2008年07月03日

6月も、遠方より

先月の施術から、お客様の御協力により「ささき整体施術院」の施術を一部、紹介します。






ネットで見たと言って、松山方面から来られたご夫婦です。


今年のマイブーム「蒸しタオル」
気軽に家庭でもできます。

体験した人の満足度、ただいま100%


奥様です。
女性の場合は、女性スタッフ(キミコ)が対応します。




その間、敷いていたマットでゆっくりお休みのご主人様



こちらは、キミコの仕事仲間の女性です。撮影に協力して頂きました。


蒸しタオルもお気に入り。




蒸しタオル3回終了


通常の肌、下の青○と蒸しタオルが当たった後の緑○の違いが分かりますか?


梅雨が終わって熱い夏が来ます。

室内や車の冷房で、意外と身体が冷える季節です。


そんな夏だからこそ、蒸しタオルはお奨めですね。


首が痛いという症状は、首だけでなく肩甲骨周辺の硬結を取ります。








硬い硬結は、このように剥離します。(痛くないですよ)


首そのものは、あくまでソフトに。


足圧療法の紹介。

一見乱暴に見えますが、不快な痛みを感じる事はほとんど無く(痛みがあれば中止)充分注意して行ないます。



大殿筋、梨状筋を押圧し仙腸関節を緩めます。

但し、腰椎に荷重がかかるために腰に既往症のある方や痛みがある方は下記のように他の方法を取ります。

手技による押圧、伸展



腰部筋の伸展  肋骨に当たらないように


腸骨稜下方に伸展


一見乱暴に見えますが、実際はソフトで気持ちのよい施術です。 

但し、体格や骨格筋肉の状態、既往症など個人差がありますので充分精査の上、行ないます。  

Posted by まーきみ。 at 17:59Comments(8)TrackBack(0)整体

2008年07月03日

宇和島タイムスリップ 宇和島空襲 3

7月29日未明(0:00頃)
7月13日の雨の夜の宇和島市北西部の焼夷弾投下で、建造密集地の14%が焼けましたが、米軍はそれだけでは満足せず、さらに7月29日の爆撃を決行しました。これにより合わせて53%が焼失しました。
前回より物量的には4分の一ですが、被害は前回を大きく上回り、死者100人建物の全半焼4000余り、被害は逆に4倍、2倍と増えています。天候が影響したのでしょう。
2日前の九島沖への照明弾投下は、13日の爆撃の「成果」を調べ、更なる爆撃へのデーター収集だったのかもしれません。

宇和島のように2回も中小都市空襲が行なわれたのは異例の事で、他にはわずかに三例しかありません。
出撃したB-29、三十二機のうち、二十九機が50キロ焼夷弾90トン、250キロ集束焼夷弾115トンを投下。
13日の爆撃より4分の1の火薬量ですが、それでも被害は3倍になりました。天気が作用したのでしょうか。
建物の全半壊4000、死者100人という、最大の惨事になりました。
宇和島市誌によれば被災した主な場所は宇和島中央部と言う事ですが、下記の米軍の資料とは矛盾します。
解説は後日に譲りますが、どうも宇和島市誌は13日と29日の被災場所を取り違えているように思えてなりません。
(余談ですが昭和天皇巡行は昭和41年ですが、市誌には40年と書いてあるなど、事実と一致しない点もあります。)




被災してなくなった方で、国鉄関係者がこの空襲に多く含まれているので国鉄宇和島駅が被災したのはこの時の空襲だと思います。


特筆すべき事は、ある女性の軍属である夫が「宇和島の夜の空襲は焼夷弾だから防空壕に入っては危ない」と言ったと言う事です。

その言葉を証明するかのように、防空壕で焼死したり、避難の時機を逸したと言う手記がとても多いのです。
警防団員に防空壕へ入るのを勧められながら、最後にはそこから非難するようにと言われたりと、軍部や役所など上層部のの指示が間違っていた事になります。
逆に四国電力など鉄筋コンクリートの建物に非難した人が多く難を逃れたようです。市役所が焼け残ったのも頷けます。


8月8日の予科練への爆弾投下
この総重量約4,800kgの爆弾は翌日の長崎へ投下された爆弾と同型(パンプキン爆弾)のため、その予行練習ではないかという指摘もあります。
原爆投下の訓練用模擬爆弾は日本各地に投下されていますが、当初の目標に宇和島は入っていません。
それは第一目標に投下できなかった場合の第二目標のリストが作成されて、その中に宇和島の「未確認組立工場」
が入っていたのですが、この工場が予科練の北側の建物でした。(下記近江帆布写真等参照)

現在近くの90を越えるおばあさんから聞いた話。
ちょうどその時洗濯物を干していたそうで、あまりの爆音の凄さに恐ろしいのを通り越してただ唖然として眺めていたと言います。
予科練生その他18人が爆死(推定)
遺体はその場で荼毘に付され、多くはそのまま埋められたと記録にありますが、近所の人の話では現在の坂下津岸壁西側まで運んで荼毘に付したと言う話も聞きました。






爆弾が落ちた場所は湿地帯だったため、湧き水がたまり池になり1970年代に坂下津産業団地が整備されるまで現存し
我々は「爆弾池」と呼んでいました。

伊達温泉の裏山あたりに、防空壕がありました。子供の頃入った事がありますが今はどのあたりか覚えていません。




伊達温泉の山際にある火薬庫




爆弾池があったと思われる場所(現在)



近江帆布時代の写真 中央の工場らしい建物は、私が子供の頃には更地になっていてコンクリートの床下は貯水槽になっていた。そこが飛行場後かと思っていたが、そうではないらしい。

ある方の手記では、グラマンが飛んできて予科練に爆弾を落としていったとありますが、この時爆弾を投下したのはB-29です。同手記にはさらに「九島方面に機銃掃射をした」とありますので、あるいは12日に記録のある「機銃掃射」の事かもしれません。

この空襲が、最後の空襲となりました。玉音放送がある数日前まで悲惨な戦災が続いていた事は誠に慚愧に耐えません。





  

Posted by まーきみ。 at 00:13Comments(10)TrackBack(0)宇和島タイムスリップ
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まーきみ。
まーきみ。
宇和島市で気功と整体の手技を調和させたセラピーをしています。
< 2008年07>
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