2008年03月31日
春の来村川三景
春の来村川の風物詩、しらうお漁
昔はこの河口で、ゴカイをたくさん掘って釣りえさに使っていた。
今は掘る人はいないな。

この網を沈めて、その上を白魚が通るのを待つ。
底引き網が積極の漁法なら、その対極に位置する消極の漁法か


船からだけでなく、桟橋を作っての漁もある。

こちら側のは屋根まで付いている。や~ねぇ

一度も行った事のない巨大迷路 閉鎖したのはもうずっと昔だ。
ここに放し飼いにしてるって言ってた猛犬はどこに行ったのだろう?

今はもう使っていない揚水場。おそらく須賀川ダムが出来るまで使っていたのではないか?

ここで中学校の頃、亀を捕まえた事があったな。

三島神社の森。前の川で秋祭りの走り込みが行われる。

三島神社前景

春季総代総会の会場。靴が外まであふれてる。
宮司さんの話では、
神殿に上がるのに靴を脱ぐ時は、ぬぎっぱで揃えてはいけないそうだ。
手水を使って手を清めたら尚更 靴を触って手を汚してはならない。
また、退出する時も、神様に後を見せなくて済むから。それが作法だ。
なんと、一般の家庭を訪問する時も同じだそうな。
家の人が客の靴をそろえるのはいいが、上記の理由(家にも神棚があるから)で、やはり後ろを向けてはいけないそうな。
それならば、まーきみ。は幼少の頃から靴をぬぎっぱにしてたが、神の御心に敵っていたのだな

総会が終わった後の直来

堀部公園前景

あ!名画堂だ! 名画どう?

オーガフミヒロ展に行ってきました。
絵に縁のない者には画廊と言うところは入り難いものですが、松野町の水彩画家「木もれ日庵」の省ちゃんが友達なので、あちこち画朗に顔を出すうちに「物知り顔で画廊を徘徊できる」と言う特技を身につけました。
もちろん作品の撮影はしませんでしたが、気品とユーモアとウイットに富んだ作品・・と言う風に受け止めました。
サロンなど、お客様が来る場所に飾るには、最適かもしれません。
昔はこの河口で、ゴカイをたくさん掘って釣りえさに使っていた。
今は掘る人はいないな。
この網を沈めて、その上を白魚が通るのを待つ。
底引き網が積極の漁法なら、その対極に位置する消極の漁法か

船からだけでなく、桟橋を作っての漁もある。
こちら側のは屋根まで付いている。や~ねぇ

一度も行った事のない巨大迷路 閉鎖したのはもうずっと昔だ。
ここに放し飼いにしてるって言ってた猛犬はどこに行ったのだろう?
今はもう使っていない揚水場。おそらく須賀川ダムが出来るまで使っていたのではないか?
ここで中学校の頃、亀を捕まえた事があったな。
三島神社の森。前の川で秋祭りの走り込みが行われる。
三島神社前景
春季総代総会の会場。靴が外まであふれてる。
宮司さんの話では、
神殿に上がるのに靴を脱ぐ時は、ぬぎっぱで揃えてはいけないそうだ。
手水を使って手を清めたら尚更 靴を触って手を汚してはならない。
また、退出する時も、神様に後を見せなくて済むから。それが作法だ。
なんと、一般の家庭を訪問する時も同じだそうな。
家の人が客の靴をそろえるのはいいが、上記の理由(家にも神棚があるから)で、やはり後ろを向けてはいけないそうな。
それならば、まーきみ。は幼少の頃から靴をぬぎっぱにしてたが、神の御心に敵っていたのだな

総会が終わった後の直来
堀部公園前景

あ!名画堂だ! 名画どう?

オーガフミヒロ展に行ってきました。
絵に縁のない者には画廊と言うところは入り難いものですが、松野町の水彩画家「木もれ日庵」の省ちゃんが友達なので、あちこち画朗に顔を出すうちに「物知り顔で画廊を徘徊できる」と言う特技を身につけました。

もちろん作品の撮影はしませんでしたが、気品とユーモアとウイットに富んだ作品・・と言う風に受け止めました。
サロンなど、お客様が来る場所に飾るには、最適かもしれません。
2008年03月30日
フェミニストだった彼
宇和島本舗さんのブログを読んで感じた事。
商売は次の三つが大切と言う。
1) コンセプトを明確にする。
2) ターゲットを絞る
3) 常に新しいアイデァを出す。
ようは
「下手な鉄砲は数撃っても当たらない」って事やね。
お前の事じゃ!まーきみ。(゚Д゚)ノバシィィィィィィィィ
すんません

さて、本題です。
一昨年だったか、昼食のため同級生の焼き肉店に行った時、
「同級生のMATUYADEN子さん(仮名)という子を覚えとるか、そのこの店ががいに流行りよるんと」
私はその女の子に記憶があった。
しかし、7クラスあった当時の中学で、同じクラスにもなったこともないし、口をきいたこともない女子をなぜ覚えているんだろう?
そう疑問に思って記憶の糸を辿っていくと、思い当たる事があった。
それは中学2年の時だった。
クラスの友人ヤマダ君(仮名)と廊下を歩いていたら、件のMATUYADEN子さん(以下M子さんと呼称す)が向こうから歩いてきた。
すると、ヤマダ君はやおらその女子の前に進み出て、
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
と、顔の前で両手を合わせ腰をかがめながら一生懸命謝っていた。
懸命に謝るヤマダ君に一瞥をくれて冷ややかに立ち去るM子さん。
「ヤマダ君、どがいしたんぞ?」
と聞く、まーきみ。
彼の話によると数日前の放課後、階段の上から踊り場に向かって投げた彼の鞄が、折から上がってきたM子さんの顔面を直撃したのだと言う。
大人の階段登る~キミはまだ~シンデレラさ~~踊り場で足を停めて~~♪
ズドンコ
謂れ無き鞄爆弾の直撃を受けたM子さんは、少女であり、しかも他の子に比べても小柄であった。
当然の事ながら「小さい少女」はその場に立ち尽くし泣き出したのである。
階上でしばし、ボーゼンのヤマダ君
余談だが
その時現場には、それも彼女の一番近いところに同じくクラスメートのデオデオ君(仮名)が居た。
張本人のヤマダは階上に居た為、遠くからは見えず、結果一番近くに居たデオデオ君が犯人と噂を立てられたらしい。
「デオデオ君が、モノサシで叩いてM子さんを泣かしたんと!」
一体どこからモノサシという尾ヒレまで付いてしまったか知らないが、かなり長い間デオデオ君の冤罪は晴れなかった。
話を戻そう
いったい、どうしてヤマダ君は鞄を投げたのか?
なんでも、同じ柔道部のベスト君(仮名)が、何か、ヤマダ君をからかっって階下に逃げたので、ふざけて投げつけたらしい・・
ここでヤマダ君の名誉のために一言弁解しておく。
彼は柔道部で、大柄で腕っ節が強い。小学生の頃からケンカも強かった。と、同時に稀代のフェミニストである。
女性に手を上げないどころか、すごく優しい。しかもその優しさが気が効いている。
後年、仲良しの男女で卒業のお別れ遠足に行った時など、道を塞ぐ木の枝をごく自然に横に押し上げ、女子の通り道を作ってやっていた。
その繊細な気遣いを後ろから見ていてものすごく感心したことを覚えている。
故に女の子を暴力で泣かした事は彼の人生でも痛恨の至りであったに違いない。
その後、彼は何度も彼女に謝ったが彼女の顔に笑が浮かぶ事は決してなかった。
一度などは、そう、奥さんに絶対許されない悪事がばれて
「実家に帰らせていただきます!」と言い切る時のあの冷たい眼差し
男なら、その一瞥を食らっただけで震え上がってしまうあの視線。
品行方正なまーきみ。には覚えが無いが・・
小松方正なブロガー諸兄の中には、あるいは・・・
例えればそう、寺島純子演じる「緋牡丹お竜」に長ドスを突きつけられ
「死んでもらいます!」
と言われた時の
「恐怖のズンドコ」

そんな目で見られたこともあった。
その後、卒業までにヤマダ君の謝罪をM子さんが受け入れたかどうか定かでない。
今は大流行と言うキミコも行ったその店に、まーきみ。も行って見たい気もするが、なんとなく気がひけて果たせないでいる。
商売は次の三つが大切と言う。
1) コンセプトを明確にする。
2) ターゲットを絞る
3) 常に新しいアイデァを出す。
ようは
「下手な鉄砲は数撃っても当たらない」って事やね。
お前の事じゃ!まーきみ。(゚Д゚)ノバシィィィィィィィィ
すんません


さて、本題です。
一昨年だったか、昼食のため同級生の焼き肉店に行った時、
「同級生のMATUYADEN子さん(仮名)という子を覚えとるか、そのこの店ががいに流行りよるんと」
私はその女の子に記憶があった。
しかし、7クラスあった当時の中学で、同じクラスにもなったこともないし、口をきいたこともない女子をなぜ覚えているんだろう?
そう疑問に思って記憶の糸を辿っていくと、思い当たる事があった。
それは中学2年の時だった。
クラスの友人ヤマダ君(仮名)と廊下を歩いていたら、件のMATUYADEN子さん(以下M子さんと呼称す)が向こうから歩いてきた。
すると、ヤマダ君はやおらその女子の前に進み出て、
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
と、顔の前で両手を合わせ腰をかがめながら一生懸命謝っていた。
懸命に謝るヤマダ君に一瞥をくれて冷ややかに立ち去るM子さん。
「ヤマダ君、どがいしたんぞ?」
と聞く、まーきみ。
彼の話によると数日前の放課後、階段の上から踊り場に向かって投げた彼の鞄が、折から上がってきたM子さんの顔面を直撃したのだと言う。
大人の階段登る~キミはまだ~シンデレラさ~~踊り場で足を停めて~~♪
ズドンコ
謂れ無き鞄爆弾の直撃を受けたM子さんは、少女であり、しかも他の子に比べても小柄であった。
当然の事ながら「小さい少女」はその場に立ち尽くし泣き出したのである。
階上でしばし、ボーゼンのヤマダ君
余談だが
その時現場には、それも彼女の一番近いところに同じくクラスメートのデオデオ君(仮名)が居た。
張本人のヤマダは階上に居た為、遠くからは見えず、結果一番近くに居たデオデオ君が犯人と噂を立てられたらしい。
「デオデオ君が、モノサシで叩いてM子さんを泣かしたんと!」
一体どこからモノサシという尾ヒレまで付いてしまったか知らないが、かなり長い間デオデオ君の冤罪は晴れなかった。
話を戻そう
いったい、どうしてヤマダ君は鞄を投げたのか?
なんでも、同じ柔道部のベスト君(仮名)が、何か、ヤマダ君をからかっって階下に逃げたので、ふざけて投げつけたらしい・・
ここでヤマダ君の名誉のために一言弁解しておく。
彼は柔道部で、大柄で腕っ節が強い。小学生の頃からケンカも強かった。と、同時に稀代のフェミニストである。
女性に手を上げないどころか、すごく優しい。しかもその優しさが気が効いている。
後年、仲良しの男女で卒業のお別れ遠足に行った時など、道を塞ぐ木の枝をごく自然に横に押し上げ、女子の通り道を作ってやっていた。
その繊細な気遣いを後ろから見ていてものすごく感心したことを覚えている。
故に女の子を暴力で泣かした事は彼の人生でも痛恨の至りであったに違いない。
その後、彼は何度も彼女に謝ったが彼女の顔に笑が浮かぶ事は決してなかった。
一度などは、そう、奥さんに絶対許されない悪事がばれて
「実家に帰らせていただきます!」と言い切る時のあの冷たい眼差し
男なら、その一瞥を食らっただけで震え上がってしまうあの視線。
品行方正なまーきみ。には覚えが無いが・・
小松方正なブロガー諸兄の中には、あるいは・・・
例えればそう、寺島純子演じる「緋牡丹お竜」に長ドスを突きつけられ
「死んでもらいます!」
と言われた時の
「恐怖のズンドコ」

そんな目で見られたこともあった。
その後、卒業までにヤマダ君の謝罪をM子さんが受け入れたかどうか定かでない。
今は大流行と言うキミコも行ったその店に、まーきみ。も行って見たい気もするが、なんとなく気がひけて果たせないでいる。
2008年03月29日
お花見業務連絡。
西海ふれあい公園 テニスコート、クロッケーコート、公園、裏の福祉会館にはジムもあるらしい。
水洗トイレ、身障者用トイレ完備、駐車場完備、オヤジギャグ持込可
ここから望む見晴も美しい

庭園の花に鳥が庭・・いえ2羽停まっています。

サムネイルです。
先日、大胸筋が筋肉痛になったという年配のご婦人
たまに公園でクロッケーをされてるのですが、今までそんなところが痛くなった事はないといわれます。
「あー、公園につり輪があるけん、それをしたんやろー」

風に揺れるつり輪
「まーきみ。さん、この年でそんなもんできんで」

「おくさん、気前がええけん、買い物してもつりわいらんぞー」
(≧∇≦)なーんちゃって、ぶぁっはっはっ!!
「・・・・・・・・・・」
つり輪や鉄棒をすると、痛め易いのは三角筋かな?
「じゃ、植木鉢やプランターをようけこと動かさんかった?」
「あ!」
当たったようです。
重いものを持ち上げようとして、大胸筋を痛める事がたまにあります。
以前は、側溝の蓋を持ち上げようとしてやはり同じところを痛めた人が・・
側溝だけにソッコウで!
「・・・・・・・・」
お大事になさいませ!
このような症状の時、大胸筋自体も、もちろんですが、あまりに痛くて触れない・・そんなときは近隣の上腕付近から緩める事が大切になります。
上腕もほどほどに・・・

花冷えの季節は寒暖の差がはげしく、腰を痛めやすい時期でもあります。
ぎっくり腰が頻発するのもこの時期です。
筋肉痛も
お花見で公園などにいって、お子さんと遊具やアスレチックで遊ぶ時はくれぐれもお気を付けあそばされますように。
以上、まーきみ。施術院からのお知らせでした。
PSマナーを大切に

「ワンちゃん、マナー守ってる?」
「まぁなー」
○愛南町公園条例
2008年03月29日
お遍路の服
先日、仕事帰りに旧内海村の「ゆらり内海」の温泉に行くと

なるほど・・
仕事柄、白っぽい服着てるのでお遍路と言っても通るかな?
いや、やはり杖がないと・・
よし!今度杖を調達せんといけんね!
ここ数年、国道56号線を走って南下する事が多いのですが、春夏秋冬を通して、お遍路さんの歩く姿を見るのが常になりました。

私が小学校の頃から、20歳くらいの頃まで「歩き遍路」を見ることは稀でした。
20歳の頃、若い女性のお遍路がが小学生くらいの男の子を連れて歩いていくのを見て、当時宇和島で話題になったことがありました。
それくらい「お遍路空白の時代」があったように記憶します。
映画や小説で描かれる遍路は、
「行き行きて、倒れ伏すとも・・」の思いで、それぞれの人生の終焉まで歩き続ける覚悟のように描写されています。
「足摺岬」に登場する元武士の老遍路がそうだったでしょうか。
故に私達の子供時代も、親や大人たちからはっきり言われたわけではないけれど、やがてどこかで倒れ伏すまで願をかけながら歩いて行くのだろうと思っていました。
私の住んでいる所は、遍路道とは遠く離れていますが、昭和30年代にはお遍路が来てそれぞれの家の門々に立ち、鈴を鳴らしながらお経を唱えて托鉢を行っていました。
わずかのお金などを、持って行くのは子供である私の役目でした。
寝巻き姿のまま、母親に促され数枚の一円玉を持って入り口に立っているお遍路に無言で渡したのを今も覚えています。
親や大人たちから伝え聞いたお遍路の生活は、夜は橋の下で臥し、昼間は歩きながら貰った物を食べ、親が不要になった子供を貰いうけ、一緒に連れて行く・・というものでした。
故にイタズラが過ぎるまーきみ。などは、
「お遍路に連れて行ってもらう!」
「歩きながら食う子はお遍路にする!」
「お前なんか返ってこんでええけん橋の下で寝れ!」
などと、叱られるたびにお遍路を引き合いに出されるので、どこか怖い、しかし崇高な目的を持って命がけで行をしている、存在だと思っていました。

今で言う「お接待」と言う文化は私の記憶にはありませんでした。
あるいは門に立つお遍路にいくばくかの金品をあげるのが、「お接待」と言う言葉の意味なのでしょうか。
昭和40年代前半頃、家の前で父母たちが夏の柑橘類を出荷のためトラックに積み込んでいると、初老のお遍路が通りすがり、50円玉を出して、みかんを売ってくれと言い、数個のみかんをおやじがお遍路に渡したことがありました。
お金を出して食べ物を買う、しかもデザートとして、
なんだか、別世界の存在だったお遍路が、俗っぽい一般人のように思われて奇異な感じがしました。
そのあたりから、わたしの記憶の中ではお遍路は見かけなくなります。
ところが昭和53年に卒業し他県に就職、そして8年後に帰郷を果たした数年後には、四国は「空前の歩き遍路ブーム」になっていました。
若い女性や外国人などが白い服を着て、意気揚々と国道を歩いています。
特に今ごろの季節に道端に咲く菜の花や、散り始めたもくれんの雨の中を歩いていくお遍路は、この地方ならではの風物詩として美しく写ります。
ただ、それらの風景を見てまーきみ。が思うのは
「お遍路の服、白すぎる」
と言う事です。
私が幼少の頃覚えているお遍路の服装は、白装束と言うより、黄色く色あせ、シワだらけになった古ぼけたなものでした。
「行き行きて、やがて野に伏す」覚悟の人々だと思っていたお遍路は、今では過去の存在になってしまったのでしょう。

なるほど・・
仕事柄、白っぽい服着てるのでお遍路と言っても通るかな?

いや、やはり杖がないと・・
よし!今度杖を調達せんといけんね!

ここ数年、国道56号線を走って南下する事が多いのですが、春夏秋冬を通して、お遍路さんの歩く姿を見るのが常になりました。

私が小学校の頃から、20歳くらいの頃まで「歩き遍路」を見ることは稀でした。
20歳の頃、若い女性のお遍路がが小学生くらいの男の子を連れて歩いていくのを見て、当時宇和島で話題になったことがありました。
それくらい「お遍路空白の時代」があったように記憶します。
映画や小説で描かれる遍路は、
「行き行きて、倒れ伏すとも・・」の思いで、それぞれの人生の終焉まで歩き続ける覚悟のように描写されています。
「足摺岬」に登場する元武士の老遍路がそうだったでしょうか。
故に私達の子供時代も、親や大人たちからはっきり言われたわけではないけれど、やがてどこかで倒れ伏すまで願をかけながら歩いて行くのだろうと思っていました。
私の住んでいる所は、遍路道とは遠く離れていますが、昭和30年代にはお遍路が来てそれぞれの家の門々に立ち、鈴を鳴らしながらお経を唱えて托鉢を行っていました。
わずかのお金などを、持って行くのは子供である私の役目でした。
寝巻き姿のまま、母親に促され数枚の一円玉を持って入り口に立っているお遍路に無言で渡したのを今も覚えています。
親や大人たちから伝え聞いたお遍路の生活は、夜は橋の下で臥し、昼間は歩きながら貰った物を食べ、親が不要になった子供を貰いうけ、一緒に連れて行く・・というものでした。
故にイタズラが過ぎるまーきみ。などは、
「お遍路に連れて行ってもらう!」
「歩きながら食う子はお遍路にする!」
「お前なんか返ってこんでええけん橋の下で寝れ!」
などと、叱られるたびにお遍路を引き合いに出されるので、どこか怖い、しかし崇高な目的を持って命がけで行をしている、存在だと思っていました。

今で言う「お接待」と言う文化は私の記憶にはありませんでした。
あるいは門に立つお遍路にいくばくかの金品をあげるのが、「お接待」と言う言葉の意味なのでしょうか。
昭和40年代前半頃、家の前で父母たちが夏の柑橘類を出荷のためトラックに積み込んでいると、初老のお遍路が通りすがり、50円玉を出して、みかんを売ってくれと言い、数個のみかんをおやじがお遍路に渡したことがありました。
お金を出して食べ物を買う、しかもデザートとして、
なんだか、別世界の存在だったお遍路が、俗っぽい一般人のように思われて奇異な感じがしました。
そのあたりから、わたしの記憶の中ではお遍路は見かけなくなります。
ところが昭和53年に卒業し他県に就職、そして8年後に帰郷を果たした数年後には、四国は「空前の歩き遍路ブーム」になっていました。
若い女性や外国人などが白い服を着て、意気揚々と国道を歩いています。
特に今ごろの季節に道端に咲く菜の花や、散り始めたもくれんの雨の中を歩いていくお遍路は、この地方ならではの風物詩として美しく写ります。
ただ、それらの風景を見てまーきみ。が思うのは
「お遍路の服、白すぎる」
と言う事です。
私が幼少の頃覚えているお遍路の服装は、白装束と言うより、黄色く色あせ、シワだらけになった古ぼけたなものでした。
「行き行きて、やがて野に伏す」覚悟の人々だと思っていたお遍路は、今では過去の存在になってしまったのでしょう。
タグ :遍路
2008年03月28日
学校の机と先生
小学校6年生のある日の授業中、女子の一人が・・
「せんせ・・」
「どうした?」
「指が、抜けんなった~~~~」
ええええええええー
教室中に驚愕の声が轟き渡った。
見ると、2人掛けの机の節穴に、小指がすっぽりとはまり込んで、今にも泣きそうに先生に訴えていた。
先生は授業を中断し、
「おおおおおおーそりゃ~たいへんじゃ~~」
どうしてそんなものが教室に有ったのか知らないが、先生が自転車用のオイルを塗りこんでやっとの思いで救出する事ができたのである。
今と違い昔の机は二人掛けで木製。
至る所に刃物で名前を彫ったり、落書きの後があったりと凸凹で、直接答案用紙などに字を書く事もできなかった。
また、自然木の宿命として、やはり節穴が出来るのは如何ともし難い。
しかしながら、それら欠陥であるはずの節穴を、自然の恵みと受け入れる子供の適応力は驚嘆に値する。
長い時間をかけて毎日、自分のお気に入りの形にカスタマイズし、ゴルフのゲームをするハニカマナイ王子や、消しゴムのカスを貯めて、固めてリサイクルするなど、地球に優しいエコ小学生もいたりした。
余談だが、
まーきみ。が6年生の頃のマイブームは卓球
机の真ん中に筆箱を横に立ててネット代わりにして、下敷き(当時の机事情から、下敷きは必須)をラケット代わりにして行うのだ。版が狭いので、特に細かいテクニックを求められる。
まさにビジュアル卓球と呼ぶに相応しい。
先日、顧客で戦前戦後に跨って学校に行った経験のある世代の男性が
「戦前は男女別の教室やったのに、戦後急に共学になり、しばらくは男女は中が悪かった」と話していた。
まーきみ。たちも今思えば戦後わずかに15年目の生まれ、通学途中の「予科練」には戦争の傷跡がまだ多く残っていた。上記の顧客男性の言葉にも頷けるものがある。
それは、2人掛けの机に例外なく引いてあったセンターラインを巡っての話だ。
まーきみ。以外の世代や他校の小学生はどうか知らないが、当時鶴島小学校では二人掛けの机には男女で座らせられた。
そして、上記のセンターラインをめぐって激しい攻防が日夜(夜は居ないが)繰り返されたのであった。
「ちょっと、アンタ、筆箱こっちまで出しさんなや!」
「何言いよら!お前もさっきまで下敷きコッチにはみ出しとったやないか!」
そのような境界争いを避けるために、製造直後は無かったと思われるこのセンターラインは、長い年月の間に自然発生的に創意工夫されたに相違ない。
しかし、境界を明確にしようとすればするほど、争いが深刻化するのは、国際社会においても小学校においても同様である。
センターラインは概ね公平に引かれてあったが、中には徳俵のように、いびつに折れ曲がっているのもあったりして、しばしば再計測についての議論が起こる事もあった。
そのような「仁義無き戦い」は3~4年生頃をピークに、6年生頃までには概ね収束した。
長い不毛の戦いを経て、対話と譲り合いによる協調路線を歩んだほうがより楽しい学園生活が送れると言う事に気づく。
まさに国際社会の縮図と言って良いだろう。
冒頭の「小指の想い出少女」事件は丁度、そのような「雪解け」の時代に発生した、「対話、協調路線への一里塚」でもあっただろうか。
低学年の頃なら、なんか恥ずかしい事件の当事者になると、心無い級友からいつまでもからかわれたものだが、既に大人の階段に差し掛かった我々は、彼女には心から同情しこそすれ、からかうような事は無かった。
ただ、30数年後、ブログに匿名で登場願うのみであるが
それは同時に「困った人には心から同情して、決してバカにしてはいけない」と言う事を繰り返し熱心に教えてくれ、退職後は人権擁護委員も委嘱された事も有る、受持ちのS崎先生の薫陶に拠る所が多いにあったと思う。
S崎先生は、まーきみ。たちが卒業する年に十年以上おられた鶴島を離任されて別の小学校に移った。
離任式の日に、色々とお話された内容を今ではすっかり忘れてしまった。
ただ、お話の最後にふと静寂が訪れ、暫し間を置いて先生が
「ま、中学行っても元気でやれや」
と言った時のやや寂しそうな笑顔だけは今も心に残っている。
中学入学式の日、先生は祝電をくれた。
その電文には、まーきみ。のクラスだけに分かるように、かつて生徒が作詞して音楽のN宮先生に曲をつけてもらって完成した「クラスの歌」の歌詞の引用と、「ガンバレ」の言葉が添えられていた。
「せんせ・・」
「どうした?」
「指が、抜けんなった~~~~」
ええええええええー
教室中に驚愕の声が轟き渡った。
見ると、2人掛けの机の節穴に、小指がすっぽりとはまり込んで、今にも泣きそうに先生に訴えていた。
先生は授業を中断し、
「おおおおおおーそりゃ~たいへんじゃ~~」
どうしてそんなものが教室に有ったのか知らないが、先生が自転車用のオイルを塗りこんでやっとの思いで救出する事ができたのである。
今と違い昔の机は二人掛けで木製。
至る所に刃物で名前を彫ったり、落書きの後があったりと凸凹で、直接答案用紙などに字を書く事もできなかった。
また、自然木の宿命として、やはり節穴が出来るのは如何ともし難い。
しかしながら、それら欠陥であるはずの節穴を、自然の恵みと受け入れる子供の適応力は驚嘆に値する。
長い時間をかけて毎日、自分のお気に入りの形にカスタマイズし、ゴルフのゲームをするハニカマナイ王子や、消しゴムのカスを貯めて、固めてリサイクルするなど、地球に優しいエコ小学生もいたりした。
余談だが、
まーきみ。が6年生の頃のマイブームは卓球
机の真ん中に筆箱を横に立ててネット代わりにして、下敷き(当時の机事情から、下敷きは必須)をラケット代わりにして行うのだ。版が狭いので、特に細かいテクニックを求められる。
まさにビジュアル卓球と呼ぶに相応しい。
先日、顧客で戦前戦後に跨って学校に行った経験のある世代の男性が
「戦前は男女別の教室やったのに、戦後急に共学になり、しばらくは男女は中が悪かった」と話していた。
まーきみ。たちも今思えば戦後わずかに15年目の生まれ、通学途中の「予科練」には戦争の傷跡がまだ多く残っていた。上記の顧客男性の言葉にも頷けるものがある。
それは、2人掛けの机に例外なく引いてあったセンターラインを巡っての話だ。
まーきみ。以外の世代や他校の小学生はどうか知らないが、当時鶴島小学校では二人掛けの机には男女で座らせられた。
そして、上記のセンターラインをめぐって激しい攻防が日夜(夜は居ないが)繰り返されたのであった。
「ちょっと、アンタ、筆箱こっちまで出しさんなや!」
「何言いよら!お前もさっきまで下敷きコッチにはみ出しとったやないか!」
そのような境界争いを避けるために、製造直後は無かったと思われるこのセンターラインは、長い年月の間に自然発生的に創意工夫されたに相違ない。
しかし、境界を明確にしようとすればするほど、争いが深刻化するのは、国際社会においても小学校においても同様である。
センターラインは概ね公平に引かれてあったが、中には徳俵のように、いびつに折れ曲がっているのもあったりして、しばしば再計測についての議論が起こる事もあった。
そのような「仁義無き戦い」は3~4年生頃をピークに、6年生頃までには概ね収束した。
長い不毛の戦いを経て、対話と譲り合いによる協調路線を歩んだほうがより楽しい学園生活が送れると言う事に気づく。
まさに国際社会の縮図と言って良いだろう。
冒頭の「小指の想い出少女」事件は丁度、そのような「雪解け」の時代に発生した、「対話、協調路線への一里塚」でもあっただろうか。
低学年の頃なら、なんか恥ずかしい事件の当事者になると、心無い級友からいつまでもからかわれたものだが、既に大人の階段に差し掛かった我々は、彼女には心から同情しこそすれ、からかうような事は無かった。
ただ、30数年後、ブログに匿名で登場願うのみであるが

それは同時に「困った人には心から同情して、決してバカにしてはいけない」と言う事を繰り返し熱心に教えてくれ、退職後は人権擁護委員も委嘱された事も有る、受持ちのS崎先生の薫陶に拠る所が多いにあったと思う。
S崎先生は、まーきみ。たちが卒業する年に十年以上おられた鶴島を離任されて別の小学校に移った。
離任式の日に、色々とお話された内容を今ではすっかり忘れてしまった。
ただ、お話の最後にふと静寂が訪れ、暫し間を置いて先生が
「ま、中学行っても元気でやれや」
と言った時のやや寂しそうな笑顔だけは今も心に残っている。
中学入学式の日、先生は祝電をくれた。
その電文には、まーきみ。のクラスだけに分かるように、かつて生徒が作詞して音楽のN宮先生に曲をつけてもらって完成した「クラスの歌」の歌詞の引用と、「ガンバレ」の言葉が添えられていた。
タグ :鶴島小学校
2008年03月27日
まんまのまんま
突然ですが


犬に食われるまーきみ。
ムキャー、いつかホ〇〇ックにしてあげますぅー(のだめ風)・・・

さて、今日は今月いっぱいで喫茶部門を休止する、旧広見町の「まんま」に行ってきました。


店内はこんな感じ

まーきみ。特等席(自称)


男女によって(あるいわ、、、見た目によって)ご飯の量を調節してくれます。
あぁ~~ん。また太っちゃう
750円(今なら100円引き)

食後のコーヒーはホットにする?アイスにする?それともファミリーナは・・無いよ

著者近影(?)
こんなに美味しいのに、もうお休みになるのは残念です。
今なら、コーヒーor100円引orアイス サービスちゅ、らしい。

ps夏メニュー

モーニング(洋)

モーニング(和)

まんま定食
この店のオープンは、私事ですがまーきみ。が整体を始めた年と同じなので、特に印象があります。
お弁当部門を更に発展させるのか?そちらの方も楽しみです。


犬に食われるまーきみ。
ムキャー、いつかホ〇〇ックにしてあげますぅー(のだめ風)・・・


さて、今日は今月いっぱいで喫茶部門を休止する、旧広見町の「まんま」に行ってきました。


店内はこんな感じ

まーきみ。特等席(自称)

男女によって(あるいわ、、、見た目によって)ご飯の量を調節してくれます。
あぁ~~ん。また太っちゃう

750円(今なら100円引き)
食後のコーヒーはホットにする?アイスにする?それともファミリーナは・・無いよ

著者近影(?)
こんなに美味しいのに、もうお休みになるのは残念です。
今なら、コーヒーor100円引orアイス サービスちゅ、らしい。

ps夏メニュー

モーニング(洋)

モーニング(和)

まんま定食
この店のオープンは、私事ですがまーきみ。が整体を始めた年と同じなので、特に印象があります。
お弁当部門を更に発展させるのか?そちらの方も楽しみです。
タグ :まんま
2008年03月27日
春が来ました
今回の高知行きの目的は「地球交響曲第三番」の鑑賞のため、高知県美術館に行く事だった。
野崎さんと言う見知らぬ女性から手書きの招待状を頂いたのは、去年の夏だったか。
折角のお話をそのまま返事もせずに打っちゃってしまっていた。
「気が向かないと何もしない」この私の性格を世間一般では「薄情な人」と呼ぶ。
キミコはずっと気付いていたそうだが、自分がその事を納得したのはつい最近になっての事と言ってよい。
自分の愚かさをこの年になってさらに発見するのは驚きであるが、同時に有難くもある。
反省する事で、まだ「世間様ともう少し親密になれる」可能性が芽生えたからだ。
「地球交響曲3番」の鑑賞は、上映会で数えれば6回、通算で8回になる。
広見町と宇和島でその「一番、二番」が初めて上映された12年前は映画のポスターの下に「演奏会ではありません」と言う但し書きを必要としたこのシリーズも、三番まで完成して随分認知されてきたと思う。
もっとも、何度見ても見ても心に響くものがそれぞれ違ってくる今の現状から見て、「認知」してないのは自分自身のことだとも思うが、
先日、拙ブログで「ナイノア・トンプソン」の事を少し書いた。
彼とホクレア号を宇和島に呼び寄せる事となったきっかけを考える時、宇和島市民にとってあの悲しい出来事を思い起こさずにいられない。
あの事件が無ければ、宇和島に来ることもあるいは無かったかもしれないし、宇和島市民が親しく彼らを迎えることも無かっただろう。
喜びでもあり、また不幸な事がきっかけとなったイヴェントであった。複雑な心境を誰もが持っていたに違いない。

3番の出演者
「ビル・フラー」
故星野道夫が最も尊敬していた友人。
60歳を過ぎてから、日本語を学び、自転車で北海道から九州まで旅をした。
映画の中で紹介されている彼は78歳だった。上映から既に10年が経過している。
「まだ元気でおるやろうか?」
帰りの車の中でその事が話題になったが、実は彼は去年の夏フェアバンクスの病院で息を引き取っていた。
映画の中では穏やかな笑みを絶やさない彼の一生は決して平坦なものではなかったらしい。
以下、彼の言葉より
「悲しい時に悲しみを分かち合い、嬉しい時に喜びを分かち合う。それ以外、人生に何が必要なのでしょう。」
「悲しみと喜びはいつも共にあります。(中略)幸せはその中に悲しみを内包しています。だからこの悲しみを知ることなしに、至福の喜びを知ることは出来ないのです」
ずっと、昔の事だが
夫婦で今までに無い深刻で不幸(そのときはそう思った)な出来事について二人で悩んでいた時、ふと見るとキミコが葉書に何か一生懸命書いている。
「何しよるん」
「懸賞の葉書、締め切りが明日までやけん」
あまりに可笑しすぎて、泣きながら大笑いした。
「世界が明日終わりになろうとも、私は今日リンゴの木を植える・・」
キミコさん、あんたならビル・フラーになれるでしょう。

高知県美術館

張り出されたなつかしのポスターと「ビル・フラワー」キミコ

星野道夫著 「旅をする木」 CD「ガイアシンフォニー6番サウンドトラック」
現在、地球交響曲は1~6番までYou Tubeで予告編を見ることが出来る。
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野崎さんと言う見知らぬ女性から手書きの招待状を頂いたのは、去年の夏だったか。
折角のお話をそのまま返事もせずに打っちゃってしまっていた。
「気が向かないと何もしない」この私の性格を世間一般では「薄情な人」と呼ぶ。
キミコはずっと気付いていたそうだが、自分がその事を納得したのはつい最近になっての事と言ってよい。
自分の愚かさをこの年になってさらに発見するのは驚きであるが、同時に有難くもある。
反省する事で、まだ「世間様ともう少し親密になれる」可能性が芽生えたからだ。
「地球交響曲3番」の鑑賞は、上映会で数えれば6回、通算で8回になる。
広見町と宇和島でその「一番、二番」が初めて上映された12年前は映画のポスターの下に「演奏会ではありません」と言う但し書きを必要としたこのシリーズも、三番まで完成して随分認知されてきたと思う。
もっとも、何度見ても見ても心に響くものがそれぞれ違ってくる今の現状から見て、「認知」してないのは自分自身のことだとも思うが、
先日、拙ブログで「ナイノア・トンプソン」の事を少し書いた。
彼とホクレア号を宇和島に呼び寄せる事となったきっかけを考える時、宇和島市民にとってあの悲しい出来事を思い起こさずにいられない。
あの事件が無ければ、宇和島に来ることもあるいは無かったかもしれないし、宇和島市民が親しく彼らを迎えることも無かっただろう。
喜びでもあり、また不幸な事がきっかけとなったイヴェントであった。複雑な心境を誰もが持っていたに違いない。

3番の出演者
「ビル・フラー」
故星野道夫が最も尊敬していた友人。
60歳を過ぎてから、日本語を学び、自転車で北海道から九州まで旅をした。
映画の中で紹介されている彼は78歳だった。上映から既に10年が経過している。
「まだ元気でおるやろうか?」
帰りの車の中でその事が話題になったが、実は彼は去年の夏フェアバンクスの病院で息を引き取っていた。
映画の中では穏やかな笑みを絶やさない彼の一生は決して平坦なものではなかったらしい。
以下、彼の言葉より
「悲しい時に悲しみを分かち合い、嬉しい時に喜びを分かち合う。それ以外、人生に何が必要なのでしょう。」
「悲しみと喜びはいつも共にあります。(中略)幸せはその中に悲しみを内包しています。だからこの悲しみを知ることなしに、至福の喜びを知ることは出来ないのです」
ずっと、昔の事だが
夫婦で今までに無い深刻で不幸(そのときはそう思った)な出来事について二人で悩んでいた時、ふと見るとキミコが葉書に何か一生懸命書いている。
「何しよるん」
「懸賞の葉書、締め切りが明日までやけん」
あまりに可笑しすぎて、泣きながら大笑いした。
「世界が明日終わりになろうとも、私は今日リンゴの木を植える・・」
キミコさん、あんたならビル・フラーになれるでしょう。
高知県美術館
張り出されたなつかしのポスターと「ビル・フラワー」キミコ
星野道夫著 「旅をする木」 CD「ガイアシンフォニー6番サウンドトラック」
現在、地球交響曲は1~6番までYou Tubeで予告編を見ることが出来る。
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2008年03月26日
どんぐり共和国とひろめ市2

愛媛の「きまぐれ市」の高知版?名所、「ひろめ市」


入り口前の広場では、フリーマーケット

テーブルが、あちこちにあって、色々な店から取り寄せた美味しいものを自由に食べる事ができます。

ひろめ市ルール、変わってるのは「注文した店に返却してはいけない」

テレビで見たことのあるギョウザやさん。

7個入り420円 皮がものすごく薄い!fourteenーだ!。

定番のたこやきもやりゆぅがぜよ!

あの山は? 高知の名峰「イモケンピ山」か!
石鎚山より美味そうだ!

再び、試食コーナー発見!(しめしめ・)

最後はこれ!

むー
なんて丁寧な!高級魚のジャコに違いない!

追伸 名所案内、各掲示板もあります。
次は高知行き最終章「春が来ました」です。
お楽しみに!
2008年03月25日
どんぐり共和国とひろめ市その1
仏蘭西の有名ブランド「ルイ・ヴィトン」と高知県は古い繋がりがあります。
日本人で初めてルイ・ヴィトンの鞄を愛用したのが土佐藩士だったからです。
そのせいかどうかわかりませんが、高知市にはルイ・ヴィトンの専門店があります。

車から見たルイ・ヴィトン高知店 夜間は美しい市松模様が浮かび上がると言う。
帯屋町商店街を歩いてみました。ここは坂本龍馬の生家にも近い場所です。

「あ!シャイニング隊長!前方に和菓子の試食コーナー発見しました!」
「了解!まーきみ。隊員は直ちに現地に急行せよ!」
「ラジャ!」

試食コーナーのプリンス&プリンセスがこれを見逃すはずは無い。嵐のあとの静けさ
さて、次は美味しいお茶だな。


マクドナルドを抜けて・・サーティン・ワンの前の路地を歩くと

どんぐり共和国発見!


店内は、ジブリがいっぱいでした。(但し、試食コーナー無)
商店街の裏通りもしゃれた町並みでした。

さて、次回はうまいものいっぱいの「ひろめ市の紹介です。
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日本人で初めてルイ・ヴィトンの鞄を愛用したのが土佐藩士だったからです。
そのせいかどうかわかりませんが、高知市にはルイ・ヴィトンの専門店があります。

車から見たルイ・ヴィトン高知店 夜間は美しい市松模様が浮かび上がると言う。
帯屋町商店街を歩いてみました。ここは坂本龍馬の生家にも近い場所です。

「あ!シャイニング隊長!前方に和菓子の試食コーナー発見しました!」
「了解!まーきみ。隊員は直ちに現地に急行せよ!」
「ラジャ!」


試食コーナーのプリンス&プリンセスがこれを見逃すはずは無い。嵐のあとの静けさ

さて、次は美味しいお茶だな。



マクドナルドを抜けて・・サーティン・ワンの前の路地を歩くと

どんぐり共和国発見!


店内は、ジブリがいっぱいでした。(但し、試食コーナー無)

商店街の裏通りもしゃれた町並みでした。

さて、次回はうまいものいっぱいの「ひろめ市の紹介です。
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2008年03月24日
ナンコウむかしばなし
これは、まーきみ。が「宇和島高等女学校」の卒業生の方から聞いたお話です。
名前を仮にN子さんとします。
むか~し、むかしの事じゃった・・・

現代の板島橋は、昭和41年3月竣工である。
南校はその頃、「宇和島高等女学校」と言っておったそうな。
周りに建物がなにもない当時、学校の北川には、板島橋がよく見渡せたそうな。

これは旧板島橋の親柱「昭和十四年三月竣工」とある。予科練橋とも言った。
ある日の朝の事、
予科練に通う青年将校が、パリッとした軍服に身を包み、軍刀を差して板島橋に差し掛かり、新妻の見送りを受けながら橋を渡って行ったんじゃと。
その日も、若夫婦が連れ立って、高女のそばを通っていった。
と、そのときじゃった!
宇和島女学校の中から、大勢の女学生の笑い声が聞こえてきたのは、、、
N子さんらは、新婚の将校夫婦がものめずらしいのか、毎朝カップルで板島橋まで来るのを眺めながら、あれこれ評定しておったらしい。
そのうち、物見高い見物人が一人増え、二人増え、その日は大勢で息を凝らして見ておったが、誰かが何かヒョウキンなことを言うたんじゃろう、それををきっかけに、皆が大笑いをしてしまったそうな。
箸が転がってもおかしい年頃じゃ、まして大勢、烏合の衆の笑い声は黄色いスコールとなって周囲にこだました。
その声のなんと大きかった事、のんびりおやじさんが言う「後向いてクスクス」などというレベルではなかったそうな。
その次の日から、若い将校さんを見送る新妻の姿は、ついぞ見ることは無く、終戦を迎えたんじゃと。
とんだ不良女学生もあったもんじゃ!
元不良女学生N子さんの話は続く。
終戦の翌年の師走、
N子さんは、試験に備え下宿で夜遅くまで勉強してたそうな。
と、眠くなり、着替えるのも面倒になると、咎めるもののないのを幸いに、制服のまま床に入ったんじゃと。
この女学校は良家の子女を「良妻賢母」に教育する事で有名で、卒業間近になると上流家庭の適齢期の息子を持つ母親が学校長に案内され、教室に
「息子の嫁に良い子はおらんか~良い嫁はおらんか~」
と、見学に来るのが常じゃったそうな。
もし、N子さんのそんなバッドマナーな数々が世間に知れてみぃ、
嫁入り先はなくなるのも同然じゃ!
そんな事も気にせず、深い眠りについたそうな・・
その夜半
どどどどどどど~~~~ん
ヒィィィィィ(゚□゚;ノ)ノ
そうじゃ!あの戦後の南海大地震が起こったのじゃった!
N子さんはびっくりして飛び起き、予ねて「非常時の際は学校へ」と言う指示通り、暗闇の中を学校に駆けつけた。
行って見ると、他の生徒は、慌てて、着の身着のままの人がほとんどだったそうじゃが、これは仕方がない。
N子さんだけ、ぴしっと制服・・
あまりにも不自然、自分だけ妙に浮いているぞよ~・・
とうとう、自分の不行跡が先生にばれてしまう。
そう思って観念していると、受け持ちの先生がN子さんを皆の前に呼びだし、こう言ったそうな。
「皆さん!N子さんを見習いなさい!こんな非常時のときにも、ちゃんと服装を整えて落ち着いて行動しました。日頃の修養の成果です!先生はN子さんのような生徒を持って誇りに思います!」
次々と降り注がれる勘違いの賛辞を、N子さんはすまして聞いておったそうな。
まーきみ。が知り合ったN子さんの話はもうお仕舞じゃ。
N子さんはその後どうなったかじゃと?
豪放磊落、しかも冷静にして沈着
日頃の修養の成果?に相応しい良縁を得て
子宝に恵まれて家業も繁盛し、幸せな老後をすごしておる。
まさか、60年後まーきみ。に悪行の数々をブログで暴露されたとは思うまいが・・・
めでたしめでたしじゃ

全日制高校終了の記念碑。南校の歴史がまたひとつ幕を閉じる。
名前を仮にN子さんとします。
むか~し、むかしの事じゃった・・・
現代の板島橋は、昭和41年3月竣工である。
南校はその頃、「宇和島高等女学校」と言っておったそうな。
周りに建物がなにもない当時、学校の北川には、板島橋がよく見渡せたそうな。
これは旧板島橋の親柱「昭和十四年三月竣工」とある。予科練橋とも言った。
ある日の朝の事、
予科練に通う青年将校が、パリッとした軍服に身を包み、軍刀を差して板島橋に差し掛かり、新妻の見送りを受けながら橋を渡って行ったんじゃと。
その日も、若夫婦が連れ立って、高女のそばを通っていった。
と、そのときじゃった!
宇和島女学校の中から、大勢の女学生の笑い声が聞こえてきたのは、、、

N子さんらは、新婚の将校夫婦がものめずらしいのか、毎朝カップルで板島橋まで来るのを眺めながら、あれこれ評定しておったらしい。
そのうち、物見高い見物人が一人増え、二人増え、その日は大勢で息を凝らして見ておったが、誰かが何かヒョウキンなことを言うたんじゃろう、それををきっかけに、皆が大笑いをしてしまったそうな。
箸が転がってもおかしい年頃じゃ、まして大勢、烏合の衆の笑い声は黄色いスコールとなって周囲にこだました。
その声のなんと大きかった事、のんびりおやじさんが言う「後向いてクスクス」などというレベルではなかったそうな。
その次の日から、若い将校さんを見送る新妻の姿は、ついぞ見ることは無く、終戦を迎えたんじゃと。
とんだ不良女学生もあったもんじゃ!
元不良女学生N子さんの話は続く。
終戦の翌年の師走、
N子さんは、試験に備え下宿で夜遅くまで勉強してたそうな。
と、眠くなり、着替えるのも面倒になると、咎めるもののないのを幸いに、制服のまま床に入ったんじゃと。
この女学校は良家の子女を「良妻賢母」に教育する事で有名で、卒業間近になると上流家庭の適齢期の息子を持つ母親が学校長に案内され、教室に
「息子の嫁に良い子はおらんか~良い嫁はおらんか~」
と、見学に来るのが常じゃったそうな。
もし、N子さんのそんなバッドマナーな数々が世間に知れてみぃ、
嫁入り先はなくなるのも同然じゃ!
そんな事も気にせず、深い眠りについたそうな・・
その夜半
どどどどどどど~~~~ん
ヒィィィィィ(゚□゚;ノ)ノ
そうじゃ!あの戦後の南海大地震が起こったのじゃった!
N子さんはびっくりして飛び起き、予ねて「非常時の際は学校へ」と言う指示通り、暗闇の中を学校に駆けつけた。
行って見ると、他の生徒は、慌てて、着の身着のままの人がほとんどだったそうじゃが、これは仕方がない。
N子さんだけ、ぴしっと制服・・
あまりにも不自然、自分だけ妙に浮いているぞよ~・・
とうとう、自分の不行跡が先生にばれてしまう。
そう思って観念していると、受け持ちの先生がN子さんを皆の前に呼びだし、こう言ったそうな。
「皆さん!N子さんを見習いなさい!こんな非常時のときにも、ちゃんと服装を整えて落ち着いて行動しました。日頃の修養の成果です!先生はN子さんのような生徒を持って誇りに思います!」
次々と降り注がれる勘違いの賛辞を、N子さんはすまして聞いておったそうな。

まーきみ。が知り合ったN子さんの話はもうお仕舞じゃ。
N子さんはその後どうなったかじゃと?
豪放磊落、しかも冷静にして沈着
日頃の修養の成果?に相応しい良縁を得て
子宝に恵まれて家業も繁盛し、幸せな老後をすごしておる。
まさか、60年後まーきみ。に悪行の数々をブログで暴露されたとは思うまいが・・・
めでたしめでたしじゃ
全日制高校終了の記念碑。南校の歴史がまたひとつ幕を閉じる。



