2008年08月05日
大浦の山から

いつも家の近所から見える大浦の山に登ってみた。
ため池を目指して。


広見川の支流がある。

なんて名前だって?
そんなの知りゅかいな・・


川は住宅地を抜けて

やがて山に

住宅地はずっと上まで


あの曲がり角の笹があやしい!

この道路が堤防になっている?

ちらりと水面が見えた。 水は少ないようだ。

危険が危ない!の表示
草が生い茂り崖と道の区別がつかない。
危険なので深入りは避ける。

農道をさらにあがれば・・・・・

戎山が見える!


さらに上がれば

市内が一望 高い煙突の建物は石丸の焼却施設か?

戎山がより鮮明に見える。
逆に言えば、戎山からここが見えていたと言うことか。なんだか不思議な気分だ。

持参した1Lの飲料水も尽きたので下山する。
のどが渇いた。脱水症状をおこしそうだ。

あ!あそこでワンが水を飲んでいる


あ!丸々と美味そうな人間がおる!

食ってやる!ワン!

無事に帰って来ました。 新板島橋の上から鬼ヶ城を望む。
後で判ったのだがこの日は今期最高気温を記録したらしい。

2008年07月15日
お休みの風景(夕涼み)
戎山
この季節になると、近所の海岸で見られる「風物詩」とも言うべき景色があります
それは
たこつり

夕食が終わった後、夕涼みしながら、糸をたれる。

昔は生きた蟹を使っていましたが、今はルアーです。

気がつけばあっちにも

こっちは大勢で
釣った現場を見たのですが、カメラを取りに帰ってる間に

既に〆られていた
その後いくら待っても釣れないので帰りました。
でも、この日は大漁だったらしい。
ここで23日には花火が目の前で打ち上げられます。

去年拾った花火の殻 波平さんではありません。
わたしは仕事で見られない

せめて画像で見せて欲しい。
皆様、お祭りレポートお願いします!
この季節になると、近所の海岸で見られる「風物詩」とも言うべき景色があります
それは
たこつり

夕食が終わった後、夕涼みしながら、糸をたれる。

昔は生きた蟹を使っていましたが、今はルアーです。

気がつけばあっちにも


こっちは大勢で

釣った現場を見たのですが、カメラを取りに帰ってる間に

既に〆られていた

その後いくら待っても釣れないので帰りました。
でも、この日は大漁だったらしい。
ここで23日には花火が目の前で打ち上げられます。

去年拾った花火の殻 波平さんではありません。

わたしは仕事で見られない


せめて画像で見せて欲しい。
皆様、お祭りレポートお願いします!
タグ :たこ釣り
2008年07月10日
10日えびす 遥かなるノスタルジア
その昔、ここは私の仕事場だった。
毎日ここを駆けずり回った。
もちろん、その事を知ってる人は少ない。
今のブローガー各位の家にもお邪魔した事がある。
その方たちの、親御さんかその親御さんの時代。

ここを毎朝自転車で走ると、坂道なのだなとしみじみ思った。
35年前の中学校時代、新聞配達のエリアだった。今は廃刊になった「日刊新愛媛」その頃は宇和島で印刷していた。
お世話になった販売店の社長さんは、今は不動産業をしておられるようだ。

懐かしい車 カローラ1400cc その当時走ってた車か?

この神社に、初めてお参りした。

お札をいただきました。

本来、男には縁が無い婦人服売り場に入って

しかも、ご馳走になるなんて、人生のスケジュールには入っていなかった。
これも、恵比寿様のお導きか そういえば戎山の住人だし。
もちろん、マルオー洋品店のはこさんのお人柄も

時間の経つのも忘れて、しばしの郷愁に浸る。
毎日ここを駆けずり回った。
もちろん、その事を知ってる人は少ない。
今のブローガー各位の家にもお邪魔した事がある。
その方たちの、親御さんかその親御さんの時代。
ここを毎朝自転車で走ると、坂道なのだなとしみじみ思った。
35年前の中学校時代、新聞配達のエリアだった。今は廃刊になった「日刊新愛媛」その頃は宇和島で印刷していた。
お世話になった販売店の社長さんは、今は不動産業をしておられるようだ。

懐かしい車 カローラ1400cc その当時走ってた車か?
この神社に、初めてお参りした。

お札をいただきました。
本来、男には縁が無い婦人服売り場に入って
しかも、ご馳走になるなんて、人生のスケジュールには入っていなかった。

これも、恵比寿様のお導きか そういえば戎山の住人だし。
もちろん、マルオー洋品店のはこさんのお人柄も

時間の経つのも忘れて、しばしの郷愁に浸る。
タグ :十日戎
2008年06月24日
工事がとっても多いから、遠回りして帰ろう♪
朝起きたら、工事してた。

仮の舗装を剥がして、本舗装するらしい。
ほぉ~そう?
さらりと流して

重機の力で、面白いように、剥離していく。
まさに

はくりょく満点!

すっかり剥がれた。

アスファルトって、結構厚い。
仕方ないので、今日は仕事の帰りには、遠回りして帰ります。
戎山を逆周り。

赤松遊園地方面です。

左が九島 向うは吉田町南君 左の白い灯台付近が 「只波鼻」

津村寿夫著 宇和島の明治大正史(前編)によると
明治中期に宇和島でコレラが大流行して、たくさんの死者が出たとき、
小船で只波鼻(本では"唯波鼻"とある)に運び、火葬してその場に埋めたとある。
コレラで死んだ人は墓に入れず、火葬に家族も僧侶も同行しなかったと言う。
高額の賃金で雇われた2人の人夫と衛生係の巡査のみ。
当時、避病舎(隔離施設)に入ると「医師に強い薬を飲まされて殺される」と言う風聞が広く信じられて、患者を家に匿うようになり、余計被害が拡大したと言う。(この根拠のない風評は大正時代にも残り影響した)
時代は変わってやっと自治制が整った明治24年、初代町長山崎惣六は潮音時山に火葬場と共同墓地を新設すべく用地を取得したが、大正時代に丸穂に火葬場が出来て、結局その地は使われる事はなく共同墓地のみ残った。
大正9年、再びコレラが流行した。90人が罹患、うち35人が死亡した。明治時代は大浦から、今回は内港の魚市場からどちらも船員がコレラ流行地で感染し持ち帰ったものである。
市立病院はそれらの手当に追われ、他の入院患者は皆恐れて退院して行き、それまで順風満帆だった病院経営は悪化したと言う。(平年12万人以上の患者が有ったがこの年は約8万6千人)
明治時代の風聞を信じ、入院を怖がり愛宕公園のトイレに隠れていたのを探索していた主治医と助役に見つかり連れ戻されたと言う逸話もある(検査の結果は陰性)
病院経営のみならず、周辺から宇和島に人が来なくなり経済その他、大きな打撃を受けた。
宇和島市が県下に先駆けて上水道を敷設したのは、それらの被害があった事も大きな理由の一つである。
いつの時代にも変革には犠牲者と言うものが存在する。
その事を忘れてはならないと思う。

帰って来たら、舗装が終わっていた。
明日からは車は通常通り通れます。
期間中に来てくださった皆様、ご不便をおかけしました。


仮の舗装を剥がして、本舗装するらしい。
ほぉ~そう?
さらりと流して

重機の力で、面白いように、剥離していく。
まさに

はくりょく満点!

すっかり剥がれた。

アスファルトって、結構厚い。
仕方ないので、今日は仕事の帰りには、遠回りして帰ります。
戎山を逆周り。

赤松遊園地方面です。

左が九島 向うは吉田町南君 左の白い灯台付近が 「只波鼻」

津村寿夫著 宇和島の明治大正史(前編)によると
明治中期に宇和島でコレラが大流行して、たくさんの死者が出たとき、
小船で只波鼻(本では"唯波鼻"とある)に運び、火葬してその場に埋めたとある。
コレラで死んだ人は墓に入れず、火葬に家族も僧侶も同行しなかったと言う。
高額の賃金で雇われた2人の人夫と衛生係の巡査のみ。
当時、避病舎(隔離施設)に入ると「医師に強い薬を飲まされて殺される」と言う風聞が広く信じられて、患者を家に匿うようになり、余計被害が拡大したと言う。(この根拠のない風評は大正時代にも残り影響した)
時代は変わってやっと自治制が整った明治24年、初代町長山崎惣六は潮音時山に火葬場と共同墓地を新設すべく用地を取得したが、大正時代に丸穂に火葬場が出来て、結局その地は使われる事はなく共同墓地のみ残った。
大正9年、再びコレラが流行した。90人が罹患、うち35人が死亡した。明治時代は大浦から、今回は内港の魚市場からどちらも船員がコレラ流行地で感染し持ち帰ったものである。
市立病院はそれらの手当に追われ、他の入院患者は皆恐れて退院して行き、それまで順風満帆だった病院経営は悪化したと言う。(平年12万人以上の患者が有ったがこの年は約8万6千人)
明治時代の風聞を信じ、入院を怖がり愛宕公園のトイレに隠れていたのを探索していた主治医と助役に見つかり連れ戻されたと言う逸話もある(検査の結果は陰性)
病院経営のみならず、周辺から宇和島に人が来なくなり経済その他、大きな打撃を受けた。
宇和島市が県下に先駆けて上水道を敷設したのは、それらの被害があった事も大きな理由の一つである。
いつの時代にも変革には犠牲者と言うものが存在する。
その事を忘れてはならないと思う。

帰って来たら、舗装が終わっていた。
明日からは車は通常通り通れます。
期間中に来てくださった皆様、ご不便をおかけしました。
2008年06月11日
小さな「お亥の子」石?

近所の家で見つけました。
「お亥の子の石やろう」
と言うことでしたが、こんな小さかったか?と聞くと
「子供の石やろう?」
あ~そうか~~
って、
大人用の亥の子石ってあるのか・・・・・?


これくらいの大きさです。

裏になんか文字が?
いったい、これは何だろう?
タグ :亥の子石
2008年05月25日
おタヌキさんの果樹園
家の裏山に、5mほどに成長した夏ミカンの木が有ります。

実まででも、3mくらいあるので、手が届きません。
だからそのままですと収穫できません。
出来ませんが困りません。
なぜなら、
この家に越してきて45年ほどになりますが、一度もとった事がないので
放置かい(゚Д゚)ノバシィィィィィィィィ
たまにカラスが突っつきます。屋根に落とされてびっくりする事も
や~~~ねぇ
・・・・・・・
さて、他にも果実があります。

実がついてきたビワ。 あちこちに芽が出て、だんだん木が増えて行きます。
子供の頃はよく取っていましたが、これも、いつしか取らなくなりました。
するとある年、地面にこんなものが

ビワの種です。 タヌキの仕業らしい。
昔から俗に言う「タヌキの溜め〇〇」でしょう。
すぐ家の近くにも昔は絵本でしか知らなかった動物が出てくるようになりました。
イノシシがタケノコを荒らすのもそう遠い事ではないかもしれません。
しし鍋が食えるかな?

実まででも、3mくらいあるので、手が届きません。

だからそのままですと収穫できません。
出来ませんが困りません。
なぜなら、
この家に越してきて45年ほどになりますが、一度もとった事がないので

放置かい(゚Д゚)ノバシィィィィィィィィ

たまにカラスが突っつきます。屋根に落とされてびっくりする事も

や~~~ねぇ
・・・・・・・
さて、他にも果実があります。

実がついてきたビワ。 あちこちに芽が出て、だんだん木が増えて行きます。
子供の頃はよく取っていましたが、これも、いつしか取らなくなりました。
するとある年、地面にこんなものが

ビワの種です。 タヌキの仕業らしい。
昔から俗に言う「タヌキの溜め〇〇」でしょう。
すぐ家の近くにも昔は絵本でしか知らなかった動物が出てくるようになりました。
イノシシがタケノコを荒らすのもそう遠い事ではないかもしれません。
しし鍋が食えるかな?
2008年05月18日
山道を行く 番外編

タケノコが伸びてしまっています。
成長が早い!


サンキラの葉とか言いました。餅や饅頭の台紙に。子供の頃よく取りに行かされた。
食い物が関わると、働くまーきみ。


甘酸っぱい野いちご タッパーを持って来れば良かった


背が高いためか?放置されてるみかん

これも一個だけ 黄色い実はなんだろう?

蜂の巣箱?

ここにも人が

スイカとジャガイモか 網は動物よけ?

柑橘類の若木
桃栗三年、みかんは?


放置され、草が巻いてしまったモノラック。

青空にトンビ のどかそうだ。

枯れた松か?

たんぽぽです。
数々の風景が、現在の山事情を物語っています。
荒れ放題ではなく、手入れが行き届いている畑も多くてホッとしました。
自分に出来る事は何だろう。
間に合うかもしれない。今なら。
今の自分をかえるのは今なんだ。
(よしだたくろう)
2008年05月17日
山道を行く 3
下のほうから、聞き覚えのある声がしました。
近所の古老が夫婦で山仕事をしていました。

みかんを貰いました「カラーマンダリン」と言う新種らしい。

山仕事をする古老

若い頃、都会で暮らしていた古老の妻は「空気が全然違う。ありゃ生活するところじゃない」と言います。
「町は山から眺めるもの。若い頃はネオンに誘われてパチンコによぉ行ったが」と笑います。
そういえば、昔パチ屋でよく顔を合わしました
年を取っては、山で会うようになるのか

接木をした柑橘 新種はほとんど古木への接木です。

芋の苗床

宇和島湾の内と外が同時に見渡せる場所 石応、堂崎方面

こちらは、宇和島湾に向かって走るヨット この日はレースの前日だった。

三輪車があります。 このあたりは戎山の裏側になります。 鶯やホトトギの声が響き渡っています。

左は九島の北東部 奥は吉田町

九島の全景が見えてきた。

こんな沼があります。 河童の三平でも出てきそう・・

こんな草原が続きます。
進んでいくと

赤灯台の上だった!
随分山の尾根を北進したんだなぁ

この森林は、鳥や動物の住処でしょう。
ここで旅は終わります。
今度はまた、別ルートを歩いてみましょう。
近所の古老が夫婦で山仕事をしていました。

みかんを貰いました「カラーマンダリン」と言う新種らしい。

山仕事をする古老

若い頃、都会で暮らしていた古老の妻は「空気が全然違う。ありゃ生活するところじゃない」と言います。
「町は山から眺めるもの。若い頃はネオンに誘われてパチンコによぉ行ったが」と笑います。
そういえば、昔パチ屋でよく顔を合わしました

年を取っては、山で会うようになるのか


接木をした柑橘 新種はほとんど古木への接木です。

芋の苗床

宇和島湾の内と外が同時に見渡せる場所 石応、堂崎方面

こちらは、宇和島湾に向かって走るヨット この日はレースの前日だった。

三輪車があります。 このあたりは戎山の裏側になります。 鶯やホトトギの声が響き渡っています。

左は九島の北東部 奥は吉田町

九島の全景が見えてきた。

こんな沼があります。 河童の三平でも出てきそう・・


こんな草原が続きます。
進んでいくと

赤灯台の上だった!

随分山の尾根を北進したんだなぁ

この森林は、鳥や動物の住処でしょう。
ここで旅は終わります。
今度はまた、別ルートを歩いてみましょう。
タグ :戎山
2008年05月16日
ウミヒコ ヤマヒコ
小学校の時、『ウミヒコ ヤマヒコ』山本 有三〈戯曲〉と言うのを国語の時間に習った。
釣り針をなくしたヤマヒコを兄のウミヒコが叱る場面が、自分が怒られているようで切なかったが・・
(ウミヒコ)
強情なやつだな。なぐられたら、なぜ、泣かないんだ。なぜ、「わぁっ」と泣かないんだ。そんなひねくれた根性だから、きさまには、すなおなことができないんだ。-ひとこと「すみません」と言いさえすりゃ、なんでもない~
ヒィィィィィ(゚□゚;ノ)ノ うぎゃ~~そんなに責めないで~~
まるで、パパに貰ったメロンを、自分の居ない時に食べようとした・・と言って暴れる寅さんみたいだ
・・・・また、マニアックな事を



「男はつらいよ」15作 寅次郎相合傘より
寅さん 「俺の言ってるのはメロン1切れの事を言ってるんじゃないんだよ!この家の人間の心のあり方について俺ぁ言ってるんだ!」
おいちゃん「何を一人前の事言いやがって!」
それはともかく、最近散歩してると


釣り針を見つけた。
子供の頃は釣り針は高価で貴重品で、捨てるなんてとんでもない!拾ったらラッキー

しかし、こんなに落ちてるとキケンだ。
ウミヒコや寅さんじゃないけど
「オレはマナーがどうだとか、ゴミがどうだとか言ってるんじゃないんだよ!限りある資源は大切にって事をいいたいんだ」


わずかの時間にこれだけ回収しました。

美しい海のためにも御協力ください\(^o^)/
2008年05月16日
山道を行く 2
丘をのぼって下界を見ると 小さな世界がそこにある
人はあくせくどこへ行く 人は疲れた足どりで しかも人はいそいでいた
さらに頂上を目指します。

突然、眼下に海が開けます。

さらに近づいてみると

海に吸い込まれそう!

ちなみに、下から見たところ

築地方面から見たところです。

さらに頂上を

あの倉庫があるところ付近が頂上です。
小中学校の頃、ここは草原で、天気のいい日は寝転がって読書など・・
運動のため、毎日鉄下駄を履いて上っていたこともありました。

市街が一望できます。

赤灯台も見えます

大浦と徳洲会病院

赤松遊園地と覗き岩がかすかに・・
今度は、北川のもう一つの山を目指します。
丘をのぼって下界をみると 小さな自分がそこにある
俺は生まれてこの日まで俺の道しか見ていない しかも道はまだ遠い
人はあくせくどこへ行く 人は疲れた足どりで しかも人はいそいでいた
「おろかなるひとり言 (よしだたくろう)」
さらに頂上を目指します。

突然、眼下に海が開けます。

さらに近づいてみると

海に吸い込まれそう!


ちなみに、下から見たところ

築地方面から見たところです。

さらに頂上を

あの倉庫があるところ付近が頂上です。
小中学校の頃、ここは草原で、天気のいい日は寝転がって読書など・・
運動のため、毎日鉄下駄を履いて上っていたこともありました。

市街が一望できます。

赤灯台も見えます

大浦と徳洲会病院

赤松遊園地と覗き岩がかすかに・・
今度は、北川のもう一つの山を目指します。
丘をのぼって下界をみると 小さな自分がそこにある
俺は生まれてこの日まで俺の道しか見ていない しかも道はまだ遠い
「同上」
タグ :戎山
2008年05月14日
山道を行く 1
何年振りかに裏の山に登ってみた。
これは、索道の支柱です。
もう使われなくなったのでしょう。


農業の衰退を象徴しているような、寂しい気持ちになります。
幼稚園の頃、これらの機械の整備をしていた親父にウエス(機械を拭く為の古布)を持って行く途中、友達に会い話し込んでしまい、気がついて慌てて走って車に轢かれました。
これを見ると時々思い出します。あの時の事は40年以上経っても鮮明に記憶しています。
お昼ごはんがウドンだった事や、夕べ近所の赤ちゃんと遊ぶ夢を見たことなども

このあたりの畑は、きれいに整備されています。

畑から取り出した石ころか。ここは長い間ミカン畑だったのを、他の作物に転用するために木を切って開墾したのでしょうか。

ここからの景色 産業団地と自動車道路が見えます。

徳洲会病院と大浦の埋め立ても

かつては、畑の区画のため、たくさん植えてあった杉も大きくなりすぎて畑の栄養を奪い、日当たりが悪くなるためためほとんど伐採されています。

取残されたミカンが。一部鳥に食われています。 木守のために残されたのか

道なき道は、まだ続きます。
これは、索道の支柱です。
もう使われなくなったのでしょう。


農業の衰退を象徴しているような、寂しい気持ちになります。

幼稚園の頃、これらの機械の整備をしていた親父にウエス(機械を拭く為の古布)を持って行く途中、友達に会い話し込んでしまい、気がついて慌てて走って車に轢かれました。
これを見ると時々思い出します。あの時の事は40年以上経っても鮮明に記憶しています。
お昼ごはんがウドンだった事や、夕べ近所の赤ちゃんと遊ぶ夢を見たことなども

このあたりの畑は、きれいに整備されています。

畑から取り出した石ころか。ここは長い間ミカン畑だったのを、他の作物に転用するために木を切って開墾したのでしょうか。

ここからの景色 産業団地と自動車道路が見えます。

徳洲会病院と大浦の埋め立ても

かつては、畑の区画のため、たくさん植えてあった杉も大きくなりすぎて畑の栄養を奪い、日当たりが悪くなるためためほとんど伐採されています。

取残されたミカンが。一部鳥に食われています。 木守のために残されたのか

道なき道は、まだ続きます。
2008年05月13日
山の井戸
かつて、子供の頃よく見た「山の井戸」を40年ぶりに尋ねてみました。

離農する前はこの畑を耕していました。 30年ほど前、縫製業に専念した頃、他の事情もあって親戚に買ってもらった。
叔父の話だと4反7畝(47アール)の面積だそうです。「一人で面倒見るのには丁度いい面積」らしい。
私は農業の経験がほとんどないのですが、その大変さは判ります。

あのブロックで囲んだのが井戸 昔は囲いは無く地面とフラットだった。

井戸の左側には山の水が出ている。
井戸の左の谷には、雨が降れば川となります。水脈が流れているのでしょう。

子供の頃の記憶では、これの倍ほどの大きさに思っていたですが、大人になってみると何でも小さく見えます。
小さい頃は母親に連れられて来たのが記憶にある。母親が手鍬で掘る穴に豆を蒔いたのを思い出す。
死んだ祖父さんや従兄妹と写ってる写真があるが記憶に無い。祖父さんはまーきみ。4歳の頃中風で倒れたので覚えてないのかもしれない。

この井戸の中に、鮒や鯉を放流したり、水を飲んだりした記憶があります。
この井戸は昔、死んだじーさんが掘ったものらしく、母親は「石垣はうちが作ってた時は無かった」と言いますが、
確かにあたっと記憶しています。

この山の麓に、昔水田があったそうですが私はもちろん記憶にありません。

みかんの風景

温州みかんの花が咲く頃、芳香は山を越え、家々まで漂ってきます。

草刈も大変な仕事です。

荒れた畑をたくさん見てきたので、管理されている畑を見るとホッとします。

杉の枯れ木の左側は他所の土地、荒れていますが最近、手入れが始まったらしい。

誰かがスイカを植えた直後か、水が撒かれている。

いち早く野イチゴを見つけた。 子供の頃の楽しみでした。

いただきまーす。 この味は何時までも変わらない。

帰りにタマネギを貰いました。

この道も何度も通った道です。 歩いているうちに記憶が蘇ってきました。

離農する前はこの畑を耕していました。 30年ほど前、縫製業に専念した頃、他の事情もあって親戚に買ってもらった。
叔父の話だと4反7畝(47アール)の面積だそうです。「一人で面倒見るのには丁度いい面積」らしい。
私は農業の経験がほとんどないのですが、その大変さは判ります。

あのブロックで囲んだのが井戸 昔は囲いは無く地面とフラットだった。

井戸の左側には山の水が出ている。
井戸の左の谷には、雨が降れば川となります。水脈が流れているのでしょう。

子供の頃の記憶では、これの倍ほどの大きさに思っていたですが、大人になってみると何でも小さく見えます。
小さい頃は母親に連れられて来たのが記憶にある。母親が手鍬で掘る穴に豆を蒔いたのを思い出す。
死んだ祖父さんや従兄妹と写ってる写真があるが記憶に無い。祖父さんはまーきみ。4歳の頃中風で倒れたので覚えてないのかもしれない。

この井戸の中に、鮒や鯉を放流したり、水を飲んだりした記憶があります。
この井戸は昔、死んだじーさんが掘ったものらしく、母親は「石垣はうちが作ってた時は無かった」と言いますが、
確かにあたっと記憶しています。

この山の麓に、昔水田があったそうですが私はもちろん記憶にありません。

みかんの風景

温州みかんの花が咲く頃、芳香は山を越え、家々まで漂ってきます。

草刈も大変な仕事です。

荒れた畑をたくさん見てきたので、管理されている畑を見るとホッとします。

杉の枯れ木の左側は他所の土地、荒れていますが最近、手入れが始まったらしい。

誰かがスイカを植えた直後か、水が撒かれている。

いち早く野イチゴを見つけた。 子供の頃の楽しみでした。

いただきまーす。 この味は何時までも変わらない。

帰りにタマネギを貰いました。

この道も何度も通った道です。 歩いているうちに記憶が蘇ってきました。
タグ :戎山
2008年05月11日
らくらくらっくモノラック♪
クマちゃんラクラク青い空~♪
ウサちゃんラクラク白い雲~♪まーきみ。小学校の頃良く見た、夕方のローカルのCM
らくらくらっくモノラック~らくらくらっくモノラック♪
クマとウサギが仲良く並んでみかん山をモノラックの横を歩いているアニメが思い出される方も多いだろう。
死んだばーさんが若い頃「家のすぐ前が畑やったらええのに」とよく言ってたと親達が話していた。
その頃は畑まで歩いて一時間以上かかったと言う。
そんな農家により畑を近付けた物。

モノラック 自宅の庭から庭から山へ続いている。
これが近隣に設置されたのは私が中学校に入った頃か。うちの山にも設置された。
それ以前はこれ

索道 「サル機械」と呼ばれた。
近所に設置されたのは、まーきみ。3歳頃 近所のおじさんが基礎の穴を掘っているのを覚えてる。

その索道は、最早使ってない。 今年初めに撤去された。

モノラックのレールが続いている。

風景

ふと、後を見ると急傾斜! ヒィィィィィ(゚□゚;ノ)ノ
スキー場の中級コース並み

ここが終点 先年実施された国土調査の杭がある。

ここからの見晴らし。 トンビが見えるかな

トンビが目線と水平に

大浦の埋め立て

昔、防風林として植えた楠
かなり上まで登ったのですが、疲れてのどが渇いて大変なので降りることに、石垣を崩さないよう慎重に。

国土調査のための多角測量の杭 例の靴です。山は草に滑るので不向きだった。
民家まで降りると、犬が吠える!

あ!ポチだ


ポチをかわいがるまーきみ。


無愛想に家に帰るポチ

この頃、子供の頃のようによく山に登る。いつか山全体を踏破してみたい。
2008年05月06日
石山の大冒険
消防団でお城山の防火訓練に参加したとき、知り合いの教育委員会の人に「お城山の石垣の石は戎山からも運ばれた」と言う話を聞いた。
戎山は古来より「石に土がかぶさってる山」と言われたらしい。30年程前、戎山の先端に下水の週末処理場ができると言う計画が持ち上がったとき、古老がその掘削の難易度を指摘したと言われる。
そのせいだけではないだろうが、以後「宇和島造船所」が閉鎖しその跡地にに計画が変更になった。

どちらも、木々に覆われて見え難いが、昔は岩とその前の石切り場跡と思われる場所が良く見えた。
1)の岩あたりを右側から見たところ


下 上
山道になっているが、大きな岩をを削って作ったのだろう。赤線の部分が元のラインと思われる。
所有者の話では、この岩は、ずっと下まで続いていると言う。


反対方向から見た上のほう赤○印のあたり。
2)

下から見た全体の画像 昔は岩肌が全部見えた。

下部

上部

上部を左から 崩落しかけている。 この部分は10数年前に一度崩れた。

このあたりの石垣は、ここの石を使ったのであろう。工事は大正年間に始まったはず。

岩の真下と手前の畑の間にはポケットのように穴を作っている。
雨水や落石を、をまともに下に落下しないよう荷と言う工夫か。
その中に降りて、岩と反対側の石積みを撮影。
降りるときに付いた、足跡も見える。
子供の頃、この岩肌のどこかに、子供がかがんで入れるほどの洞穴を見つけた。
恐々入ってみると、3mくらい奥には入れた。
今回その洞穴を探してみたが見つからなかった。
地殻変動か土砂で埋まったか、それとも探す場所が違っていたのか。
崩落しそうで、これ以上近づく事は危険だ。
心残りだが、現場を後にした。

戎山にはまだ数箇所、石切り場がある。いずれも草木深く、分け入るのは困難である。
もう誰も、こんなー
戎山は古来より「石に土がかぶさってる山」と言われたらしい。30年程前、戎山の先端に下水の週末処理場ができると言う計画が持ち上がったとき、古老がその掘削の難易度を指摘したと言われる。
そのせいだけではないだろうが、以後「宇和島造船所」が閉鎖しその跡地にに計画が変更になった。

どちらも、木々に覆われて見え難いが、昔は岩とその前の石切り場跡と思われる場所が良く見えた。
1)の岩あたりを右側から見たところ


下 上
山道になっているが、大きな岩をを削って作ったのだろう。赤線の部分が元のラインと思われる。
所有者の話では、この岩は、ずっと下まで続いていると言う。


反対方向から見た上のほう赤○印のあたり。
2)

下から見た全体の画像 昔は岩肌が全部見えた。

下部

上部

上部を左から 崩落しかけている。 この部分は10数年前に一度崩れた。

このあたりの石垣は、ここの石を使ったのであろう。工事は大正年間に始まったはず。

岩の真下と手前の畑の間にはポケットのように穴を作っている。
雨水や落石を、をまともに下に落下しないよう荷と言う工夫か。
その中に降りて、岩と反対側の石積みを撮影。
降りるときに付いた、足跡も見える。
子供の頃、この岩肌のどこかに、子供がかがんで入れるほどの洞穴を見つけた。
恐々入ってみると、3mくらい奥には入れた。
今回その洞穴を探してみたが見つからなかった。
地殻変動か土砂で埋まったか、それとも探す場所が違っていたのか。
崩落しそうで、これ以上近づく事は危険だ。
心残りだが、現場を後にした。

戎山にはまだ数箇所、石切り場がある。いずれも草木深く、分け入るのは困難である。
もう誰も、こんなー

2008年04月28日
七転び八起き

昔、「七転び八起き」を「七転八倒」と間違えていた。
苦しんでどうする


戎山のシンボルとも言えるこの広告看板は、私が物心ついた時には既にあった。
時折台風などで破損した時もあったし、草木で隠れてしまう事もあったが、再々補修してたのだろう。今も健在である。
この焼酎の会社は広島の「中国醸造株式会社」と言うらしいが、何時どういった経路でここに建ったのか誰も知らない。
灯台下暗しで戎山からはあまり見えない。対岸から見たとき「あーあんなのあったな~」と再認識する。
一番目立つのは船であろう。かつては宇和島港から出入港する船は多かった。
数年前、別府航路が廃止されてからは遠距離から来る旅客船は無くなってしまったが。

畑の中に立っている。もちろん私有地

大きさが判るだろうか?

裏から見たところ

左にかすかに赤灯台が見える


大魔神のようだ。。。お城山が見える。

なんだか知らんけど、あちこちにあった箱

こんな鳥がおった。

道は頂上へ。 頂上へのルートは何本もあって、子供の頃は全部熟知してた。
船が下りるところ



回転

試運転か?


砂防工事が整備されるのに、道や段々畑は放置され壊れているところもあります。
遠くから見ると昔と山の形が随分変わりました。
農家の人の話だと「人が歩かなくなったから」だと言います。
道も畑も人が踏みしめているからこそ、形が残るのだとか。
「歩かなくなった人々」には、離農した我家も入ります。
これからも、もっともっと歩こうと思います。

放置された段々畑が年々増える。
タグ :ダルマ焼酎
2008年04月26日
招福太鼓
ドカドンドン~ドカドンドン~♪
一本調子の鐘と太鼓の音で眼が覚めた。
まーきみ。の安眠を破るのは誰だ!
しかし、あの音どっかで聞いた覚えが!
そうっじゃ!(常田富士夫風)
鶴島公民館で校区の老人会有志で行なわれている「招福太鼓」の観光客船歓迎太鼓だろう。

牛鬼も、そーこの倉庫に仕舞ってある。
一般の立ち入りは禁止されてるので、対岸から

福の神が大勢見える。

観光客
3年ほど前に、老人会で太古を数基購入し、三味線や鐘も加えて先生を呼んで定期的に練習していて老人会などでも腕前を披露している。最高齢の方は確か90歳を越えるはず。近所のおばちゃんも参加してるはず。
何もかも疲弊した感のある宇和島で、老人だけは(特にうちの地域の)元気だ。
目標を見失いつつある我々前途ある有為な青年への壮大なメッセージなのかもしれない。
元気と言えば

明日レースに参加するヨットだろうか。赤灯台沖を走る。
一本調子の鐘と太鼓の音で眼が覚めた。
まーきみ。の安眠を破るのは誰だ!

しかし、あの音どっかで聞いた覚えが!
そうっじゃ!(常田富士夫風)
鶴島公民館で校区の老人会有志で行なわれている「招福太鼓」の観光客船歓迎太鼓だろう。

牛鬼も、そーこの倉庫に仕舞ってある。
一般の立ち入りは禁止されてるので、対岸から

福の神が大勢見える。

観光客
3年ほど前に、老人会で太古を数基購入し、三味線や鐘も加えて先生を呼んで定期的に練習していて老人会などでも腕前を披露している。最高齢の方は確か90歳を越えるはず。近所のおばちゃんも参加してるはず。
何もかも疲弊した感のある宇和島で、老人だけは(特にうちの地域の)元気だ。
目標を見失いつつある我々前途ある有為な青年への壮大なメッセージなのかもしれない。

元気と言えば

明日レースに参加するヨットだろうか。赤灯台沖を走る。
タグ :招福太鼓
2008年04月17日
白船来航!
昨日、雨の中を仕事に向かうと、

客船らしき船が停泊してた。

どこの船だろう?テレビでは市長が英語で挨拶したらしいが
うちの子が中学校の頃に外国船が来た時に、白人の男性にチョコレートを貰ったらしい。
お礼にと剣道大会で貰った日本手ぬぐいを進呈して大変喜ばれたらしいが、英語は果たして・・
外国からの観光客はバスに乗って市内の至るところに見物に出かけるが、たまにこのあたりを通訳とともに散策する事もある。
以前、英国だったかその人たちが「花を見せて欲しい」と庭に入ってきた。大した庭ではないのに大変喜んでくれた。



英国人は花が好きだ。自国にあまり花がない為か思い入れが強い。それがアロマテラピーやフラワーエッセンスを誕生させる土壌になったのだろうか。
前記のブログに紹介したとおりその時、思いついて記念にと友人の浜田氏の絵葉書をあげた。これも大変喜ばれた。

藩政時代は樺崎と、戎山に砲台があって、英国船が来た時に祝砲を撃ったらしい。
『うわじま物語 -大君の疑わしい友 』(谷有二)
この場所にかつて、英国船がはじめて来た時、藩主に請われて記念にと贈られたユニオンジャックが伊達博物館に保存されているらしい。
そのような事を、彼女は知っていただろうか?
戎山では近年になっても、山から砲台用の大砲の弾が出土し、それを転がして遊んだと言う人もいる。
明治維新後、そのまま放置されたのだろう。
外国船が時折来るけど、あまり宇和島をPRするイヴェントが市民レベルで企画されないのは残念なことではある。
客船らしき船が停泊してた。
どこの船だろう?テレビでは市長が英語で挨拶したらしいが
うちの子が中学校の頃に外国船が来た時に、白人の男性にチョコレートを貰ったらしい。
お礼にと剣道大会で貰った日本手ぬぐいを進呈して大変喜ばれたらしいが、英語は果たして・・

外国からの観光客はバスに乗って市内の至るところに見物に出かけるが、たまにこのあたりを通訳とともに散策する事もある。
以前、英国だったかその人たちが「花を見せて欲しい」と庭に入ってきた。大した庭ではないのに大変喜んでくれた。



英国人は花が好きだ。自国にあまり花がない為か思い入れが強い。それがアロマテラピーやフラワーエッセンスを誕生させる土壌になったのだろうか。
前記のブログに紹介したとおりその時、思いついて記念にと友人の浜田氏の絵葉書をあげた。これも大変喜ばれた。

藩政時代は樺崎と、戎山に砲台があって、英国船が来た時に祝砲を撃ったらしい。
『うわじま物語 -大君の疑わしい友 』(谷有二)
この場所にかつて、英国船がはじめて来た時、藩主に請われて記念にと贈られたユニオンジャックが伊達博物館に保存されているらしい。
そのような事を、彼女は知っていただろうか?
戎山では近年になっても、山から砲台用の大砲の弾が出土し、それを転がして遊んだと言う人もいる。
明治維新後、そのまま放置されたのだろう。
外国船が時折来るけど、あまり宇和島をPRするイヴェントが市民レベルで企画されないのは残念なことではある。
2008年04月12日
初夏2

昔、海岸だったところ

不法投棄を見張る監視カメラが設置されています。道路が整備されて増えたのがゴミでした。

「ここを汚さないでください」 思いを込めて作った花壇でしょうか

上の道路を含めて、山まで海岸でした。
海岸を渡って先に進むのですが、大潮の満潮になると、山の上に獣道の様なわかりにくい道があって、夜釣りの時などはそこを歩きました。今も残っているか探してみました。


上の道にそれらしきもの発見!
ここが入り口、ちょっと分かりにくいか

この奥に道


道が残っていた!右はサムネイルです。

山側のサムネイル写真。放置された段々畑の石積みが判るでしょうか?

この竹は、波打ち際に生えてた記憶があります。するとこの上も道だったのかも。

この岩に突き当たりました。以前はこの岩と岩の間に道があったあのですが、35年ほど前の台風で崩落してしましました。
まだ道は残っています。
古い木と岩の間が道です。

「愛媛県」の石杭の前が道、随分落石がある。

拡大図
子供の頃はよい遊び場でした。山の道で知らないところはないくらい遊びまわりました。

岩の全体像

その岩の道を下りたところに古い祠がありました。昔の戎神社の名残です。

現在の戎神社。明日の十日戎の準備ができていました。
タグ :百舌
2008年04月11日
初夏1
桜が終ったら、次は?
「初夏」
な~んだ~しょぅか~!
ここは戎山の赤灯台がある防波堤付近(「戎ヶ鼻」と言う)
今の道路の山際に、1mほどの古い道がありました。左の木の下あたり

さらに防波堤まで進むと見えてきます。


この石積みが護岸で、これより右は海でした。
ちなみに海のむこうは九島です。


このように勾配がありました。

あのカーブで子供の頃、自転車で曲がりそこね、海に落ちた事があります。
幸いに落ちたのは自転車だけでしたが、海の中に入って上げたので結局濡れましたがw

更に進みます。前方の電柱の前あたりから、道が終わり海岸でした。

前方に回り、反対方向から見たところ。

上の道路を含めて、山まで海岸でした。
以前は「戎山海岸」と言い、小学校の2年に遠足に来ました。「解散は学校に帰ってから」と言うことでしたが、特別処置でまーきみ。と隣の同級生だけ、現地解散が許可されました。
ウニやヒトデがたくさん取れてみんな大喜びでしたようです。
鶴島校区では最果てだった戎山ですが、以後友達が道を覚えて自転車に乗り、だんだん遊びに来てくれるようになりました。
記念すべき第一号の訪問者は、社会人になってからも仲良しでした。

九島丸が間近に見える。
「初夏」
な~んだ~しょぅか~!

ここは戎山の赤灯台がある防波堤付近(「戎ヶ鼻」と言う)
今の道路の山際に、1mほどの古い道がありました。左の木の下あたり

さらに防波堤まで進むと見えてきます。


この石積みが護岸で、これより右は海でした。
ちなみに海のむこうは九島です。


このように勾配がありました。

あのカーブで子供の頃、自転車で曲がりそこね、海に落ちた事があります。

幸いに落ちたのは自転車だけでしたが、海の中に入って上げたので結局濡れましたがw

更に進みます。前方の電柱の前あたりから、道が終わり海岸でした。

前方に回り、反対方向から見たところ。

上の道路を含めて、山まで海岸でした。
以前は「戎山海岸」と言い、小学校の2年に遠足に来ました。「解散は学校に帰ってから」と言うことでしたが、特別処置でまーきみ。と隣の同級生だけ、現地解散が許可されました。

ウニやヒトデがたくさん取れてみんな大喜びでしたようです。
鶴島校区では最果てだった戎山ですが、以後友達が道を覚えて自転車に乗り、だんだん遊びに来てくれるようになりました。
記念すべき第一号の訪問者は、社会人になってからも仲良しでした。
九島丸が間近に見える。
タグ :戎神社
2008年04月07日
戎山の戎さま
近所のおばちゃんが嫁に来た頃、前を通るたびに足を止めて家に向かって拝む人がいた。
不思議に思ってだんなさんであるおっちゃんに聞くと
「あーあれは床の間の戎さんを拝みよるんよ」
と言ったらしい。
その家の床の間には烏帽子をかぶり釣竿と鯛を持ったややスリムな戎さまが鎮座してあった。
それをまーきみ。が触ろうとしたら
「いろうたらいけん!いろうたら噛まれるで!」
と、その家の男の子が止めた。きつく親から言い聞かされていたのだろう。
この戎像は、その家のおじいさんが、それまで保管してた人が、事情で都会に引っ越すようになったので代わりに預かったと言う。
戦前戦後のごたごたの内に、戎神社は老築化してしまい、私が知ってる限りではがけ下に古ぼけた祠があっただけだった。

再建成った現在の戎神社 昭和52年11月竣工 鳥居は平成14年4月完成
奉賛会長には予科練の「誠敬舎」運営に尽力した田中氏の名前もある。

赤灯台
この赤灯台より先の道路はかつて、半間ほどの人がやっと通れる道だった。
子供の頃、自転車で曲がり損ねて海に落ちた経験がある。
由来によると、
伊達秀宗が入府後、西宮の戎神社から勧請し伊達家の直轄地として祭事が執り行われてきた。
船舶がこの前を通行する時は、必ず舳先を社に向け家内安全、大漁祈願をしたと言う。
その後、幾多の変遷を経て現代に至る。
以下余談
戎山は昔、今の堂崎のように海に突き出た半島で、人家を建てる平地は無かった。九島出身のI氏らの埋め立て工事により現在の区画が出来上がったのは、大正年間と思われる。
古老の話では、工事に協力したお礼に戎山部落に数筆の土地が「共有地」として寄付された。その一部には今の集会所がたっており、当時飲料水として利用された井戸も現存している。
古い登記簿に寄れば、それらの土地の所有権をI氏より部落の代表者数名に移転したのが大正7年1~2月となっていることから推察される。

余談終る
昭和52年頃は、現在の道路が整備され、新しい神社を建設する運びとなった。
以後、毎年4月10日には祭礼が執り行われている。
招待されながら一度も行ってないが、今年あたりはちょっと行ってみようかなと思っている。

昔の九島(昭和30年代)サムネイル
不思議に思ってだんなさんであるおっちゃんに聞くと
「あーあれは床の間の戎さんを拝みよるんよ」
と言ったらしい。
その家の床の間には烏帽子をかぶり釣竿と鯛を持ったややスリムな戎さまが鎮座してあった。
それをまーきみ。が触ろうとしたら
「いろうたらいけん!いろうたら噛まれるで!」
と、その家の男の子が止めた。きつく親から言い聞かされていたのだろう。
この戎像は、その家のおじいさんが、それまで保管してた人が、事情で都会に引っ越すようになったので代わりに預かったと言う。
戦前戦後のごたごたの内に、戎神社は老築化してしまい、私が知ってる限りではがけ下に古ぼけた祠があっただけだった。

再建成った現在の戎神社 昭和52年11月竣工 鳥居は平成14年4月完成
奉賛会長には予科練の「誠敬舎」運営に尽力した田中氏の名前もある。

赤灯台
この赤灯台より先の道路はかつて、半間ほどの人がやっと通れる道だった。
子供の頃、自転車で曲がり損ねて海に落ちた経験がある。
由来によると、
伊達秀宗が入府後、西宮の戎神社から勧請し伊達家の直轄地として祭事が執り行われてきた。
船舶がこの前を通行する時は、必ず舳先を社に向け家内安全、大漁祈願をしたと言う。
その後、幾多の変遷を経て現代に至る。
以下余談
戎山は昔、今の堂崎のように海に突き出た半島で、人家を建てる平地は無かった。九島出身のI氏らの埋め立て工事により現在の区画が出来上がったのは、大正年間と思われる。
古老の話では、工事に協力したお礼に戎山部落に数筆の土地が「共有地」として寄付された。その一部には今の集会所がたっており、当時飲料水として利用された井戸も現存している。
古い登記簿に寄れば、それらの土地の所有権をI氏より部落の代表者数名に移転したのが大正7年1~2月となっていることから推察される。

余談終る
昭和52年頃は、現在の道路が整備され、新しい神社を建設する運びとなった。
以後、毎年4月10日には祭礼が執り行われている。
招待されながら一度も行ってないが、今年あたりはちょっと行ってみようかなと思っている。
昔の九島(昭和30年代)サムネイル
タグ :戎山


