2008年06月30日
オレンジロード 夏物語
オレンジロード 花壇の花の植え替えが始まりました。

天気が心配されましたが、運よくこの日は晴れでした。

これから植える、たくさんの花の苗
数にして800~900くらいか?
補導ボランティアや町内、公民館関係者と、大勢の人に集まって貰いましたので、順調に進みました。

椅子に座ってる人は、交通量調査の人らしい。

鍬で畝を作り

色や花の種類に分けて植えて行きます。

みんなで植えると、早い早い川崎源八

木の周りにも、プランターを並べて

外周にも植えて、出来上がりです。

場所は、駅前通りの旧ロータリーです。
皆さん、是非見てくださいね。

梅雨時になんですが・・水をまきます。
案の定、次の日は雨でした。残念!

最後に掃除と後片付けで無事終了。
花を愛でてくれた人には、花の妖精たちから「優しいハート
」のプレゼントがありますよ。
シャイなアナタ
「照れるぜ・・よーせぃよぉ」
なんて言わないで!

天気が心配されましたが、運よくこの日は晴れでした。

これから植える、たくさんの花の苗
数にして800~900くらいか?
補導ボランティアや町内、公民館関係者と、大勢の人に集まって貰いましたので、順調に進みました。

椅子に座ってる人は、交通量調査の人らしい。

鍬で畝を作り

色や花の種類に分けて植えて行きます。

みんなで植えると、早い早い川崎源八


木の周りにも、プランターを並べて

外周にも植えて、出来上がりです。

場所は、駅前通りの旧ロータリーです。
皆さん、是非見てくださいね。

梅雨時になんですが・・水をまきます。
案の定、次の日は雨でした。残念!


最後に掃除と後片付けで無事終了。
花を愛でてくれた人には、花の妖精たちから「優しいハート
」のプレゼントがありますよ。
シャイなアナタ
「照れるぜ・・よーせぃよぉ」
なんて言わないで!
タグ :オレンジロード
2008年06月29日
宇和島空襲 1
宇和島の空襲は、5月11日に朝日町、須賀通り、寿町に爆弾が投下され115人が亡くなったのが最初です。
建物の全半焼は200余りですが、死者、重軽傷者は宇和島空襲史上、最大の被害となりました。
以後、13回(未確認1回)死者278(うち海軍航空隊18名は推定)建物焼失6600余の大災害となった空襲が終戦間近の8月12日まで続く。(8月12日は機銃掃射)
宇和島空襲のうち、当初から宇和島を狙った空襲は意外と少ないのです。この5月の初空襲もそうでした。
最初の5月の空襲は、マリアナ基地から飛び立ったB29は、広島県の大竹精油所を目指していたが、何らかの事情でそれが出来なくなり250キロ爆弾を20発投下した(米軍資料)とあります。
米軍は国勢調査による人口から、空襲を概ね大都市、中小都市に分類し、この時期は大都市空襲の期間でした。
なぜこの時期、中小都市であった宇和島(実際の目標は大竹市)を攻撃したかという疑問が生じます。
当時決行中の沖縄上陸作戦中の米軍艦船に対し、日本軍の特攻隊攻撃を受けこれに悩まされた米側が、それらを阻止するために大都市空襲を一時中断し、九州四国方面の飛行場を攻撃するように指示を出していました。
その作戦が終わるのが5月11日であったのですが、その頃に燃料補給基地である大竹精油所の爆撃に向かったB29編隊が何らかの事情で宇和島を爆撃したものであたっと推察されます。
米軍の資料では「B29一機飛来」となっていますし、朝日新聞の報道も「南から一機・・」と書かれていますが、「宇和島の空襲」(水野政子代表)に寄せられた手記によると、「午前8:40分頃、鬼ケ城から飛来した十数機の編隊が吉田方面に去ろうとして、内一機が突如転回、九島の裏を通って鬼ヶ城方面に逆戻りし、再び転回、お城山をめがけて低空飛行しながら、朝日町方面に爆弾を投下した、とあります。
(12機の編隊が九島方面から朝日町方面に飛来し、内、一機が低空飛行して投下した、と言う手記もあります)

赤太線が編隊の進路、細線が爆弾を投下した一機の進路(まーきみ。推定)
その2日後に、B29一機が当初から宇和島に狙いを定めて250キロ爆弾12発投下したと言う資料が米軍に残っていますが、不思議なことに日本国内の記録には残っていません。人里はなれた山間部に投下されたのでしょうか。

わずかの間に、100人以上が死ぬと言う惨劇は戦争を体験していないものには想像する事ができない。
爆弾の直撃を受けたある郵便局員のHさん家では、九島に配達に行っていた主人と、山に遊びに行っていた疎開中の甥以外の嫁、母、2人の子供、疎開してきた妹ともう一人の子供、叔母一家三人が一瞬に爆死してしまった。
爆弾は地中深くに突き刺さった後爆発する仕掛けになっていたので後にはすり鉢状の穴が残った。
山から帰った甥は、一人しょんぼりと佇んでいたと言う。
その後再婚したHさんは、死ぬまでその日の事を語ることはなかった。位牌に手を合わせると泣いた。
「バラバラになった死体を拾い集めて、棺桶に入れたんよ」後妻さんが聞いた空襲の話はその一言だけだったと言う。
死体は総て天神町にあった宇和島商業学校(当時、県立商工学校)に収容され、検視の後遺族に引き取られたと言う。
≪隣の中央国民学校(戦後城北中学を経て天神小学校、現在ハローワークや法務局)だったという手記もあり、両方だったのかも知れない≫
尚、この日、警防団員(消防団員)2名が出動中に爆弾の直撃を受け殉死している。

現在の地図から、赤丸が爆弾の直撃により殉死した場所(宇和島義勇消防史より)
屋根を修理していた人が爆風で、朝日町から川を越えた須賀通りの畑まで吹き飛ばされたとか、藤江の石山に落ちた爆弾に飛ばされた石が壕を突き抜けて当たり、子供が死亡したとか信じられないような凄惨な実話は枚挙に暇がない。しかし、深い悲しみからそれらの話を関係者から進んで聞くことはほとんどなかった。
「宇和島の空襲」(20号まで)を刊行した「宇和島空襲を記録する会」代表の水野政子氏並びに関係各位には深い敬意を捧げたい。

資料・出展「宇和島の空襲」(宇和島の空襲を記録する会出版) 「宇和島市誌」 「宇和島義勇消防史」
建物の全半焼は200余りですが、死者、重軽傷者は宇和島空襲史上、最大の被害となりました。
以後、13回(未確認1回)死者278(うち海軍航空隊18名は推定)建物焼失6600余の大災害となった空襲が終戦間近の8月12日まで続く。(8月12日は機銃掃射)
宇和島空襲のうち、当初から宇和島を狙った空襲は意外と少ないのです。この5月の初空襲もそうでした。
最初の5月の空襲は、マリアナ基地から飛び立ったB29は、広島県の大竹精油所を目指していたが、何らかの事情でそれが出来なくなり250キロ爆弾を20発投下した(米軍資料)とあります。
米軍は国勢調査による人口から、空襲を概ね大都市、中小都市に分類し、この時期は大都市空襲の期間でした。
なぜこの時期、中小都市であった宇和島(実際の目標は大竹市)を攻撃したかという疑問が生じます。
当時決行中の沖縄上陸作戦中の米軍艦船に対し、日本軍の特攻隊攻撃を受けこれに悩まされた米側が、それらを阻止するために大都市空襲を一時中断し、九州四国方面の飛行場を攻撃するように指示を出していました。
その作戦が終わるのが5月11日であったのですが、その頃に燃料補給基地である大竹精油所の爆撃に向かったB29編隊が何らかの事情で宇和島を爆撃したものであたっと推察されます。
米軍の資料では「B29一機飛来」となっていますし、朝日新聞の報道も「南から一機・・」と書かれていますが、「宇和島の空襲」(水野政子代表)に寄せられた手記によると、「午前8:40分頃、鬼ケ城から飛来した十数機の編隊が吉田方面に去ろうとして、内一機が突如転回、九島の裏を通って鬼ヶ城方面に逆戻りし、再び転回、お城山をめがけて低空飛行しながら、朝日町方面に爆弾を投下した、とあります。
(12機の編隊が九島方面から朝日町方面に飛来し、内、一機が低空飛行して投下した、と言う手記もあります)

赤太線が編隊の進路、細線が爆弾を投下した一機の進路(まーきみ。推定)
その2日後に、B29一機が当初から宇和島に狙いを定めて250キロ爆弾12発投下したと言う資料が米軍に残っていますが、不思議なことに日本国内の記録には残っていません。人里はなれた山間部に投下されたのでしょうか。

わずかの間に、100人以上が死ぬと言う惨劇は戦争を体験していないものには想像する事ができない。
爆弾の直撃を受けたある郵便局員のHさん家では、九島に配達に行っていた主人と、山に遊びに行っていた疎開中の甥以外の嫁、母、2人の子供、疎開してきた妹ともう一人の子供、叔母一家三人が一瞬に爆死してしまった。
爆弾は地中深くに突き刺さった後爆発する仕掛けになっていたので後にはすり鉢状の穴が残った。
山から帰った甥は、一人しょんぼりと佇んでいたと言う。
その後再婚したHさんは、死ぬまでその日の事を語ることはなかった。位牌に手を合わせると泣いた。
「バラバラになった死体を拾い集めて、棺桶に入れたんよ」後妻さんが聞いた空襲の話はその一言だけだったと言う。
死体は総て天神町にあった宇和島商業学校(当時、県立商工学校)に収容され、検視の後遺族に引き取られたと言う。
≪隣の中央国民学校(戦後城北中学を経て天神小学校、現在ハローワークや法務局)だったという手記もあり、両方だったのかも知れない≫
尚、この日、警防団員(消防団員)2名が出動中に爆弾の直撃を受け殉死している。
現在の地図から、赤丸が爆弾の直撃により殉死した場所(宇和島義勇消防史より)
屋根を修理していた人が爆風で、朝日町から川を越えた須賀通りの畑まで吹き飛ばされたとか、藤江の石山に落ちた爆弾に飛ばされた石が壕を突き抜けて当たり、子供が死亡したとか信じられないような凄惨な実話は枚挙に暇がない。しかし、深い悲しみからそれらの話を関係者から進んで聞くことはほとんどなかった。
「宇和島の空襲」(20号まで)を刊行した「宇和島空襲を記録する会」代表の水野政子氏並びに関係各位には深い敬意を捧げたい。
つづく
資料・出展「宇和島の空襲」(宇和島の空襲を記録する会出版) 「宇和島市誌」 「宇和島義勇消防史」
2008年06月29日
どうしてこんなに嬉しいんだろう。
ブログと言うものが世に出て、最早幾年経ったでしょう?
あっという間に広がって生活の一部と化していますね。
本県出身のタレント真鍋かおりさんが「ブログの女王」と異名を取って久しいですが、彼女のブログの総アクセス数は既に、億を突破しているとか!
最近ではさらに中川翔子さんというタレントさんのブログがそれを上回るほどの大人気で「新・ブログの女王」と言われてるらしいですね。
明るく、ノリノリのキャラでテレビでも人気者の中川さんも、今のようになるには人には言えない御苦労がたくさんあった事と推察されます。
それはまさに
さて、マエフリは今日も軽く流して、本題です。
今日は雨の中、出張に行ってきました。愛南町某所

この御宅に行くようになってから、もう6年になりましょうか。
縁も所縁もない土地の知らない家。
偶然に偶然が重なって、知り合いました。
初めは家内と2人で行っていました。
その頃は、まだ始めたばかりで仕事が少なかったので新聞配達をしていた時期でした。
チラシを配ったり、出張できる場所を探したりと毎日、あちこちと出かけていました。
苦しかったけど、今思えば若くて充実した時期でした。
明るい未来を夢見て まさに臥薪嘗胆




いつもの、治療風景 お客様にお願いして撮影させていただきました。
「写真撮ってどがいするんぞな」
「ネットに載せるのよ」
信じているのか、冗談と思っているのか、皆さん笑って協力してくれました。

杖を突いても、来てくれる人 いつも軽くなったと言って喜んでくれます。
ありがとうございます。お大事になさいませ。

前半の部 終わりました、さて移動します。

あ!井戸だ。
(さっと流して)

最近めずらしい街灯。暖かい光を放ちます。


再び施術風景 ご夫妻です。

終われば、もうこんな時間だった。

「これを奥さんにでも」と美生柑を頂きました。
今はキミコは行かなくなりましたが、皆覚えていてくれます。

外に出たら街灯が道を照らしてくれます。

帰りは大雨でした。

無事家につきました。
美生柑を見ながら、一日の事を話します。今日も、良く働いた。
「美生柑を見しょうかん?」
最後までさらりと流して
お休みなさいませ。
あっという間に広がって生活の一部と化していますね。
本県出身のタレント真鍋かおりさんが「ブログの女王」と異名を取って久しいですが、彼女のブログの総アクセス数は既に、億を突破しているとか!
最近ではさらに中川翔子さんというタレントさんのブログがそれを上回るほどの大人気で「新・ブログの女王」と言われてるらしいですね。
明るく、ノリノリのキャラでテレビでも人気者の中川さんも、今のようになるには人には言えない御苦労がたくさんあった事と推察されます。
それはまさに
臥薪しょこたん!
さて、マエフリは今日も軽く流して、本題です。

今日は雨の中、出張に行ってきました。愛南町某所

この御宅に行くようになってから、もう6年になりましょうか。
縁も所縁もない土地の知らない家。
偶然に偶然が重なって、知り合いました。
初めは家内と2人で行っていました。
その頃は、まだ始めたばかりで仕事が少なかったので新聞配達をしていた時期でした。
チラシを配ったり、出張できる場所を探したりと毎日、あちこちと出かけていました。
苦しかったけど、今思えば若くて充実した時期でした。
明るい未来を夢見て まさに臥薪嘗胆





いつもの、治療風景 お客様にお願いして撮影させていただきました。
「写真撮ってどがいするんぞな」
「ネットに載せるのよ」
信じているのか、冗談と思っているのか、皆さん笑って協力してくれました。

杖を突いても、来てくれる人 いつも軽くなったと言って喜んでくれます。
ありがとうございます。お大事になさいませ。

前半の部 終わりました、さて移動します。

あ!井戸だ。
(さっと流して)
最近めずらしい街灯。暖かい光を放ちます。


再び施術風景 ご夫妻です。

終われば、もうこんな時間だった。

「これを奥さんにでも」と美生柑を頂きました。
今はキミコは行かなくなりましたが、皆覚えていてくれます。

外に出たら街灯が道を照らしてくれます。

帰りは大雨でした。

無事家につきました。
美生柑を見ながら、一日の事を話します。今日も、良く働いた。
「美生柑を見しょうかん?」
最後までさらりと流して
お休みなさいませ。

2008年06月28日
不苦労

どんぶり館です。 金曜日は「どんぶり工房」出店しています。
どんぶりとどんぐり?



どんぐり社長発見!


作品制作に余念がないどんぐり社長 もう十年以上になるとか。
「遊び半分よ」
この言葉が聞きたかった!

我々も、こんな風にどっしりと構えていたい。

先日は、声を掛けずに帰りましたが、今日は色々お話しました。「きまぐれ土曜市」の話とかも。
どんぐり社長は、この時期、毎週土曜は宇和島の土曜夜市に出店するらしいです。

「不苦労の文字が目に入る」

今日はこれを買った。(一個100円)

「かんまんてや!」と言うのに一個ずつ袋に入れてくれました。

お遍路さんもいっぱい休憩してた。 もうすぐお昼だ。


うちのホワイトボードに飾っています。
ご希望の方には一個200円からお分けしています(おい!)

と言うのは冗談で、お土産に差し上げるかも?
どうぞ、皆様ご訪問ください。
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2008年06月28日
南レクプールと長崎は今日も波高し
御荘の南レクプール もうすぐオープン(6月23日現在)


水を張っていました。これを見ると子供の頃は血が騒いだ。

係りの人が、オープンの準備?
子供が中学生の頃までは毎年連れて行きましたが、今はもう行きません。
仕事帰りに、今年は一人で行ってみるか?
運動になるかもしれないが、寂しいな

たくさんの紫陽花

木陰の小路

落ちている木の実は、ヤマモモ?

湿地帯には鳥がたくさんいた。

この駐車場も、もうすぐいっぱいになる。

ここはすぐ近くの、「長崎」の防波堤
戦後しばらく、海上の交通が盛んな頃はここらが御荘で一番の繁華な地区だったらしい。

建物が密集して、道が伸びている。
このあたりが、かつて商店街だったのか?今も店や民宿、郵便局などがある。

大島様が見える。
昭和30年代までは、神主も住んでいて、秋にはにぎやかにお祭りがあったそうだ。
船がこの周りで艪を漕いで競争していたとか。
今は昔の物語 耳を澄ませば祭囃子が聞こえる?

鳥居が近くに


北側(向かって右)の小島に櫓が?

この人工的に石を積んだのは何のためだろうか?
東から流れる僧都川、蓮乗寺川、北から流れ込む長洲川の交差する位置に土砂が堆積して出来た洲なのだろう。

サンパールが見える。


水を張っていました。これを見ると子供の頃は血が騒いだ。


係りの人が、オープンの準備?
子供が中学生の頃までは毎年連れて行きましたが、今はもう行きません。
仕事帰りに、今年は一人で行ってみるか?
運動になるかもしれないが、寂しいな


たくさんの紫陽花

木陰の小路

落ちている木の実は、ヤマモモ?

湿地帯には鳥がたくさんいた。

この駐車場も、もうすぐいっぱいになる。

ここはすぐ近くの、「長崎」の防波堤
戦後しばらく、海上の交通が盛んな頃はここらが御荘で一番の繁華な地区だったらしい。

建物が密集して、道が伸びている。
このあたりが、かつて商店街だったのか?今も店や民宿、郵便局などがある。

大島様が見える。
昭和30年代までは、神主も住んでいて、秋にはにぎやかにお祭りがあったそうだ。
船がこの周りで艪を漕いで競争していたとか。
今は昔の物語 耳を澄ませば祭囃子が聞こえる?

鳥居が近くに


北側(向かって右)の小島に櫓が?

この人工的に石を積んだのは何のためだろうか?
東から流れる僧都川、蓮乗寺川、北から流れ込む長洲川の交差する位置に土砂が堆積して出来た洲なのだろう。

サンパールが見える。
2008年06月27日
本日の施術から ささき整体施術院

【ささき整体施術院 Presentation】
本日は、お客様の御協力により整体施術の紹介です。
写真1

あれ?

失礼しました
写真2

アレレのレー
重ねて失礼しました

急遽変更により
「お客様の御協力により、お昼ご飯に稲荷寿司をご馳走になった」
を紹介します。

稲荷寿司と、そうめん(トマト&ナスの炒め物入り) インゲン豆の胡麻和え インゲン豆と干し大根の焚き合わせ

この家の奥様が、料理番組で見た「そうめん料理」

仕事の途中に、ご馳走が出来たので、再三ご辞退申し上げた(あやしい・・)のですが、

にこやかに、奨められたので、固辞するのも却って失礼かと、お言葉に甘える事に致しました

あ!ちゃんと仕事もしたんですよ~

証拠写真

で、お土産まで頂きました。

【ささき整体施術院 Presentation】
ある日の出張施術でした。
2008年06月26日
コミセンと図書館 こども館
きまぐれ土曜市で一番印象に残った幟


きまぐれ土曜市の会場である松山コミセンには、中央図書館が併設されています。

今日は会館前から、人が並んでいると思ったら
「除籍本」の配布の日らしい。

以前、2月にもあったので、4ヶ月に一度の配布なのだろうか?
名誉松山市民(自称)である、まーきみ。も一般松山市民の方々に混じって、頂きました。

数多くあった司馬良太郎作品集のうちから、一冊
さすがに「坂の上の雲」は無かったな。

「明治の時代」 代表作の一つだ。

これと同じ全集を、宇和島の中央図書館で見たような気がする。
「地球の総てがわかる本」
他にもたくさんあったのですが、この2冊だけ貰いました。
本の配布は、日に数度に分けて行なわれたようで、そのたびに人だかりが出来ていました。

こども館では七夕の飾りをしていました。

噴水では子供たちが遊んでいました。

レストラン北斗のソフトクリーム(180円)
大きいです。おいしいです。但し、真中に空洞あり。

2008年06月26日
雨あがる
まーきみ。様
今夜の朝日テレビの放送で「八坂石鹸」さんの番組を
見ました。
まーきみ。さんのブログで見たので、お知り合いだろうと
思い、とりあえず激励のメッセージを送ります。
まずは、八坂石鹸様によろしくお伝えください。
製品の名前はずっと聞いていましたが、御幸町?に
会社があるなんて全く知りませんでした。
それにしても毎日毎日、絶妙な、時々寒くなるような
ギャグ連発・・・・・
以下略
↑は、宇和島の歴史その他で、色々教えて頂いている方からのメールです。
宇和島の美しい海を取り戻そうとしている「八坂石鹸」さんへのエールを送る声が日に日に高まってきている事への証でしょう
それはさておき・・・まーきみ。のギャグがどうとかこうとか・・・・
世を忍ぶ、仮の姿だとあれほど言ったのに・・
今日は、愛南町某所への出張でした。

鹿島 藩政時代から伊達家のお狩場だった。昭和3年頃まで宇和島に帰省された折も狩に出かけたようだ。
(津村寿夫 宇和島の明治大正史)

待合室


鹿島で捕れた貝

仕事中、八坂石鹸の番組が始まった!
仕事を忘れて撮影!

お客様も、宇和島にそんな石鹸を作ってる人が居たとは知らなかったようで、興味深げに見入っておられました。
まーきみ。「あ~、この人なぁ~私良く、知っとるんよ~~」
お客様「御幸町?どこぞな?」
まーきみ。「のんびりおやじさんの近所よ!」
お客様「????」
まーきみ。「あ・・いや、その、、、K先生とこの近所よ」
仕事中でしたので、音声だけ背中に聞こえてきました。
色々なご苦労があったのですね。
必要な仕事はいつか、きっと日の目を見るときが来る。
それまでの苦労は大きいけれど、喜びの大きさははその比ではない
わたしも、がんばらねば!

仕事を終えて、外に出たら雨だった。
でも、景色は明るいぞ!
今夜の朝日テレビの放送で「八坂石鹸」さんの番組を
見ました。
まーきみ。さんのブログで見たので、お知り合いだろうと
思い、とりあえず激励のメッセージを送ります。
まずは、八坂石鹸様によろしくお伝えください。
製品の名前はずっと聞いていましたが、御幸町?に
会社があるなんて全く知りませんでした。
ギャグ連発・・・・・
以下略

↑は、宇和島の歴史その他で、色々教えて頂いている方からのメールです。
宇和島の美しい海を取り戻そうとしている「八坂石鹸」さんへのエールを送る声が日に日に高まってきている事への証でしょう
それはさておき・・・まーきみ。のギャグがどうとかこうとか・・・・

世を忍ぶ、仮の姿だとあれほど言ったのに・・

今日は、愛南町某所への出張でした。

鹿島 藩政時代から伊達家のお狩場だった。昭和3年頃まで宇和島に帰省された折も狩に出かけたようだ。
(津村寿夫 宇和島の明治大正史)

待合室


鹿島で捕れた貝

仕事中、八坂石鹸の番組が始まった!

仕事を忘れて撮影!

お客様も、宇和島にそんな石鹸を作ってる人が居たとは知らなかったようで、興味深げに見入っておられました。
まーきみ。「あ~、この人なぁ~私良く、知っとるんよ~~」
お客様「御幸町?どこぞな?」
まーきみ。「のんびりおやじさんの近所よ!」
お客様「????」
まーきみ。「あ・・いや、その、、、K先生とこの近所よ」
仕事中でしたので、音声だけ背中に聞こえてきました。
色々なご苦労があったのですね。
必要な仕事はいつか、きっと日の目を見るときが来る。
それまでの苦労は大きいけれど、喜びの大きさははその比ではない

わたしも、がんばらねば!

仕事を終えて、外に出たら雨だった。
でも、景色は明るいぞ!
タグ :八坂石鹸
2008年06月25日
宇和島タイムスリップ 花街
先日、住吉山に登ろうと出かけたところ

コーラルホテルの駐車場前に
石碑発見

築地の花街を作ったときの記念碑
この石碑を見ると、今では聞き慣れない言葉
「料理屋業組合」「置屋業組合」
などが書かれています。
昭和の初期、須賀川の付け替えにより北新町(現・御幸町あたり)から泉新田(現・築地)に移転してこの新天地で営業を始めた上記の組合によって建てられた石碑のようです。撰文は高畠亀太郎市長 昭和15年8月吉日 となっています。

この石碑がある地域は、90年代に埋め立てられた「朝日運河」の中になります。
後に見えるこげ茶のマンション「東雲」の前までが運河であった地域です。

朝日運河があった位置
北新町あたりにあった花街が、泉新田に移転するきっかけになったのは、その所属する八幡村と宇和島町の合併協議が行なわれている大正9年に遡ります。
宇和島町との合併がこじれていた現状を見かねて、在京の穂積博士が仲介の労を取った事は既に述べたとおりですが、合併に反対する人々に翻意を促す意外な出来事が起こりました。
それは巡視に来た新任の警察部長が、「風俗取締りの観点から、農村に芸者を置くことは一律に禁じる方針であり、そうなると八幡村も村であるから当然置く事は参らぬ事になる」と警告したのでした。
当時北宇和郡には、八幡村の他に「三間」「旭(近永町)」「明治(あけはる・後の松丸町)」「日吉」など各村にも花街がありそれぞれ全盛を極めていました。
大正年には当時の鶴島町を舞台にした「伊予の仇浪」事件も起りましたが、この項では割愛します。
八幡浜の経済基盤は当時、花街からの収入に拠る所が大きくもし廃止になれば現在の財政は維持されなくなります。
これによって急転直下、翌年の合併実現となったのです。
さて、合併後に予定された大事業のうち水道敷設は紆余曲折の大苦心の末に、大正15年に県下に先駆けて完成することが出来ました。
そして昭和五年よりもう一つの懸案事項「内港整備に伴う須賀川の付け替え事業」が始まりました。
そして、その新しい須賀川が当時の花街を通るために、新たな移転先について警察を交えて協議することになったのでした。

須賀川沿岸の地図 上の赤枠が「北陽花街」 下が「築地花街」

佐伯酒店、キリン館(現・清岡眼科)前から国道56号線にかけて須賀川が流れていた。
この須賀川を、和霊神社の前方に架かる「御幸橋」から上流120間(約220m)現在の城北中学校あたりから破線の部分に付け替える計画でした。
昭和3年より用地買収交渉 買収対象面積1万5550坪、居住世帯150件、うち花街関連は、料理屋25、置屋9軒が移動の対象となりました。地代、家屋の移転補償、休業補償なども市から拠出されました。
施工は東京清水組(現・清水建設株式会社)起工は昭和五年
完工は昭和7年10月 通水式は翌年一月。
ちなみに上水道の通水式同様、工事の一番の功労者である山村豊次郎はその席にいませんでした。起工式の翌年に行なわれた市会議員の選挙で自身の所属する政友会が民政党に敗れたため民意を尊重して辞職したのでした。


昭和35年頃の須賀川
さて、花街の移転に関する警察の見解は「現在の北新町(北陽)は不適で、泉新田が適当であるが過去に現在地に集めるよう圧迫された歴史に鑑み、移転するのも現地に残るのも許可する」と言う方針であると言う極めて寛大なものでした。
拠って、未開不毛の泉新田地区を敬遠し現在地に残る業者、新たな地で花街向きの建設を行いたいと言う業者とに分かれることになったのです。

北陽の芸妓たち(大正10年頃)

築地花街 店の名前が記されている。
その後、両者がどのような興隆ー衰退の歴史を辿ったかは、宇和島市誌には書かれていません。
一時期は「料亭政治」が宇和島でも主流となり、山村豊次郎などもそれらを大いに活用したとある。
戦後の民主的な法整備や生活様式、社会様式の変化により、その歴史は人知らず時代の波の中に飲まれていったのでしょうか。

朝日運河から見た築地花街の様子(昭和30年代か)映画「続・大番」より

加東大介や多々良純

三木のり平
資料1 宇和島懐かしの写真集(遊郭)
資料2 「築地建設記念」の石碑(サムネイル)

資料3 原文を起こしたもの 所々間違いがあるかもしれませんがご容赦を
昭和四年宇和島市港湾改修の進捗に伴い須賀川付け替えの議、決するや河身北陽を貫くを以って市長山村豊次郎深く之を憂い業者を融通して花街移転は計画を樹つ。
業者は今岡松太郎、藤原茂馬、矢島亀壽、曾我禎吉、吉本格一、河野利八、上田輝廣、青井清三郎、小島岩太郎等、率先之に賛同し相謀りて地を朝日町埋立地に相し初めて築地と命名し花街建設を企画す。
ここにおいて、まず地主兵庫県石野巳之助交渉してその協力を得、昭和五年四月料理屋営業地許可の指令に接すると共に直ちに工を起す。
即ち葦萩を刈り〇棘を抜き衆人一願となりて土地開発に富るや、日ならずして環境全く面目を一新す、これ実に築地の草創なり、後石野は之を〇りて友人御影町、八木秀次郎志を継承し力を事業遂行に頒注す。
家屋建築は専ら大阪市の請負業者黒石富蔵手にたくし六年五月営業を開始す。
その間幾多の障害と困難に遭遇せしも業者よく結束して之に堪え拮据経営数年を経て基礎漸く定まる。
爾来宇和島市の発展と共にこの地業界順調の進歩を遂げて遊宴の諸設備整い、社交場欠くべからざる地区として今日の興隆を見るに至れり。
その創立10周年に際し、築地料理屋業組合、置屋業組合、によりて記念の碑を建て事跡を禄して永くこれを伝う。
昭和15年 八月吉日 宇和島市長 高畠亀太郎 撰 拝書

コーラルホテルの駐車場前に
石碑発見


築地の花街を作ったときの記念碑
この石碑を見ると、今では聞き慣れない言葉
「料理屋業組合」「置屋業組合」
などが書かれています。
昭和の初期、須賀川の付け替えにより北新町(現・御幸町あたり)から泉新田(現・築地)に移転してこの新天地で営業を始めた上記の組合によって建てられた石碑のようです。撰文は高畠亀太郎市長 昭和15年8月吉日 となっています。

この石碑がある地域は、90年代に埋め立てられた「朝日運河」の中になります。
後に見えるこげ茶のマンション「東雲」の前までが運河であった地域です。
朝日運河があった位置
北新町あたりにあった花街が、泉新田に移転するきっかけになったのは、その所属する八幡村と宇和島町の合併協議が行なわれている大正9年に遡ります。
宇和島町との合併がこじれていた現状を見かねて、在京の穂積博士が仲介の労を取った事は既に述べたとおりですが、合併に反対する人々に翻意を促す意外な出来事が起こりました。
それは巡視に来た新任の警察部長が、「風俗取締りの観点から、農村に芸者を置くことは一律に禁じる方針であり、そうなると八幡村も村であるから当然置く事は参らぬ事になる」と警告したのでした。
当時北宇和郡には、八幡村の他に「三間」「旭(近永町)」「明治(あけはる・後の松丸町)」「日吉」など各村にも花街がありそれぞれ全盛を極めていました。
大正年には当時の鶴島町を舞台にした「伊予の仇浪」事件も起りましたが、この項では割愛します。
八幡浜の経済基盤は当時、花街からの収入に拠る所が大きくもし廃止になれば現在の財政は維持されなくなります。
これによって急転直下、翌年の合併実現となったのです。
さて、合併後に予定された大事業のうち水道敷設は紆余曲折の大苦心の末に、大正15年に県下に先駆けて完成することが出来ました。
そして昭和五年よりもう一つの懸案事項「内港整備に伴う須賀川の付け替え事業」が始まりました。
そして、その新しい須賀川が当時の花街を通るために、新たな移転先について警察を交えて協議することになったのでした。

須賀川沿岸の地図 上の赤枠が「北陽花街」 下が「築地花街」

佐伯酒店、キリン館(現・清岡眼科)前から国道56号線にかけて須賀川が流れていた。
この須賀川を、和霊神社の前方に架かる「御幸橋」から上流120間(約220m)現在の城北中学校あたりから破線の部分に付け替える計画でした。
昭和3年より用地買収交渉 買収対象面積1万5550坪、居住世帯150件、うち花街関連は、料理屋25、置屋9軒が移動の対象となりました。地代、家屋の移転補償、休業補償なども市から拠出されました。
施工は東京清水組(現・清水建設株式会社)起工は昭和五年
完工は昭和7年10月 通水式は翌年一月。
ちなみに上水道の通水式同様、工事の一番の功労者である山村豊次郎はその席にいませんでした。起工式の翌年に行なわれた市会議員の選挙で自身の所属する政友会が民政党に敗れたため民意を尊重して辞職したのでした。


昭和35年頃の須賀川
さて、花街の移転に関する警察の見解は「現在の北新町(北陽)は不適で、泉新田が適当であるが過去に現在地に集めるよう圧迫された歴史に鑑み、移転するのも現地に残るのも許可する」と言う方針であると言う極めて寛大なものでした。
拠って、未開不毛の泉新田地区を敬遠し現在地に残る業者、新たな地で花街向きの建設を行いたいと言う業者とに分かれることになったのです。

北陽の芸妓たち(大正10年頃)

築地花街 店の名前が記されている。
その後、両者がどのような興隆ー衰退の歴史を辿ったかは、宇和島市誌には書かれていません。
一時期は「料亭政治」が宇和島でも主流となり、山村豊次郎などもそれらを大いに活用したとある。
戦後の民主的な法整備や生活様式、社会様式の変化により、その歴史は人知らず時代の波の中に飲まれていったのでしょうか。

朝日運河から見た築地花街の様子(昭和30年代か)映画「続・大番」より

加東大介や多々良純

三木のり平
資料1 宇和島懐かしの写真集(遊郭)
資料2 「築地建設記念」の石碑(サムネイル)
資料3 原文を起こしたもの 所々間違いがあるかもしれませんがご容赦を

昭和四年宇和島市港湾改修の進捗に伴い須賀川付け替えの議、決するや河身北陽を貫くを以って市長山村豊次郎深く之を憂い業者を融通して花街移転は計画を樹つ。
業者は今岡松太郎、藤原茂馬、矢島亀壽、曾我禎吉、吉本格一、河野利八、上田輝廣、青井清三郎、小島岩太郎等、率先之に賛同し相謀りて地を朝日町埋立地に相し初めて築地と命名し花街建設を企画す。
ここにおいて、まず地主兵庫県石野巳之助交渉してその協力を得、昭和五年四月料理屋営業地許可の指令に接すると共に直ちに工を起す。
即ち葦萩を刈り〇棘を抜き衆人一願となりて土地開発に富るや、日ならずして環境全く面目を一新す、これ実に築地の草創なり、後石野は之を〇りて友人御影町、八木秀次郎志を継承し力を事業遂行に頒注す。
家屋建築は専ら大阪市の請負業者黒石富蔵手にたくし六年五月営業を開始す。
その間幾多の障害と困難に遭遇せしも業者よく結束して之に堪え拮据経営数年を経て基礎漸く定まる。
爾来宇和島市の発展と共にこの地業界順調の進歩を遂げて遊宴の諸設備整い、社交場欠くべからざる地区として今日の興隆を見るに至れり。
その創立10周年に際し、築地料理屋業組合、置屋業組合、によりて記念の碑を建て事跡を禄して永くこれを伝う。
昭和15年 八月吉日 宇和島市長 高畠亀太郎 撰 拝書
2008年06月24日
工事がとっても多いから、遠回りして帰ろう♪
朝起きたら、工事してた。

仮の舗装を剥がして、本舗装するらしい。
ほぉ~そう?
さらりと流して

重機の力で、面白いように、剥離していく。
まさに

はくりょく満点!

すっかり剥がれた。

アスファルトって、結構厚い。
仕方ないので、今日は仕事の帰りには、遠回りして帰ります。
戎山を逆周り。

赤松遊園地方面です。

左が九島 向うは吉田町南君 左の白い灯台付近が 「只波鼻」

津村寿夫著 宇和島の明治大正史(前編)によると
明治中期に宇和島でコレラが大流行して、たくさんの死者が出たとき、
小船で只波鼻(本では"唯波鼻"とある)に運び、火葬してその場に埋めたとある。
コレラで死んだ人は墓に入れず、火葬に家族も僧侶も同行しなかったと言う。
高額の賃金で雇われた2人の人夫と衛生係の巡査のみ。
当時、避病舎(隔離施設)に入ると「医師に強い薬を飲まされて殺される」と言う風聞が広く信じられて、患者を家に匿うようになり、余計被害が拡大したと言う。(この根拠のない風評は大正時代にも残り影響した)
時代は変わってやっと自治制が整った明治24年、初代町長山崎惣六は潮音時山に火葬場と共同墓地を新設すべく用地を取得したが、大正時代に丸穂に火葬場が出来て、結局その地は使われる事はなく共同墓地のみ残った。
大正9年、再びコレラが流行した。90人が罹患、うち35人が死亡した。明治時代は大浦から、今回は内港の魚市場からどちらも船員がコレラ流行地で感染し持ち帰ったものである。
市立病院はそれらの手当に追われ、他の入院患者は皆恐れて退院して行き、それまで順風満帆だった病院経営は悪化したと言う。(平年12万人以上の患者が有ったがこの年は約8万6千人)
明治時代の風聞を信じ、入院を怖がり愛宕公園のトイレに隠れていたのを探索していた主治医と助役に見つかり連れ戻されたと言う逸話もある(検査の結果は陰性)
病院経営のみならず、周辺から宇和島に人が来なくなり経済その他、大きな打撃を受けた。
宇和島市が県下に先駆けて上水道を敷設したのは、それらの被害があった事も大きな理由の一つである。
いつの時代にも変革には犠牲者と言うものが存在する。
その事を忘れてはならないと思う。

帰って来たら、舗装が終わっていた。
明日からは車は通常通り通れます。
期間中に来てくださった皆様、ご不便をおかけしました。


仮の舗装を剥がして、本舗装するらしい。
ほぉ~そう?
さらりと流して

重機の力で、面白いように、剥離していく。
まさに

はくりょく満点!

すっかり剥がれた。

アスファルトって、結構厚い。
仕方ないので、今日は仕事の帰りには、遠回りして帰ります。
戎山を逆周り。

赤松遊園地方面です。

左が九島 向うは吉田町南君 左の白い灯台付近が 「只波鼻」

津村寿夫著 宇和島の明治大正史(前編)によると
明治中期に宇和島でコレラが大流行して、たくさんの死者が出たとき、
小船で只波鼻(本では"唯波鼻"とある)に運び、火葬してその場に埋めたとある。
コレラで死んだ人は墓に入れず、火葬に家族も僧侶も同行しなかったと言う。
高額の賃金で雇われた2人の人夫と衛生係の巡査のみ。
当時、避病舎(隔離施設)に入ると「医師に強い薬を飲まされて殺される」と言う風聞が広く信じられて、患者を家に匿うようになり、余計被害が拡大したと言う。(この根拠のない風評は大正時代にも残り影響した)
時代は変わってやっと自治制が整った明治24年、初代町長山崎惣六は潮音時山に火葬場と共同墓地を新設すべく用地を取得したが、大正時代に丸穂に火葬場が出来て、結局その地は使われる事はなく共同墓地のみ残った。
大正9年、再びコレラが流行した。90人が罹患、うち35人が死亡した。明治時代は大浦から、今回は内港の魚市場からどちらも船員がコレラ流行地で感染し持ち帰ったものである。
市立病院はそれらの手当に追われ、他の入院患者は皆恐れて退院して行き、それまで順風満帆だった病院経営は悪化したと言う。(平年12万人以上の患者が有ったがこの年は約8万6千人)
明治時代の風聞を信じ、入院を怖がり愛宕公園のトイレに隠れていたのを探索していた主治医と助役に見つかり連れ戻されたと言う逸話もある(検査の結果は陰性)
病院経営のみならず、周辺から宇和島に人が来なくなり経済その他、大きな打撃を受けた。
宇和島市が県下に先駆けて上水道を敷設したのは、それらの被害があった事も大きな理由の一つである。
いつの時代にも変革には犠牲者と言うものが存在する。
その事を忘れてはならないと思う。

帰って来たら、舗装が終わっていた。
明日からは車は通常通り通れます。
期間中に来てくださった皆様、ご不便をおかけしました。



