚)ノバシィィィィィィィィ (゚Д゚)ノバシィィィィィィィィ

上記のような経験をしたかたも多いと思う。
そして、そのヨーカイ人こそ、誰あろう

じゃなかった、
「のんびりおやじ」さんその人であった!
そののんびりおやじさんが、ある日尋ねてくださった。
うちの駐車場の前の道路から、例のハイテンションな声で
「まーきみ。さ~~~ん~チワァ~~ス」
だ・だれだ?
それが「のんびりおやじ」さんだったのである。
そうだった
以前は折角来てくれたのに、仕事中で無下に追い返してしまった。
それをうらんで・・・・
「もう携帯電話は うらんで~~~~」
・・・・・
ま・・・とにかくきてくださったわけだ。
ここでのんびりおやじさんの生態プロフィールを紹介しよう。
いいですよね。のんびりおやじさん?
「え~しょうかい?」
のんびりおやじ (本名 同じ)
生息地 (八坂石鹸さんの近く)
行きつけの店 (三和 その他宇和島市全域)
ブログ (足あとばっかり残さんで、さっさとはじめさいや!)
以上がやっと聞き出した彼の秘密だ。
まだまだ謎が多い。「ウワ000ロウ」以来の快人物と言っていいだろう。

のんびりおやじさん去った後 台風一過と言っても、まぁいっか~。
本日はもう少しで素通りするところだったようですが、
昨日の「素通り禁止令」が功を奏したようです。
皆様のお越しをお待ちしております。
決してブログのネタにはいたしませんから
ある日、一人の美しいブロガーさん、吉永小百合(仮名)さんから電話をもらった。
小「わたし・・・なにかに狙われているんです!」
ま「????」
小「宇和島本舗ブログに、足あと機能ってついているじゃないですか・・」
ま「あーはいはい」
小「その名前をクリックしたら、その方のブログに飛ぶわけじゃないですか・・」
ま「うんうん」
小「でも、、、いくらクリックしても、どこにも飛ばないHNがあるんです。」
ま「え?」
小「きっと、ヨーカイだと思うんですね。。」
ま「ちょっとまって、もしかして、そのヨーカイは・・・小百合さんに・・」
小「え・・・・なんですか・・」
ま「あ・・いや。気にしないで・・」
小「ちょっと・・やめてくださいよぉ。。。気になるじゃないですか・・・はっきり言ってください!」
ま「じゃ、言うけどさ、驚かないでね。」
小「・・・・・・」
ま「もしもだよ。。そのヨーカイは、小百合さんに・・・」
小「ひぃ・・・・・」
『なんか用かい?』
(゚Д゚)ノバシィィィィィィィィ (゚Д゚)ノバシィィィィィィィィ (゚Д゚)ノバシィィィィィィィィ


上記のような経験をしたかたも多いと思う。
そして、その

じゃなかった、

「のんびりおやじ」さんその人であった!

そののんびりおやじさんが、ある日尋ねてくださった。
うちの駐車場の前の道路から、例のハイテンションな声で
「まーきみ。さ~~~ん~チワァ~~ス」
だ・だれだ?

それが「のんびりおやじ」さんだったのである。
そうだった
以前は折角来てくれたのに、仕事中で無下に追い返してしまった。
それをうらんで・・・・

「もう携帯電話は うらんで~~~~」
・・・・・

ま・・・とにかくきてくださったわけだ。
ここでのんびりおやじさんの
いいですよね。のんびりおやじさん?
「え~しょうかい?」
のんびりおやじ (本名 同じ)
生息地 (八坂石鹸さんの近く)
行きつけの店 (三和 その他宇和島市全域)
ブログ (足あとばっかり残さんで、さっさとはじめさいや!)
以上がやっと聞き出した彼の秘密だ。
まだまだ謎が多い。「ウワ000ロウ」以来の快人物と言っていいだろう。
のんびりおやじさん去った後 台風一過と言っても、まぁいっか~。
本日はもう少しで素通りするところだったようですが、
昨日の「素通り禁止令」が功を奏したようです。
皆様のお越しをお待ちしております。
決してブログのネタにはいたしませんから

2008年05月15日
吉田町の歴史

サムネイルです。
とある吉田町の御宅で、昭和47年の商店の作った国鉄の時刻表を発見。
貴重な歴史資料です。
この年あった出来事
札幌オリンピック 日の丸飛行隊メダル独占
ミュンヘンオリンピックで水泳男女金メダル
ブラックセプテンバのテロ
(当時は夏冬同じ年の開催だった)
グアム島で元日本陸軍兵士横井庄一発見
連合赤軍、あさま山荘事件
川端康成が逗子市でガス自殺
田中角栄首相が訪中し、日中国交正常化の共同声明
などなど、事の多い年でした。
ベトナム戦争はまだ継続中でした。オイルショックの前年でもあります。ドルショックは前年の事でした。
まさに戦後の転換期の時代でした。
最近、昔の事を調べてて感じたのですが、意外と資料が残っていないのです。
板島橋や予科練跡の図面なども、、だから予科練跡にあって誰でも知っていた「爆弾池」もどの辺りにあったか記録は残っていません。
温故知新と言いますが、上記のチラシから色々な事が推察できます。
まず、国鉄ですが
いよ吉田駅は急行は停車したが特急は停車しなかった。
現在は、JR四国前線急行は無くなりました。昔は「高松行き、特急しおかぜ」が数本ありました。
吉田駅は今は無人ですが、国鉄時代は数人の駅員さんがいました。売店もありました。
「上り急行高松行き最終」の「22:10」は夜行列車です。朝5時前に高松に着きます。
これで「就職試験」や「帰省からの引き上げ」に何度も利用した年配者も多いはず。
高松のホームで「立ち食いうどん」(そばは禁句!)を食べて宇高連絡船に乗ります。
当時は「長浜周り」だったので6時間以上かかってしんどかった~(>_<)
下り6:41は逆に高松からの夜行です。12時ごろ出たんじゃないかな?
思い出したのですが、高校の頃吉田駅で警察手帳(っぽいもの)を持ったサングラスをかけた、私服の刑事(っぽい)人が新聞の切り抜きのような写真を見せながら「こんな人見なかった?」と学生に聞いていました。その後必ず手帳にうやうやしくメモしていました。
後で聞いたら、この人は数年前から駅前でウロウロしてるそうでした。今ならすぐ大事になりそうですが当時は皆笑っていました。
ある意味呑気な時代だったのか
商店も、時代により移り変わります。それによって経済活動なども推察できます。
どのような業種があって、どう変わって行ったかなど。
調べて書いて、後は記憶を呼び覚まします。
今まで調べて、共通してる事は
「昔のほうが活気があった」と言う事です。
原因は様々で、素人の推察は役に立たないかもしれませんが、
1)自給自足の割合が下がった。
昔はうちも家の前を畑にして野菜を植えていました。
2)大型店舗が増えて、製造業の会社が減った。
昔は「安い店」はほとんど無くて、わずかにスーパーで食料品や雑貨、衣料の一部が個人商店より1~3%ほど安かった。
商店街で買い物をするのが普通だった。安いものをおいかけると言う概念が今ほど無かった。
誰でも名前を知ってる大きい会社がすっかり無くなった。
食べ物や着る物、娯楽などは現在のほうがずっと贅沢になりましたが、将来の展望とか子供達へ残すものと言えば大変乏しくなったと思います。
せいぜい、学歴を付けて都会の大きい企業や公務員にさせると言うのが一般的になって、宇和島で就職したり家業を継ぐという事が少なくなりました。
じゃあ、どうするべきかと言えば、今まで辿ってきた変化の逆をするのはどうかと言う事です。
最近、近所のお勤めだった方が働き手のなくなった畑を借りて雑草を刈り整備して野菜を植えていました。
「離農の反対で帰農やねぇ」と笑って話したのですが、今のうちに荒れかけた畑を元に戻す工夫をしてはどうかと思います。
後は環境への配慮です。
これは、リサイクル(再加工)じゃなくてリユーズ(再利用)を基本に考える事です。
詳細は省きますが、リサイクルは、日本で言われたときは既に「欧米では失敗した政策」である事は一部に言われていました。
家庭のゴミを肥料にしたり、ゴミをなるべく出さない。
話が、すっかり飛躍してしまいました。まだまだ考えている事はありますが、これくらいにして置きます。
自分自身が全然出来てない、想像だけの話ですから

でも、口に出したり文章に書いたりすることは実行への第一歩だとも思います。
意味不明の文を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2008年05月11日
まざーずでー
貴美子が贈った母の日のプレゼント(私ではない)
私は図画工作が嫌いだ!
てか、苦手だ!
・・・・・いきなり何を言い出すやら

この屈折した思いを話すのはどうかと思ったが、、、
この際だから、エイやっと話してしまおう。
幼稚園の時だった。
宇和島幼稚園は、登園してくるとまず
「お遊びの時間」
天気の良い日は表に出て、自由に遊ぶ。
コマを持ってきたやつもいた。
落とし穴を掘って、先生を誘う子らも。
白詰草で花輪を作る子も。
思い思いの遊びを堪能したあと、それぞれの教室に入り、歌を歌ったりお遊戯をしたり絵を画いたりする。
見学に行った時計屋さんにもらった風船を膨らました事が楽しい思い出として残っている。
余談が過ぎた。
そして、母の日が近いある日、先生の提案でプレゼントを作ることになった。
その時は画用紙を多角形に切って、絵を書いて、紐を通して、先生からもらった幾つかの洗濯ばさみを挟んだ。
いわゆる「洗濯ばさみボード」
これをめいめい作らされたのだが、
私は図画工作が嫌いだ!
てか、苦手だ!
もう、いいって・・・

いわゆる、上記の結果になった。
友達の誰と比べても、見劣りする事甚だしい・・・
こりゃ、即ゴミ箱行きだな。

密かにそう決心した時、I先生が、
「みなさ~ん、今度の日曜は母の日だから『お母さん、いつもありがとう』と言って渡すんですよ。
( ̄д ̄) エー(まーきみ。)
は~~~い\(^o^)/(まーきみ。以外全員)
困った!
このときばかりは優しいI先生がオニに見えたぞ

でも、先生の言い付けはゼッタイだ!と深く思い込んでいた5歳児のまーきみ。
トボトボ家に帰ったら、「お約束」のように洗濯を取り入れてる母親がいた。
こんな失敗作見せたらまた怒られるな。
そう思いながら蚊の鳴くような声で
「おかあさん いつもありがと・・」
そしたら、意に反して
「おーと、かーちゃん嬉や!涙が出らい!」
冗談でも皮肉でもなく、満面の笑みでそう言って受け取り、洗濯干し場の一角に掛けた。
なんだか恥ずかしくてびっくりして、ちょっと嬉しかったけど
自分の芸術への才能が無いのが余計悲しくなった。どうせならいっそ「へたくそやね」と笑ってくれたほうが気が楽かな?とは思ったが。
洗濯ばさみボードは、その後も長く我家で使われて、ボロボロになってもまだ現役で役に立っていた。
そして、今日に至るまで「涙が出る」ほど親を喜ばせる事が再び無かったのは、慚愧の至りではある。
タグ :母の日



