2008年07月31日

風雲児たち 大浦小学校の橋

江戸時代中期、田沼意次が権勢を誇った時代に蘭学は全盛を極め、彼の「解体新書」が発刊されました。

この解体新書についての苦労話が後世に伝わっているのは、そのプロジェクトに従事した杉田玄白が晩年に手記を残し、明治になってその存在を知った福沢諭吉が、自藩の先覚者「前野良沢」の偉業を知って感動し、「蘭学事始」と言う本に纏めた事で江戸時代の蘭学者の偉業を広く世に知らしめる事となったのです。

もし「蘭学事始」が後世に残らなかったら「解体新書」も歴史の渦の中に消えていたかもしれません。

それだけに「歴史を後世に残す」と言う作業は、歴史そのものと同じくらい重要であると言えます。


いつもながら、マエフリが長くなった。

「解体新書」より「買いたい新車」の今日この頃、まーきみです。face09



この橋の向こうにかつて「住吉小学校」の前身があった。





宇和島市の学校は明治、大正、昭和と幾多の変遷を経てその経緯を知る人は平成の時代にはだんだん少なくなりました。

昔、私の近所の人たちが通ったはずの九島尋常小学校坂下津分校はもとより、清渓中学校なども何処にあったのか知る人も少なくなりました。
この大浦にあった学校も年を経れば知る人も居なくなったかもしれません。


住吉小学校の前身「宇和島市立第五尋常高等小学校」がかつて、大浦の天満神社の近くにあることを古い地図で見て現場行ってみました。

すると・・・


『大浦尋常小学校創立の地』大浦尋常小学校記念碑建設委員会    (サムネイル)   

住吉小学校の創立100周年を記念して作られたようです。

何か学校があったことを示す物があるのではないかと期待していましたが、ちゃんと立派なものがありました。

驚きと感動を禁じえません。


明治7~9年頃 1877年4月 - 大浦合浦小学校を創立したのがこの学校の初めですが、
大浦尋常小学校と改称した明治25年を学校創立の年と定めたようです。





新築なった「大浦尋常小学校」の校舎 明治41年頃 広見川に橋はまだない。





小学校が現在の地に移転したのは昭和12年ですから、この記念碑を作ろうとしたのは、そのあたりの卒業生の方々でしょうか。
関係者に呼びかけ、石碑を建てるということはかなり困難な事業であったのではないかと推察されますが、おかげさまで私のような門外漢でも住吉小学校の歴史を知ることが出来ました。





大浦湾に流れる広見川






この上流右岸(向かって左側)の山のふもとに小学校があった。






河口から2番目の橋 下流側の橋脚と桁は石だが



上流側はコンクリートだface08


これは従前の橋(石橋)の横に新たに橋を作って幅を広げたものだろう。
年を経て道路拡幅のため橋の幅を広げるとき、工法の進歩で構造が左右違うことは意外に多い。
(例 国道一号線 名古屋市熱田区 白鳥橋など)








その上流の小学校に向かう道にかかる『天神橋』 これは車は通れないほどの幅員  かなり古そう





石碑が建っているface08



正面から 「天神橋」の文字が見える 側面に大正7年

この橋は役所が作ったではなく、大浦部落内でお金や労働力を提供して作ったようだ。
本来の公共工事は、このような形態で行われていたのでしょうか。





さらに進むと



堀のような水路に小さな橋が



天満橋 大正6年

天神と天満とは同じ意味なので、天満神社に参詣するための橋であると同時に小学校に通うための橋でもあったのだろうか。




この水路は、前述の明治時代の写真で見えるように、水田だった頃の名残でしょうか?




天満神社の前方付近にかつて小学校があった。

昭和12年に現在地の住吉小学校に移転




私はかつて学校のあった位置に石碑などが残っているのは、この大浦尋常小学校と新市立病院にあった宇和島高等女学校、吉田小学校を確認している。

少子高齢化の現在、宇和島市でも新たな小中学校の統廃合が検討されている。

移転、廃校になった学校は、幾年月の間にそれが在った事さえも忘れ去られてしまう。

われわれに今、出来ることは何だろう。



以下余談
ブログの冒頭に「蘭学事始」をマクラとして引用した。
「解体新書」を翻訳した功績者と言えば「杉田玄白」「前野良沢」の名前が挙げられる。
しかし、解体新書には前野良沢の名前はない。

完全主義者の良沢は、まだ不完全であった解体新書の発刊を最後まで反対した。
杉田玄白はやがて来る「寛政異学の禁」を見越して、自分たちに理解のある幕府の実力者田沼意次の権勢のあるうちに発刊して既成事実を作って置きたかった。

玄白の説得に折れた良沢は解体新書の発刊は認めたものの、自分の名前を出すことを拒んだ。
せめて序文でも書いてほしいと言う玄白の懇願に良沢はこう答えたと言う。

「いや、拙者かつて九州を歴遊いたした折、太宰府の天満宮へ参詣いたした節、かように申して起誓したことがござる。良沢が蘭学に志を立て申したは、真の道理を究めようためで、名聞(みょうもん)利益のためではござらぬゆえ、この学問の成就するよう冥護を垂れたまえと、かように祈り申したのじゃ。この誓いにも背き申すゆえ、序文の儀は平に許させられい!」


かつて、天神小学校があった山上にも天満神社が祭られている。(天満山と言う)
学問の神様の近くに学校を持ってくると言うのは理にかなった考え方であったのだろう
天満宮の前で学び、育った子供たちは単に学問を知識としてだけでなく、自らの人格向上に資するを第一と考えるようにというのが、当時の親たちの考えであったのだろうか。










  

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2008年07月25日

宇和島鉄道の夜明 2 河原の石



線路を横断する鉄橋から見た宇和島駅 宇和島駅が当初の和霊町(現・城北中学校)から現代の位置に移転したのは大正5年。

尤も当時は国鉄ではなく「私鉄宇和島鉄道」であった。軽便鉄道で軌間(線路の巾)762mmで国鉄の規格である1067mmに変更工事が行われたのは、国鉄に買収された昭和8年以後のことである。

その後、国鉄は四国循環鉄道を敷設すべく計画し、地元も誘致に懸命に運動したのだが、その路線選定に紆余曲折があって予讃線が開通する最後の区間八幡浜ー卯之町間が開通し、西宇和郡双岩小学校で開通式が挙行されたのはたのは終戦間近の20年6月の事であった。






話は変わって


伊吹町の八幡川原


須賀川の右岸に建立された安藤継明忠死の碑 伊達宗彰氏揮毫


後方の古い石碑は字が読めないほど風化している 元吉田町長 清家吉次郎撰文の文字が見える。


寛政5年(1793年)2月12日、山間部の特産である紙の専売制反対と藩政の改革を掲げ、日吉村を中心とした吉田藩の百姓8000人(83ヵ村中80ヵ村)が蜂起し、宗家である宇和島藩の八幡河原に集結した。
一揆の収拾に苦慮した吉田藩家老安藤継明は14日に一揆勢の前で割腹。安藤の至誠に打たれた一揆勢は宗家宇和島藩の仲介もあって帰村。要求のほとんどは認められる事になる。
ご存知「武左衛門一揆」の顛末である。
ちなみに吉田の夏祭りは彼を祭った安藤神社の祭礼だ。



さて、この河原で戦時中、宇和島市長や助役を初め宇和島市民が挙ってこの河原に集結しました。


その様はまさに


「昭和の百姓一揆」




戦時中にこの河原に市民が集結した。



昭和8年に私鉄宇和島鉄道を買収した国鉄ですが、その後の四国循環鉄道は遅々として進みません。
それは路線選定に対して地元や国の意見がまとまらない事が最大の要因でした。

第104号路線
大洲ー宮之下ー近永ー江川崎ー須崎
(宇和島線は支線となる)


第103号路線
大洲ー八幡浜ー宇和町ー三間ー宇和島ー南宇和郡ー宿毛ー中村


当時の考えとして船舶の航行する海岸部より寧ろ交通不便な山間部こそ汽車を通すべきと言う考えが主流でしたし、また技術的にも法華津峠の勾配は汽車が走るにはきつすぎて結果、104号路線が有望で、国鉄もその計画で進めていたのですがなぜか実現したのは第103号線の計画に沿った現代の予讃線でした。
「村山豊次郎傅」にはその決定を「木の葉が沈んで小石が流れる以上の奇怪事」と表現しています。


昭和18年9月に着工したのですが、当時は戦時中。サイパン、グアム島守備隊が玉砕し、ここを拠点としたB-29の空襲が始まった時期です。

上田市長は国の鉄道建設に協力すべく地元選出国会議員と図って鉄材、人材の供出を呼びかけました。

一番必要な鉄材(レール)は、新設なった宇和島ー吉野生間の鉄道のレールを流用する事を計画しましたが当然ながら鬼北地方の住民に大反対に遭いました。
苦慮した上田市長は松山の伊予鉄道に赴き「松山ー高浜間の複線を単線にして、残るレールを払い下げて欲しい」と交渉しました。
上田市長と予てから親交のあった伊予鉄道の太宰社長はさすがに難色を示しましたが「国防上にも軍事的にも緊要な路線である」と言う戦時下の要求と福本知事の応援もあってこれを了承しました。


鉄材の確保が決まれば次は人材の確保です。
宇和島近辺のみならず、東、西、北の宇和三郡の男女青年団を中心に「速成同盟」を組織し突貫工事に従事しました。
遠くは西宇和郡の三崎半島の遠隔の地からも団体で参加したと言う事です。

前述の如く、宇和島の八幡河原には市長、助役、市会議員を初め各区民が順番で集まり砂利を採取して北宇和島駅まで運びさらに鉄道で工事現場に輸送しました。
勤労奉仕が当たり前の戦時下とは言え、血の滲むような努力で工事が竣功するのには実に3年の年月を要しました。


官民協力して鉄道の建設のために働く地元住民の姿を、かつてこの地で切腹して果てた安藤継明の霊はどのように眺めたのでしょうか。

その後の空襲で宇和島駅舎は消失しましたが鉄道は残りました。

戦後も工事に協力した住民各位は、汽車に乗るたびにかつてこの地にこだました工事の響きを懐かしくも誇らしく思い浮かべた事でしょう。





「僕もうあんな大きな暗(やみ)の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」

「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」

カムパネルラは俄(にわ)かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫(さけ)びました。

 ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかりどうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。何とも云えずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向うの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕(うで)を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。

「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」

ジョバンニが斯(こ)う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座(すわ)っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。

宮沢賢治 『銀河鉄道の夜』




宇和島駅機関区 木製の電柱が往時を偲ぶ縁か



一次資料
「宇和島の明治大正史」津村寿男
「村山豊次郎傅」井上雄馬

  

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2008年07月24日

宇和島鉄道の夜明 1



「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。
僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない。」


「うん。僕だってそうだ。」

カムパネルラの眼にはきれいな涙(なみだ)がうかんでいました。


「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」
(宮沢賢治著 『銀河鉄道の夜』より)





駅を出る私鉄宇和島鉄道


私鉄宇和島鉄道の設立を最初に呼びかけたのは好藤村(旧広見町)の今西幹一郎で、明治37~8年の事でした。

宇和島のように航路が開けている海辺の町より、船が行く事のできない山間の町のほうにこそ鉄道が必要だと言う考えが当時の常識で、現在の鬼北地方から鉄道建設の声が上がったのは当然の事であったのでしょう。
国任せでは中々鉄道を敷くことができないと思った彼らは、

「国がやってくれんのやったら、自分らでやったらええわい!」と奮い立ちました。

現代では想像も付かない大きなエネルギーが、人々の中に燃え滾っていた時代。

それはあたかも機関車の釜の中で赤々と燃える石炭の炎のように力強かった事でしょう。



私鉄宇和島鉄道開通式 大正3年 宇和島ー近永 所要時間 1:40 運賃 大人二十九銭

社長   井上角五郎(広島) 
副社長  今西幹一郎(好藤村)
専務   河野虎尾(好藤村)
取締役  井上要  玉井安蔵(愛治村)  石崎忠八(宇和島町)  小西荘三郎(岩松町)





その宇和島鉄道の名前が残っている唯一の「鉄道遺産」があると聞いて、松野町吉野へ行ってきました。








車を停めて、いざ出発   このあたりがかつて宇和島鉄道吉野駅があったあたりか?



なんか書いてある?



えええええーface08

ちがいますぅーーーーface07


「おもしろ看板」決定face06




しかし、元公園らしい樹林はいくつもあるけど、発見には至りません。



あきらめて帰ろうとしたら一台の車が通りかかり、声をかけて中のご婦人に聞いたら、親切に車を降りて教えてくれました。face10





ありがとうございますーface05

感謝で見送るまーきみ。




美しい田園風景





この池が目印らしい




おや? あれか?






あった!face08

「文殊公園」の石碑





大正13年の竣工




宇和島運輸の堀部彦次郎が宇和島鉄道会社2代目社長に就任し、駅を当初の和霊町(城北中学校あたり)から鶴島町(現在のJR宇和島駅)に移転し、資本を増額して近永から吉野まで伸延。
同時に「文殊公園」を整備し行楽客を誘致した。

明治43年、沿岸航路の運行に着手した宇和島運輸が板嶋丸を建造、赤松遊園地を整備し同船を就航させ好評を博したのと同じ手法である。


後年同路線の国鉄への発展的買収を成し遂げるのにも有利に運んだ一因になった思われる。

「財界に堀部あり、政界に山村あり」

その堀部が死去し、あとを継いだ山村三代目社長(元市長)の活躍の話は後日に譲りたい。




 敷地内には仏像が安置された文殊堂があり、それが公園名の由来となっています。
 水の流れを組み込んだ庭園にはあじさいが数多く植えられており、花の頃には訪れる人々の目を楽しませてくれます
(松野町商工会)




この日は雨 紫陽花も名残の花を咲かせていた。




この古木も、悠久の歴史を見てきたのだろう。




下の畑で農作業をしていたご婦人に話しかけると、手を休めてかつてはこのあたり一体が宇和島鉄道の敷地だと教えてくれた。



当時のホームの跡があると、わざわざ案内してくれた。

右手の更地は最近まで製材所があったそうな。



この勾配と、左手のコンクリート(指先)が当時のホームの名残らしい。







「昔はあのあたりに小さな劇場があったらしい」と説明してくれた。

このご婦人の記憶には無い昔らしい。


「時々宇和島鉄道の事を調べに来る人がいる」とのこと

態々の親切を謝し、家路に着く。



吉野駅跡の全景


このあたりはかつて吉野村と呼ばれたところ。



1889年(明治22年) - 町村制・市制施行時に、吉野(よしの)、蕨生(わらびお)、奥野川(おくのかわ)の3か村の合併により吉野生村となる。
1955年(昭和30年) - 松丸町との1町1村の合併により松野町となる。




一次資料
「宇和島の明治大正史」津村寿男
「村上豊次郎傅」井上雄馬

注 玉井安蔵は上記の資料では愛治村とあるが、株主名簿には「宇和島」とある。


  

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2008年07月09日

宇和島タイムスリップ 二重柿の下で思う

私が初めて「二重柿」という名前を知ったのは昭和63年春、宇和島東高等学校野球部が春の選抜で優勝した祝賀会に同校を訪れたときでした。
確か野球部員と関係者を乗せたバスが到着するのを待っていた玄関付近で見たような記憶があります。




大正11年11月25日 宇和島市に東宮殿下(皇太子時代の昭和天皇、当時摂政宮)がご巡啓されたとき、市内の高等小学校以上の生徒と一般の人々が出迎えたのが現在の東高校である「宇和島中学」でした。

出迎えた児童生徒は宇和島中学、宇和島高等女学校、実家女学校、第1(明倫小学校の前身)2(鶴島〃)4(和霊〃)5(住吉〃)の各高等小学校(天神町にあった第3小学校は新設のため高等小学校生徒なし)3610名


宇和島中学 大正9年ごろ

皇太子殿下は授業参観の後、講堂で行われた地元特産品の陳列をご覧になった折に清満村満願寺産の二重柿に特別の注意を払われ、ご苑内に栽培する思し召しにて品種献上のご沙汰があり出品者は無常の光栄に浴したとあります。


東高校の二重柿はその頃に植えられたものであるらしいのですが、その実際の経緯については同校とは関係の薄い私には分かり兼ねます。同校の卒業生の方ならあるいはご存知かもしれません。



戎山から見た樺崎方面 


当時、須賀川付け替え前の内港は水深浅く、大型船は「お上がり場」と呼ばれた樺崎桟橋に着岸していました。

皇太子殿下のお召し艦もこの地に着かれたのですが、行啓の際、殿下の後に従う序列の順番についてハプニングがありました。


現在の歴史資料館あたりか 後方に見えるのは戎山


当時県から市に通達された行列の順位のうち、山村豊次郎宇和島市長は宮内省関係者、県の高官の後だったのに、当日の列には最後尾であったはずの山村市長が殿下のすぐ後ろを歩いていました。
そして、宇和島城で伊達候より殿下に茶菓の饗応の宴があったのですが、殿下の正面の席にはやはり山村市長が座り、県の高官は別席だったということでした。


これらの「序列変更」の原因はいろいろと憶測はありましたが、その真実は長い間謎とされていました。
それらが一般に知られたのは、その時枢密院顧問官として殿下に随行してきた穂積博士が大正14年、枢密院議長の在職中に死去したときに博士を追悼する山村市長の談話によって明らかにされたのでした。

穂積博士は「殿下は宇和島市に行啓になられたのであるから、市長は市民全体の代表者として上位に着くことが当たり前で、県の定めたことは間違っているのみならず、高等官級の下位に市長を置くことなどは以ての外の無礼である」と言って当日の順位を変更したのでした。
その後に聞いた話では松山市でも、県の態度に憤慨した市長が列外でお迎えしたそうです。


殿下は、この時宇和島中学と、鶴島公園に宇和島中学校長、山村市長にそれぞれ乞われ松をお手植えになったそうです。
現在残っている二本の松はその松では無いでしょうが、その近くに植えられたものと思います。


雪景色の鶴島神苑 左手中腹の神社が鶴島神社(戦災で消失) 現在の松林眼科ー児童相談所のあたり

その後、殿下は上記の茶話会のために徒歩で城山に上られました。
このときのエピソードで、殿下の前に席を設けられた山村市長は殿下や宮内大臣の着席を待っていたのですが、いつまでたっても誰も座りません。
ますます恐れ入る市長に殿下傍らの穂積博士が「主人役の市長が座るのを殿下はお待ちになっておられる」と笑いながら話しかけたということです。
そのとき、どのような思いで山村市長着席したかは想像するしかありませんが宇和島中学に集まった児童生徒たちの奉迎歌に「日嗣の皇子」と歌われたその時代の皇太子殿下に礼を尽くされた事に対する驚きと感激は将来彼の胸から去らなかった事でしょう。


穂積博士の持論は「市町村長の如きは無冠の帝王であって全ての官吏との間に上下を論ずべき性質のものではない」と言うもので、「市長を尊ぶのは市民の意を尊ぶ為」と言う「ロンドン自治制発達の根源」に拠るものだったのでしょうか。

後に穂積博士は宇和島人の気性として「引っ込み思案」を「必要以上の謙遜礼譲」と心得る悪弊を指摘しております。

たとえば、多くの人が集まる席では皆下座に座りたがり、上座に空席が目立ち、それが為に徒に時間を空費する。
講師を迎えての勉強会などで、上座に空席が多いと大変失礼に当たるので主催者は大変に迷惑する、と言うことでしょうか。

穂積博士の夫人は東京近郊の人なので、夫妻のそれぞれの出身の子弟を書生として預かっても、婦人の出身地からでは青年は淡白無邪気にして与えるものを喜び食するも、宇和島の青年は遠慮して強いて進められてようやく恥ずかしげに口にすると言う有様を見て、これでは却って美風と思っているものが先方の行為を無にし礼を失する事になると戒められております。


私事ですが
高校を卒業して他県に就職したとき、寮の同室の先輩からやはり同じような指摘を受け諄々と諭されたことがありました。
当時は「人が礼儀を尽くしてるのに話の分からないいやな先輩」と思っていましたが今にして思えばまさに博士の言われたことと同じだったのだなと、ありがたく思っています。



最後に、博士の死後に発見された宇和島市民に宛てた遺言をここに書きます。


宇和島市民諸君へ

私は大正11年11月25日皇太子殿下が我が宇和島市へ行啓に相成ったとき、天赦園ご散策中陪席して地方の人情風俗に付き種々御下問に奉答しましたがその中に諸君の事については左の如く申し上げておきました。

宇和島市民の特色は、資性敦厚にして公共心に富んでいる事であります。
殊に当市の主なる実業家は皆社会の牛耳を執り公共事業の振興には非常に熱心に尽力致しますからこれが為にこの僻遠なる地も教育、産業その他百般の事業もその進歩が極めて著しゅうございます。

無論この地方にも政党政派もありますが、これが為に他の地方に往々見る如き弊は少しも認められません。市の公共事業まで国策に関する政権の異闘を及ぼす事なく、何事についても相談が纏まり同心協力の実が挙がる様であります。

市会議員並びに実業家の態度は只今の所では極めて満足であります。この宇和島には所謂我利我利と申す様な事業家は無い様であります。

或いは有るかもしれませんが彼等は影を潜めておりまして、往々他の地方において観る如く金力を以って幅を利かしているとい如き者は無いようであります。
この宇和島の近年の進歩は、全く市民が公共心に富んで居って何事に付けても同心協力の実が挙がるからであります。云々

殿下は池の西方にある大藤の株の横たわれるに御腰を掛けさせられ、いと御満足げに縷々お肯きに相成り、尚農村の事についても1,2ご下問がありました。
右の如く我同郷諸君の愛郷心に付いては諸君の郷里の地に行啓あった節、親しく実分に〇聞に達しておきました。この事を御忘れない様願います。
大正11年12月5日 
帰京の翌日記 穂積陳重



一次資料「山村豊次郎傅」  

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2008年07月05日

宇和島タイムスリップ 宇和島空襲の謎

5月10日に朝日町、須賀通り、寿町に爆弾が投下され115人が亡くなった最初の空襲は、広島県の大竹精油所を目指していたが、何らかの事情でそれが出来なくなり宇和島に投下したものだと述べました。

その「何らかの事情」がエンジントラブルである可能性が推測される記録を見つけました。

「宇和島の空襲第9集」の中の宇和空甲飛14期Kさんの手記
「宇和島が初めて空爆にあった時、私は練兵場(予科練)の北東端の指揮所にいました。(中略)当日、配置についてしばらくすると『敵機、数機目標北上中』の連絡があり、班長が双眼鏡でジッと南の空を視ておられましたが『おい来たぞB-29の編隊だ』班長の言われる方向を見ると鬼ヶ城の南東方面だったでしょうか、肉眼でも編隊が見えはじめました(20機くらいだったと思います)『一機が編隊から離れて宇和島に来るぞ』 『4つのエンジン一つ故障かペラ一つ停まっているぞ』(中略)『おい!落すぞ弾倉を開いたぞ、アッ落とした、伏せえ!』班長の怒号に私たちは瞬時に地べたに伏せました。ザァザァ・・近くをまるで貨物列車が通る音。・・・後略



B-29はプロペラ4基






この爆撃による遺体は、宇和島町立商業学校に運ばれました。
(19年より造船科と航空科による県立宇和島工業学校となる)
3,4年生は学徒動員で留守になり、1,2年生のみ在校していました。
その当時から校庭が空襲を避けるための避難場所確保のために取り壊した建物の廃材置き場になっていて29日の校舎炎上に拍車をかけることになりました。

在校した1,2年生(現在の中学生と同じ年代)は憲兵の命令によりトラックで次々と運び込まれる爆死した人の遺体を運搬するよう命令されたと言います。
そして憲兵より「今日の事は総て極秘」と厳命され、家まで尾行されたとあります。
当時、最早無意味と思われる「軍の機密の遵守」が正確な空襲の記録が収集し難い原因になっているのでしょう。



日時は前後しますが、13回の空襲のうち、7月には7回と、最も多く集中しています、うち25日11時頃に、大浦の宇和島鉄工所に爆弾を落とした攻撃機はそれまでのB29ではなく、空母から飛来したB29より小型の艦載機であるということです。
B-29と並んで名前を知られる「グラマン」と言うのがこれにあたります。
B-29(搭乗11名)より小型(搭乗1名)で、小回りが利くそうで湾岸などの狭小な目標に向いているそうですが、B-29が主流だった宇和島の空襲には特異なケースであると言えます。

「ある町内会長の手記」より
午前5時過ぎ、またも小機の分散来襲始まる。警報引き切れず。午前10時50分、敵艦上機4機、急降下して機銃掃射をやる。朝日町方面に黒煙上がる


また、8月12日正午前に、機銃掃射があたっと記録にあります。
宇和島中学の在校生の手記では、日時はかいてありませんが、宇和島中学グラウンドにグラマン(艦載機)が校庭に機銃掃射したとあります。これがあるいは、12日の空襲かもしれません。
また、別の手記には「艦載機が機銃掃射、予科練に爆弾投下」と言うのもありましたが、予科練に爆弾を投下したのはB-29ですので、おそらく混同しているのかも知れません。



被災した主な場所は市誌では宇和島中央部と言う事ですが、下記の米軍の資料とは矛盾します。


13日と、29日の空襲の内容が錯綜

中小年で短期間に2回も大きな空襲を受けているので、どっちがどっちだか聞く人によって区々ですが、これは致し方の無い事でしょう。
「或る町内会長の手記」では29日の被災地は「本町、和霊町、鶴島町、朝日町」とあり、さらに13日の空襲は「火災は市の中央部から、南部東部へ燃え広がる。裁判所、赤松酒店、図書館、伊達家も焼失」とあり、その火災の分布に「宇和島市誌」と矛盾する点が見られます。

「米軍資料」と「或る町内会長の手記」と他の多くの手記から総合して、「宇和島市誌」は罹災場所について13日(市内北西部)と29日(市内中央部)が反対ではないかと言う疑問が生じます。

当時富沢町(現在・御徒町付近)の日本蚕糸鶴島工場にいた女子挺身隊(宇和島高等女学校)の方の手記では
29日の空襲で伊達家が燃えていて予科練生の消火活動を手伝ったとあります。
「戦後そこを通るたびに、あ、ここは私たちが消したのだと懐かしく思ったものです。今は新しく博物館が建っています。」
「ふと見ると、図書館の土蔵が焼け残り、あぁ良かったと思ったのに、後日扉を開けたら本は全部焼けてしまっていたとか」とあります。



推測ですが


1)米軍資料と町内会長の手記、他の方の手記は概ね被災場所について一致している。

2)女子挺身隊の方が、29日の空襲で伊達家が焼失したと言うのは、あるいは後日市誌の記録と照らし合わせた結果ではないか?
「国宝大手門」13日に焼失したと言う説と、29日という説もあるそうです。更なる資料の検討が要求されます。



米軍資料による13日と29日の被災地域

さらに、図書館に多くの資料を保存していた館長、兵頭賢一氏の手記でも伊達家と図書館の焼失は13日となっていて米軍資料を裏付けます。
裁判所、市立病院もこの時被災しました。この日、宮下、寄松、大浦、蛤、柿原なども被災したようです。

私が小学校低学年の頃、九島の親戚の家に遊びに行って叔父が「百ノ浦に観音様が出来た」というので見に行った覚えがあります。この観音様も戦災に遭った人々のために建立されたと言う事を知ったのはずっと後の事でした。




平和そのものの九島の風景。ここが空襲を受けて、小さな子供を含め何人も死んだなんて現在の人は信じるだろうか。  

Posted by まーきみ。 at 08:32Comments(3)TrackBack(0)宇和島タイムスリップ

2008年07月03日

宇和島タイムスリップ 宇和島空襲 3

7月29日未明(0:00頃)
7月13日の雨の夜の宇和島市北西部の焼夷弾投下で、建造密集地の14%が焼けましたが、米軍はそれだけでは満足せず、さらに7月29日の爆撃を決行しました。これにより合わせて53%が焼失しました。
前回より物量的には4分の一ですが、被害は前回を大きく上回り、死者100人建物の全半焼4000余り、被害は逆に4倍、2倍と増えています。天候が影響したのでしょう。
2日前の九島沖への照明弾投下は、13日の爆撃の「成果」を調べ、更なる爆撃へのデーター収集だったのかもしれません。

宇和島のように2回も中小都市空襲が行なわれたのは異例の事で、他にはわずかに三例しかありません。
出撃したB-29、三十二機のうち、二十九機が50キロ焼夷弾90トン、250キロ集束焼夷弾115トンを投下。
13日の爆撃より4分の1の火薬量ですが、それでも被害は3倍になりました。天気が作用したのでしょうか。
建物の全半壊4000、死者100人という、最大の惨事になりました。
宇和島市誌によれば被災した主な場所は宇和島中央部と言う事ですが、下記の米軍の資料とは矛盾します。
解説は後日に譲りますが、どうも宇和島市誌は13日と29日の被災場所を取り違えているように思えてなりません。
(余談ですが昭和天皇巡行は昭和41年ですが、市誌には40年と書いてあるなど、事実と一致しない点もあります。)




被災してなくなった方で、国鉄関係者がこの空襲に多く含まれているので国鉄宇和島駅が被災したのはこの時の空襲だと思います。


特筆すべき事は、ある女性の軍属である夫が「宇和島の夜の空襲は焼夷弾だから防空壕に入っては危ない」と言ったと言う事です。

その言葉を証明するかのように、防空壕で焼死したり、避難の時機を逸したと言う手記がとても多いのです。
警防団員に防空壕へ入るのを勧められながら、最後にはそこから非難するようにと言われたりと、軍部や役所など上層部のの指示が間違っていた事になります。
逆に四国電力など鉄筋コンクリートの建物に非難した人が多く難を逃れたようです。市役所が焼け残ったのも頷けます。


8月8日の予科練への爆弾投下
この総重量約4,800kgの爆弾は翌日の長崎へ投下された爆弾と同型(パンプキン爆弾)のため、その予行練習ではないかという指摘もあります。
原爆投下の訓練用模擬爆弾は日本各地に投下されていますが、当初の目標に宇和島は入っていません。
それは第一目標に投下できなかった場合の第二目標のリストが作成されて、その中に宇和島の「未確認組立工場」
が入っていたのですが、この工場が予科練の北側の建物でした。(下記近江帆布写真等参照)

現在近くの90を越えるおばあさんから聞いた話。
ちょうどその時洗濯物を干していたそうで、あまりの爆音の凄さに恐ろしいのを通り越してただ唖然として眺めていたと言います。
予科練生その他18人が爆死(推定)
遺体はその場で荼毘に付され、多くはそのまま埋められたと記録にありますが、近所の人の話では現在の坂下津岸壁西側まで運んで荼毘に付したと言う話も聞きました。






爆弾が落ちた場所は湿地帯だったため、湧き水がたまり池になり1970年代に坂下津産業団地が整備されるまで現存し
我々は「爆弾池」と呼んでいました。

伊達温泉の裏山あたりに、防空壕がありました。子供の頃入った事がありますが今はどのあたりか覚えていません。




伊達温泉の山際にある火薬庫




爆弾池があったと思われる場所(現在)



近江帆布時代の写真 中央の工場らしい建物は、私が子供の頃には更地になっていてコンクリートの床下は貯水槽になっていた。そこが飛行場後かと思っていたが、そうではないらしい。

ある方の手記では、グラマンが飛んできて予科練に爆弾を落としていったとありますが、この時爆弾を投下したのはB-29です。同手記にはさらに「九島方面に機銃掃射をした」とありますので、あるいは12日に記録のある「機銃掃射」の事かもしれません。

この空襲が、最後の空襲となりました。玉音放送がある数日前まで悲惨な戦災が続いていた事は誠に慚愧に耐えません。





  

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2008年06月29日

宇和島タイムスリップ 宇和島空襲 1

宇和島の空襲は、5月11日に朝日町、須賀通り、寿町に爆弾が投下され115人が亡くなったのが最初です。
建物の全半焼は200余りですが、死者、重軽傷者は宇和島空襲史上、最大の被害となりました。

以後、13回(未確認1回)死者278(うち海軍航空隊18名は推定)建物焼失6600余の大災害となった空襲が終戦間近の8月12日まで続く。(8月12日は機銃掃射)

宇和島空襲のうち、当初から宇和島を狙った空襲は意外と少ないのです。この5月の初空襲もそうでした。

最初の5月の空襲は、マリアナ基地から飛び立ったB29は、広島県の大竹精油所を目指していたが、何らかの事情でそれが出来なくなり250キロ爆弾を20発投下した(米軍資料)とあります。

米軍は国勢調査による人口から、空襲を概ね大都市、中小都市に分類し、この時期は大都市空襲の期間でした。
なぜこの時期、中小都市であった宇和島(実際の目標は大竹市)を攻撃したかという疑問が生じます。

当時決行中の沖縄上陸作戦中の米軍艦船に対し、日本軍の特攻隊攻撃を受けこれに悩まされた米側が、それらを阻止するために大都市空襲を一時中断し、九州四国方面の飛行場を攻撃するように指示を出していました。
その作戦が終わるのが5月11日であったのですが、その頃に燃料補給基地である大竹精油所の爆撃に向かったB29編隊が何らかの事情で宇和島を爆撃したものであたっと推察されます。

米軍の資料では「B29一機飛来」となっていますし、朝日新聞の報道も「南から一機・・」と書かれていますが、「宇和島の空襲」(水野政子代表)に寄せられた手記によると、「午前8:40分頃、鬼ケ城から飛来した十数機の編隊が吉田方面に去ろうとして、内一機が突如転回、九島の裏を通って鬼ヶ城方面に逆戻りし、再び転回、お城山をめがけて低空飛行しながら、朝日町方面に爆弾を投下した、とあります。
(12機の編隊が九島方面から朝日町方面に飛来し、内、一機が低空飛行して投下した、と言う手記もあります)


赤太線が編隊の進路、細線が爆弾を投下した一機の進路(まーきみ。推定)


その2日後に、B29一機が当初から宇和島に狙いを定めて250キロ爆弾12発投下したと言う資料が米軍に残っていますが、不思議なことに日本国内の記録には残っていません。人里はなれた山間部に投下されたのでしょうか。




わずかの間に、100人以上が死ぬと言う惨劇は戦争を体験していないものには想像する事ができない。

爆弾の直撃を受けたある郵便局員のHさん家では、九島に配達に行っていた主人と、山に遊びに行っていた疎開中の甥以外の嫁、母、2人の子供、疎開してきた妹ともう一人の子供、叔母一家三人が一瞬に爆死してしまった。

爆弾は地中深くに突き刺さった後爆発する仕掛けになっていたので後にはすり鉢状の穴が残った。
山から帰った甥は、一人しょんぼりと佇んでいたと言う。

その後再婚したHさんは、死ぬまでその日の事を語ることはなかった。位牌に手を合わせると泣いた。
「バラバラになった死体を拾い集めて、棺桶に入れたんよ」後妻さんが聞いた空襲の話はその一言だけだったと言う。


死体は総て天神町にあった宇和島商業学校(当時、県立商工学校)に収容され、検視の後遺族に引き取られたと言う。
≪隣の中央国民学校(戦後城北中学を経て天神小学校、現在ハローワークや法務局)だったという手記もあり、両方だったのかも知れない≫

尚、この日、警防団員(消防団員)2名が出動中に爆弾の直撃を受け殉死している。


現在の地図から、赤丸が爆弾の直撃により殉死した場所(宇和島義勇消防史より)

屋根を修理していた人が爆風で、朝日町から川を越えた須賀通りの畑まで吹き飛ばされたとか、藤江の石山に落ちた爆弾に飛ばされた石が壕を突き抜けて当たり、子供が死亡したとか信じられないような凄惨な実話は枚挙に暇がない。しかし、深い悲しみからそれらの話を関係者から進んで聞くことはほとんどなかった。
「宇和島の空襲」(20号まで)を刊行した「宇和島空襲を記録する会」代表の水野政子氏並びに関係各位には深い敬意を捧げたい。
つづく






  
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2008年06月25日

宇和島タイムスリップ 花街

先日、住吉山に登ろうと出かけたところ


コーラルホテルの駐車場前に


石碑発見face08


築地の花街を作ったときの記念碑

この石碑を見ると、今では聞き慣れない言葉

「料理屋業組合」「置屋業組合」

などが書かれています。

昭和の初期、須賀川の付け替えにより北新町(現・御幸町あたり)から泉新田(現・築地)に移転してこの新天地で営業を始めた上記の組合によって建てられた石碑のようです。撰文は高畠亀太郎市長 昭和15年8月吉日 となっています。



この石碑がある地域は、90年代に埋め立てられた「朝日運河」の中になります。

後に見えるこげ茶のマンション「東雲」の前までが運河であった地域です。


朝日運河があった位置


北新町あたりにあった花街が、泉新田に移転するきっかけになったのは、その所属する八幡村と宇和島町の合併協議が行なわれている大正9年に遡ります。

宇和島町との合併がこじれていた現状を見かねて、在京の穂積博士が仲介の労を取った事は既に述べたとおりですが、合併に反対する人々に翻意を促す意外な出来事が起こりました。

それは巡視に来た新任の警察部長が、「風俗取締りの観点から、農村に芸者を置くことは一律に禁じる方針であり、そうなると八幡村も村であるから当然置く事は参らぬ事になる」と警告したのでした。

当時北宇和郡には、八幡村の他に「三間」「旭(近永町)」「明治(あけはる・後の松丸町)」「日吉」など各村にも花街がありそれぞれ全盛を極めていました。

大正年には当時の鶴島町を舞台にした「伊予の仇浪」事件も起りましたが、この項では割愛します。


八幡浜の経済基盤は当時、花街からの収入に拠る所が大きくもし廃止になれば現在の財政は維持されなくなります。
これによって急転直下、翌年の合併実現となったのです。

さて、合併後に予定された大事業のうち水道敷設は紆余曲折の大苦心の末に、大正15年に県下に先駆けて完成することが出来ました。
そして昭和五年よりもう一つの懸案事項「内港整備に伴う須賀川の付け替え事業」が始まりました。

そして、その新しい須賀川が当時の花街を通るために、新たな移転先について警察を交えて協議することになったのでした。


須賀川沿岸の地図 上の赤枠が「北陽花街」 下が「築地花街」



佐伯酒店、キリン館(現・清岡眼科)前から国道56号線にかけて須賀川が流れていた。

この須賀川を、和霊神社の前方に架かる「御幸橋」から上流120間(約220m)現在の城北中学校あたりから破線の部分に付け替える計画でした。

昭和3年より用地買収交渉 買収対象面積1万5550坪、居住世帯150件、うち花街関連は、料理屋25、置屋9軒が移動の対象となりました。地代、家屋の移転補償、休業補償なども市から拠出されました。

施工は東京清水組(現・清水建設株式会社)起工は昭和五年
完工は昭和7年10月 通水式は翌年一月。
ちなみに上水道の通水式同様、工事の一番の功労者である山村豊次郎はその席にいませんでした。起工式の翌年に行なわれた市会議員の選挙で自身の所属する政友会が民政党に敗れたため民意を尊重して辞職したのでした。



昭和35年頃の須賀川


さて、花街の移転に関する警察の見解は「現在の北新町(北陽)は不適で、泉新田が適当であるが過去に現在地に集めるよう圧迫された歴史に鑑み、移転するのも現地に残るのも許可する」と言う方針であると言う極めて寛大なものでした。

拠って、未開不毛の泉新田地区を敬遠し現在地に残る業者、新たな地で花街向きの建設を行いたいと言う業者とに分かれることになったのです。



北陽の芸妓たち(大正10年頃)



築地花街 店の名前が記されている。


その後、両者がどのような興隆ー衰退の歴史を辿ったかは、宇和島市誌には書かれていません。

一時期は「料亭政治」が宇和島でも主流となり、山村豊次郎などもそれらを大いに活用したとある。
戦後の民主的な法整備や生活様式、社会様式の変化により、その歴史は人知らず時代の波の中に飲まれていったのでしょうか。


朝日運河から見た築地花街の様子(昭和30年代か)映画「続・大番」より



加東大介や多々良純


三木のり平

資料1 宇和島懐かしの写真集(遊郭)

資料2 「築地建設記念」の石碑(サムネイル)



資料3 原文を起こしたもの 所々間違いがあるかもしれませんがご容赦をface10

昭和四年宇和島市港湾改修の進捗に伴い須賀川付け替えの議、決するや河身北陽を貫くを以って市長山村豊次郎深く之を憂い業者を融通して花街移転は計画を樹つ。

業者は今岡松太郎、藤原茂馬、矢島亀壽、曾我禎吉、吉本格一、河野利八、上田輝廣、青井清三郎、小島岩太郎等、率先之に賛同し相謀りて地を朝日町埋立地に相し初めて築地と命名し花街建設を企画す。

ここにおいて、まず地主兵庫県石野巳之助交渉してその協力を得、昭和五年四月料理屋営業地許可の指令に接すると共に直ちに工を起す。

即ち葦萩を刈り〇棘を抜き衆人一願となりて土地開発に富るや、日ならずして環境全く面目を一新す、これ実に築地の草創なり、後石野は之を〇りて友人御影町、八木秀次郎志を継承し力を事業遂行に頒注す。

家屋建築は専ら大阪市の請負業者黒石富蔵手にたくし六年五月営業を開始す。

その間幾多の障害と困難に遭遇せしも業者よく結束して之に堪え拮据経営数年を経て基礎漸く定まる。

爾来宇和島市の発展と共にこの地業界順調の進歩を遂げて遊宴の諸設備整い、社交場欠くべからざる地区として今日の興隆を見るに至れり。
その創立10周年に際し、築地料理屋業組合、置屋業組合、によりて記念の碑を建て事跡を禄して永くこれを伝う。
昭和15年 八月吉日 宇和島市長 高畠亀太郎 撰 拝書
  

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2008年06月14日

宇和島幼稚園追記


昭和40年春 天赦園に遠足 カラー写真は当時としては珍しい。


以前、顧客さんからの話で、終戦後宇和島幼稚園が「法圓寺(立正保育園)」にあったと書いた。
その話は意外だった。法圓寺は立正保育園を経営してるのでまさかそんなところに宇和島幼稚園が・・と。

その後の調べで少しずつ判ってきたので書いて見ます。(尚、すでに述べた箇所に関しては割愛します)

宇和島幼稚園は20年7月の大空襲で焼失し、そのまま自然解散と言う形を余儀なくされた。

しかし、関係者や父兄の復興の思いは強く、ある人を介して法圓時境内を借りて、21年4月から園児65人を収容して戦後も宇和島の幼児教育の先駆けとして出発した。遊具は「山下小児科医院」から全部寄贈されたとある。

以下余談
私も子供の頃この先生(先代)が主治医だった。話好きの先生で診察や注射の記憶はないが、親と延々と話ばかりしてた事ばかりが思い出される。
余談だが、母親の戦死した叔父は若い頃山下先生の車引をしていたと言う。今で言う(お抱え運転手か)
あるいは、その縁でこのの先生にお世話になっていたのかもしれない。
先生は西海町船越の出身である。その事をかの地に仕事に行くようになって初めて聞いた。戦後しばらくはるか西海町から診察を受けに来た人も多かったらしい。




園犬?コロ 幼稚園児には優しかったが、他所の人や小学生には警戒していた。



私たちがいた頃に一番年配で指導的立場にあったS先生はその頃既に保育に当たっていたが、ある日元学務課長の方から母親が急死して孤児になった子供の保護を懇願された。
一人一人が食べていくのがやっとの時代に途方似れたS先生は後の市長になるN氏に励まされ、これからの一生を幼児教育に全身全霊を捧げようと決意したとある。

私たちが幼稚園時代には怖い先生だった。学芸会の幕を引き落としてこっぴどく怒られたことは以前に書いた。
父兄たちの信頼は特に厚かった様で、後年母親が何かの旅行で退職され松本市の縁者のもとに移転されたS先生を皆で訪ねたという。その時の写真とS先生の手紙が今もあるはずだ。
母親は戦後の宇和島幼稚園復興の功労者はS先生だと話していたのを聞いたことがある。

翌年、法圓寺は「立正保育園」を設立し70名の幼児を収容することになった。
宇和島保育園は、現在の「わかたけ」の前あたりと給食センターに園舎を建てて移転することが出来た。

市当局も財政困難な時代、この新築には多くの人々の寄付が寄せられたと言う。


この門柱は当時のものと思われる。 ただ地面は今より幾分低かった。



後に新しい園舎(現・わかたけ)が見える。(昭和42年度頃完成) 


今の給食センターあたりに園舎が有ったと言う話は、最近4つほど年上の顧客さんから聞いた。

既に述べたが、私たちの頃は鶴島小学校の南校舎の西側2教室を年長組が借りて保育を受けていた。

その事を話しても上記の顧客さんは覚えてないと言う。

おそらく、お互いに記憶が薄れているのだろうと思っていたら最近見つけた記録では「40年11月に給食センター新設のために園舎の一部を取り壊し、鶴島小学校に間借りする。」とあった。

すると、私たちはそれまでの約半年あまり旧園舎を使った事になる。その時できた円形の池で泳いだのは、旧園舎にいた頃ということになる?初めから鶴島の校舎を使っていたと思い込んでいたがこれも記憶違いだった!


後が南校舎

記憶の糸をたどっていくとおぼろげに思い出したことがあった。

それは旧園舎にあった「フラフープ」

今の樹脂製のパイプで出来た物ではなく、桶の箍のように竹を丸めて作ったやつがたくさんあったのを思い出した。
確かに私たちはそこにいたのだろう。





宇和島幼稚園の庭 後は鶴島小学校講堂




大人たちにとっては慌しい出来事も、子供は全然意に介せず遊んでいた。

そして、新しい板島橋が出来るころに卒園していった。

記録によれば、鶴島の校舎を間借りした時代は、私たちとその一年下の園児達だけのようだった。

うちの子供は1歳から保育園に入れてたが、長じて「小学校以前は保育園での記憶しかない」と言われて少なからずショックだった。家庭での事はすっかり忘れてしまったのか?
しかし、我が身を振り返ってもこの年ごろの記録は曖昧である。個人の細かい記録と言うものが如何に大切かと言うことがわかった。




現在、鶴島小学校のプールの隅にある白詰草。 昔講堂の前辺りになるこの場所に、確かにこの草が群生していた。


追記
冒頭に紹介した遺児は、その後無事に短大を卒業して、とある施設に勤務することができたと言う。







  

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2008年06月08日

電話のお話


世界的に人気沸騰のアップル社の携帯 発売と同時に品切れが予想される(らしい)



それはさておき、話はいきなり変わります。



度々登場 「わたしたちの宇和島市」

この中に水道に関して、次の記述がある。



小学校の時、この文を見て印刷ミスではないかと目を疑った。

当時「松山、新居浜、今治に次いで宇和島市は4番目の市」

と言う思い込みがあった。「水道もまず松山が一番かと思った」と友人と話し合った記憶がある。

大正年間に、上水道敷設を巡って山村市長を初めとする宇和島市民や在京の穂積博士がどれだけ苦労したかと言うことは折に触れて何度も述べた。

そういった中で「宇和島が県下に先駆けて、水道を引かなければならない理由」と言うものが少しづつ見えてきた。


さて、時代は更に明治時代に遡る。



この時代既に、宇和島が県下に先駆けて行なった事業がある。

それは


「電話架設」


その理由はやはり宇和島人の気性に拠る所が大であったのか。


それは











「でんわ、いそげ!」




・・・face07face07face07・・・・


明治三十六年、市内に閑居する一人の男が助役の一人に抜擢された。(当時の助役は2人制)

元、大津警察署長 桑山吉輝

かの「大津事件」があったときの署の責任者であった彼はその責めを負い職を辞して故郷に帰っていたのだった。

事件から既に12年が経過している。

古言に「小人閑居して不善を為す」とあるが、重職を離れて多年経過した彼が助役に推されるという事は如何に人望があったかと言うことが伺われる。

宇和島に限らず何事も発展の蔭には必ず「有為な人物」と「それを認める心ある市民」が存在する。

詳しい経緯は割愛するとして一番困ったのは電話会社が架設のために提示した条件「電話口数は90軒以上」が中々集まらなかったことだ。

それは「架設負担金は115円」があまりにも高価で(一般家庭の4ヶ月分の生活費)商家が二の足を踏んだためと思われる。


当時の反対理由を列挙してみると

電柱が交通の妨げになる

電話で用を足す事になると店に来る客が少なくなる。

電話で注文されると配達しなければならず、余計な人手がいる。

電話口で値切られると応対に時間を取られる。


などなど、

今では考えられないことだが、新しい時代の幕開けに抵抗する理由はいつも似たようなものだったろう。

後年、大相撲がラジオ放送を開始する時も「誰も国技館に来なくなる」と言う反対意見が多数だったと言うし、同様の理由で吉本興業も芸人のラジオ番組出演を禁じていた時期もあったと言う。


ただ、その中で現代でもありそうな反対意見があった。





それは













「いけんてや!」





もうえぇわ!
(゚Д゚)ノバシィィィィィィィィ(゚Д゚)ノバシィィィィィィィィ(゚Д゚)ノバシィィィィィィィィface10


失礼しました。。。。


現代でもありそうな反対意見、それは

 「それほど電話が有益なものならば、県庁の所在地である松山などは、とっくの昔に開通していなければならないはずである。松山でさえも実現していない所を見れば市民が必要を感じていない証拠である。宇和島などが電話電話と騒ぐのはまだ早い」

と言うものであった。

それに対し理事者らは下記のように答弁している。

「・・由来松山人間は何事にも消極的で、積極進取の気象がないからである。宇和島がその真似をしていたなら何時迄も発展を見ることは出来ない。・・後略・・」と言うものであった。(原文まま)
松山のみなさ~~ん、私が言ったんじゃないんですよーーー  [市駅]_・)チラッ


ま~そのぉ・・face08


田舎の人が都会の人のように鷹揚に構えとったらいけん!と言うことが言いたかったんやろうね。face02



宇和島の電話事業は90口の目標額には達しなかったが不足分を町が補い架設は成った。

意外にも架設された電話に人気が沸騰し電話の有る家には見物人が押しかけ、持ち主が用もないのに電話をかけて見せると行った始末である。

そのうち近所で電話のベルが鳴ると気が気でなくなりやがて自分も欲しくなって行く。

「あの人が持っとるけん、わしも買わんといけんてや!」

ちょうど携帯が普及しつつある時期と酷似しているな。face03

やがて一桁の電話番号をプレミア付きで奪い合う騒ぎにもなったという。

水道と電話、これは宇和島が一番だった。それはたまたまではなく、そうすることが宇和島の発展にとって必要だからそうした・・というだけの事なのだろう。

自治体の合併が進めば進むほど、地方の力は中央に奪われていくのかもしれない。

しかしながら

「都会に追いつけ!追い越せ!」ではなく、常に先を行かんと、宇和島に未来は無いぞ!の気概を持ちたい。



  

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2008年06月06日

宇和島タイムスリップ余話3 古い地図

宇和島及び南北宇和郡の古い地図のコピーを貰いました。



何枚かに分かれています。





伸縮しないテープで貼り合わせます。

コピーなので歪んでいて、ぴったりとは接合しません。face10




なんとかできた。face05



これが一番古い時代 明治43年に出来た地図です。


拡大すると



1 丸穂尋常高等小学校 (ホルモン はちのす のあたり)

この区域は宇和島町になりますが、宇和島を三方に囲んだ形の丸穂村は、どの地域からも均等な距離に小学校を作ろうとしたら、どうしても宇和島内になってしまうという事で、ここに建てられました。
行政区外に自らの小学校を建てたと言うのは全国的にも類を見ない事例だそうです。

2 宇和島女子尋常高等小学校 宇和島商業学校(たばこ産業跡地)

5にあった尋常高等小学校から男女に分かれて女子の尋常高等小学校が出来ました。
その右側が宇和島商業学校です。


3 宇和島中学(現・市立病院の西隣)

宇和島中学 商業学校と共に宇和島東高校の前身です。
位置は丸穂村字鶴島(当時)


4 宇和島高等女学校 (新市立病院 )

宇和島家政女学校と共に、南高校の前身です。

最近知った事ですが、
ここは現在、新市立病院が建設中ですが、裁判所があった頃から「宇和島高等女学校の記念碑」があって、市立病院になってもそれは保存、設置されるそうです。



明治、大正時代の学校創立の地で、記念碑が残っているのは「宇和島高等女学校」だけではないでしょうか?宇和島中学も宇和島商業学校も、創立の地がどこなのか忘れ去られようとしています。
あるいは、時の流れとしてそれはそれでいいのかもしれませんが、「古きよき時代」を残そうと言う運動は、将来の宇和島にとっても大切なことではないかとも思います。

ちなみに赤丸印は、宇和島実科女学校創設の地ではないかと思います。(現・賀古町)


5 宇和島男子尋常高等小学校 (宍戸医院あたり)

桜田屋敷跡に建てられました。


6 宇和島幼稚園

宇和島幼稚園は県下でも4番目に古い幼稚園だそうです。残念ながら現在はありません。平成11年3月閉鎖4月より「わかたけ」



大正11年の地図 宇和島市発足









1 宇和島商業学校 (ホルモン はちのす のあたり)

丸穂尋常高等小学校は村が宇和島市と合併したので廃校になり代わって商業学校が来ました。
商業学校は以後、3度引っ越します。(天神下ー予科練跡ー東高校)


2 第二小学校 

再び共学 現在の鶴島小学校の前身です。

3 宇和島中学

商業学校と共に宇和島東高校の前身です。
現在の位置です。


4 宇和島高等女学校 (新・市立病院 )

場所に変化なし


5 第一小学校 (宍戸医院あたり)

ここが明倫小学校の前身です。


6 移転した宇和島幼稚園 

個人の寄付により建てられたそうです。
平成16年このあたりで工事中に櫓の石垣が見つかって新聞記事になった事がありました。
石垣はそのまま埋め戻されたので、元の姿のまま残っているはずです。この場所を通る度に、悠久のロマンを感じます。


7 県立実科女学校(宇和津小学校)

宇和島高等女学校と共に南高校の前身です。
意外と知られていませんが、戦後しばらく城南中学校でした。

8 第三小学校(法務局や社会保険事務所あたり)
後に市内の高等小学校をここに統合しました。

この場所は幾つも学校が入れ代わり設置されました。明治時代、ここに学校が建てられた時に天神様にあやかる様にと「天神下」と言う地名が付けられたと言う事です。(丸穂村時代)
天神小学校と言う名前になったのは、戦後この地にあった城北中学校が現在地に移転した後です。
宇和津小学校と同じく、戦後しばらくして児童数の増加から校区を再編して分かれて出来た学校です。

9 第四小学校(勤労青少年ホーム)

後の和霊小学校


10 宇和島酒類株式会社(JAえひめ南中央)

言わずと知れた大宮庫吉翁を輩出した会社 翁はこの頃既に京都へ




11 第五小学校(天満神社の近く)

後の住吉小学校


この頃になると、今の学校との関係がが見えてきます。

昭和34年にピークを迎える児童の増加に対応するため、財政再建途上にある宇和島市は学校の増築資金を捻出するため、昭和26年頃から校区毎に目標額を定め、PTAを中心に一般市民から資金の借り入れをする事に決定しました。
市民は概ね協力的だったようです。

鶴島小学校の講堂が新設した直後に、本館が火事になった事があり驚いた付近の住民は挙って消火活動に駆けつけたと、今でも公民館などで古老から聞く事があります。
「自分たちが建てた学校」と言う強い愛着心があったのでしょう。


これから宇和島が迎える小中学校の統廃合も歴史の流れの一つでしょう。

その中で我々が今、一番しなければならないことは何でしょうか。
  

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2008年06月04日

宇和島タイムスリップ余話2 鶴島小学校の謎


鶴島小学校の名称の由来は?

ボウリングスタッフぶろぐさんの 「松の木2本」について調べている。

今までわかったこと



この松は由緒ある松で、ちゃんと管理者がいるとのことです。




 
明治時代の見取り図 右はサムネイル

この見取り図の2本の松が書かれているあたりにと思われますが、位置的には現存する2本の松は図面ではもっと城山寄りのようにも見えます。

ちなみにこの松に隣接する「東雲パーキング」は大正五年に「平井呉服店」が園舎を建てて寄付したそうです。
明治36年創立の宇和島幼稚園はこの地に移り、終戦間際に消防団詰所として接収されるまで続きました。
また、松林眼科、児童相談所のあるこの街区は当時鶴島神苑(昭和初期に鶴島公園)して美しい自然に囲まれた場所だったそうです。
当時の園児達をこの松は見守っていたのかもしれませんね。


①は竟成小学校  ③は旧松根邸(市立病院)である。

昔、右にあった中学校に通った人の記憶では、搦め手門から掛かっているお堀の橋(豊後橋)を渡り、校門を入ると左手に待つが二本あったある。但し戦争前まで残っていたはずだ・・と。明治初期は現在の市立病院西側に松並木があったらしい。


「宇和島城」と言うパンフより

赤丸のあたりが松が現存するあたり。やはりお堀の内側にあったと推察されます。


豊後橋






搦め手門から豊後橋を渡って中学校に行くところ。


さて、サムネイルを開くと、②に「鶴島小学校」の文字が見える。明治5年より、20年に竟成、大恵小学校と共に宇和島尋常小学校として統合されるまで続く。中学校が出来るのは小学校が現在の宍戸医院あたりに移転し、それ以降である。

さらに昭和15年に「第二尋常小学校」として分離し、再び丸の内(現・たばこ産業跡地)に新築移転する。再び「鶴島」の名前が冠せられるのは、国民学校令が施行された昭和16年に「鶴島国民学校」と改称してからだ。
つまり、明治20年より昭和18年あたりまで「鶴島」の名前は消えていたわけである。

私は、鶴島の名前の由来は、「鶴島城にちなんだ」「隣接していた鶴島神社(現・護国神社)にちなんだ。の2つのうちどちらかだろう・・と思っていた。

しかし、それならなぜ明治五年に出来た城郭下(たばこ産業)にあった2番学校を竟成学校とし、さらに離れていた1番学校を鶴島学校にしたのかという疑問が残る。(ちなみに当初は1番小学校を士族の子女を、2番に町家の子女を通わせるようにしたらしい)

最近「宇和島市誌」を読んでいてあることに気付いた。

それは、最初に「鶴島小学校」が出来た当時、そのあたりの地名は「丸穂村字鶴島」だったのだ。

「鶴島」の地名は丸穂村が大正6年に宇和島町と合併し、その後新田(現新田町)と統合されるまで続く。

「鶴島」の名前の由来の「3番目の説」を見つけた。

もちろん、個人的な推論だが、果たして正しい由来が宇和島のどこかに残っているのだろうか。

「2本の松」の由来と共に私の中では謎が益々深まった。


追記
明治23年の宇和島尋常小学校設立以前の記録や名称は、色々な記録が交差したり法令の慌しい変遷もありはっきりした事は分かりません。鶴島、竟成、大恵の3つの小学校があった事は確かなようです。  
タグ :鶴島小学校

Posted by まーきみ。 at 08:01Comments(8)TrackBack(0)宇和島タイムスリップ

2008年06月03日

宇和島タイムスリップ余話2  寿像

以前にもふれたが、大宮庫吉翁をよく知る人が、ホールに自分の名前を残したり、自身の銅像を建てる事を認めるのは「理解でき難い」と述べたと言う。

「大宮庫吉小伝」によればかつて「ロダン像」の京都流出を防ぐために多額の寄付をしたときも「名を秘す京の篤志家」と地元紙に報じられた(大宮氏の名を報じた新聞もあった)
決して目立つ事を決して喜ぶ人柄ではなかった事が伺える。

図書館で色々調べているうちある本に出合った。

「十一文の足跡」梶原計国


梶原氏の銅像(三島神社) 


梶原氏は、地域に功績のあった人々の銅像を各地に建設した実績があった。

銅像と言うのは私は亡くなった人に対して造るものかと思っていたが、そうばかりではなく生きている人間に対し「いつまでも長生きして郷土のために尽くして欲しい」と言う思いを込めて作る場合が多いらしい。

氏の最初に手がけたのはは南宇和郡出身で政財界で活躍した二神駿吉の銅像を故郷城辺町の諏訪神社に建設した事である。

その他、宇和島各地にも多くの銅像を建設するために運動するため、「いつしか私は銅像の相談所になってしまった」(十一文の足跡)と言う。



八幡屋春太郎翁(赤松遊園地)


山下亀三郎(翁吉田町 横堀公園)


清家吉次郎翁(吉田役場・当時)


上記の銅像以外にも多くの銅像建設に尽力したり関わったりした(本文より)


梶原氏の著書の中で大宮庫吉翁が公会堂に多額の寄付をしたときに、元市長の中村純一氏から翁の銅像建設について相談を受けたとある。



建設場所    和霊公園
作家       木村硅治氏
建設委員長   中川千代治市長
題字       池田勇人氏
撰文       伊達宗彰氏


昭和36年に夕刊宇和島日日に梶原氏の「大宮庫吉翁寿像の除幕式に寄せて」と言う題で挨拶文が掲載されているが、彼が庫吉翁と直接交渉したという記録は見つからなかった。

しかし、他所に比べて銅像の少ない土地柄であった宇和島に銅像建設のマニュアルを作り上げた事は事実であろうと思われる。

この文中に、上記の二神氏が吉田町の山下亀三郎翁(既に物故)の銅像除幕式の挨拶の時にこう述べたと言う記録がある。

抜粋
おい、山下の兄貴、ここにあんたの銅像が出来た。

こう言えばあんたは、「お前が余計な口を利いて俺をさらしものにする」というだろう。

どっこい、そうは言わせない。

先年僕の寿像の話が持ち上がった時あんたは何と言ったか

「あんたの銅像は、あんたのために建てるんじゃない、郷里の後輩を奮起させるために有志の者の思い付いた事で、あんたの関係する事じゃない」と、僕に猿轡をはめたじゃないか。

・・・・後略・・・


尚、祝辞の中には山下翁の子息は「この悪い時期に人様へご迷惑をかけては・・」と延期を申し出たが、二神氏が説得したとある。



余談だが
九島村が宇和島市に合併したのは昭和9年だが、大正年間から宇和島市に近い戎山や保手は、学校や病院など生活圏を宇和島市と共にしていたので分離合併を望んでいた。
その合併委員長に保手出身の梶原氏の名前を見ることが出来る。



宇和島市誌より

「吾々二部落は宇和島市との合併を希望し、これを為すに非ざれば吾が部落の向上発展は期せども望めざるの現状にあり、宇和島市庁当局においても吾等の苦衷を諒察せられ、一日も早くこの問題を解決するようお取計らいあらむことを望む 右連署の上陳情候也  昭和3年10月 16日」

  

Posted by まーきみ。 at 22:51Comments(4)TrackBack(0)宇和島タイムスリップ

2008年06月02日

宇和島タイムスリップ余話1 ホッキョクグマ

先日ゆうこさんが来られた時、この項を書きかけていたので大宮ホールの話をするつもりで

「ゆうこさん、シロクマ知ってますか?」と聞いたら

「あ!知ってますアイスクリームですね!」




・・・・・・face07





これかい!



カップ詰めされた白くま(天文館むじゃき・750ml)


白くま
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

白くま(しろくま)は鹿児島県の氷菓で、鹿児島名物として知られている。鹿児島で白くまはかき氷の代名詞である。スーパーマーケットや駄菓子屋の軒先で売られるカップ入りかき氷も「白くま」である。

南九州では古くからよく知られているが、ABCテレビ「探偵!ナイトスクープ」で取り上げられたこともあり近年では全国的に知名度が高い。


べ・べつにうちに来てくださったからといって、、、わざわざネタ入れてくれなくても・・・face06

ありがとうございます!早速頂きました!face03



さて本題行きます!




先日、デジカメを持って市役所に行った。

目的は、ロビーに飾られている「ホッキョクグマ」を撮影するため。

大宮ホールの事を書こうと思ったとき、かつてそのロビーにでかい「ホッキョクグマ」のハクセイがあったのだ。

大宮ホール取り壊してからは、市役所のロビーに飾ってあるのだ。


が・・・・・




ウシオニしか、おらんてや!face10

近くに居た親切そうな 柳原加 「ショップ店員」風な職員に聞いてみる。

「せっかく白クマの剥製、写真撮ろぉおもたのに、どこにしもたんぞな!」

そんな乱暴な言葉は使わなかったが、大体において自信を持ってそう聞いた。


「???シロクマなんかいませんけどぉ」


「白クマ言うてもなー鹿児島のアイスやないで!ホッキョクグマや!ここにあったはずやが?」

「気になっちゃう感じですかー」
「じゃー電話して〇長さんに聞いてみるねー」


職員さんがわざわざ尋ねてくれたのは、南予文化センターと伊達博物館

「そかそかそか~わっかりましたーー」

ガチャリ

「ごめーん!担当者居なかったわ~」



・・・・おぉface07

やや年配の職員も出てきて首をかしげる。見たことないと言う。

ここにきて、やや自分の記憶に自信が無くなったぞ。face06

昔の事をあれこれ調べていて判ったのは

「人の記憶ほどあてにならないものは無い」

と言うことだ。

過去のブログにも書いたが思い違いが多数あった。

おそらく

「大宮ホールにあったホッキョクグマの剥製は現在市役所にある」

と思い込んだと言うのは、その中でも最大級の珍事であろう。face07

聞いた話だが。

「大宮ホールの前に大宮庫吉さんの銅像があった!」と言い張る人も過去に居たそうだ。



おぉ!同士よ! 

この地上最大の「オオボケ」

どうしよぉ?face07




しかし、このオオボケのおかげで、思わぬ真実を知る事になったのだ。



その数時間後、件の職員さんから電話を貰った。


当時の事情を知る方が居たのだった。

概ね下記の通りであった。

昭和49年10月頃、伊達博物館に移管

昭和62年7月  虫食いなど傷みが激しく処分したとのことだった。

そして、どうして宇和島にホッキョクグマが?と言う疑問に対する答えが見つかった。

なんと、昔宇和島で公演した「木下大サーカス」に連れて来られて、この地で死んだホッキョクグマを宇和島市が剥製にして保存したのだと言う。

知らん