2008年07月05日
宇和島タイムスリップ 宇和島空襲の謎
5月10日に朝日町、須賀通り、寿町に爆弾が投下され115人が亡くなった最初の空襲は、広島県の大竹精油所を目指していたが、何らかの事情でそれが出来なくなり宇和島に投下したものだと述べました。
その「何らかの事情」がエンジントラブルである可能性が推測される記録を見つけました。
「宇和島の空襲第9集」の中の宇和空甲飛14期Kさんの手記
「宇和島が初めて空爆にあった時、私は練兵場(予科練)の北東端の指揮所にいました。(中略)当日、配置についてしばらくすると『敵機、数機目標北上中』の連絡があり、班長が双眼鏡でジッと南の空を視ておられましたが『おい来たぞB-29の編隊だ』班長の言われる方向を見ると鬼ヶ城の南東方面だったでしょうか、肉眼でも編隊が見えはじめました(20機くらいだったと思います)『一機が編隊から離れて宇和島に来るぞ』 『4つのエンジン一つ故障かペラ一つ停まっているぞ』(中略)『おい!落すぞ弾倉を開いたぞ、アッ落とした、伏せえ!』班長の怒号に私たちは瞬時に地べたに伏せました。ザァザァ・・近くをまるで貨物列車が通る音。・・・後略

B-29はプロペラ4基

この爆撃による遺体は、宇和島町立商業学校に運ばれました。
(19年より造船科と航空科による県立宇和島工業学校となる)
3,4年生は学徒動員で留守になり、1,2年生のみ在校していました。
その当時から校庭が空襲を避けるための避難場所確保のために取り壊した建物の廃材置き場になっていて29日の校舎炎上に拍車をかけることになりました。
在校した1,2年生(現在の中学生と同じ年代)は憲兵の命令によりトラックで次々と運び込まれる爆死した人の遺体を運搬するよう命令されたと言います。
そして憲兵より「今日の事は総て極秘」と厳命され、家まで尾行されたとあります。
当時、最早無意味と思われる「軍の機密の遵守」が正確な空襲の記録が収集し難い原因になっているのでしょう。
日時は前後しますが、13回の空襲のうち、7月には7回と、最も多く集中しています、うち25日11時頃に、大浦の宇和島鉄工所に爆弾を落とした攻撃機はそれまでのB29ではなく、空母から飛来したB29より小型の艦載機であるということです。
B-29と並んで名前を知られる「グラマン」と言うのがこれにあたります。
B-29(搭乗11名)より小型(搭乗1名)で、小回りが利くそうで湾岸などの狭小な目標に向いているそうですが、B-29が主流だった宇和島の空襲には特異なケースであると言えます。
「ある町内会長の手記」より
午前5時過ぎ、またも小機の分散来襲始まる。警報引き切れず。午前10時50分、敵艦上機4機、急降下して機銃掃射をやる。朝日町方面に黒煙上がる
また、8月12日正午前に、機銃掃射があたっと記録にあります。
宇和島中学の在校生の手記では、日時はかいてありませんが、宇和島中学グラウンドにグラマン(艦載機)が校庭に機銃掃射したとあります。これがあるいは、12日の空襲かもしれません。
また、別の手記には「艦載機が機銃掃射、予科練に爆弾投下」と言うのもありましたが、予科練に爆弾を投下したのはB-29ですので、おそらく混同しているのかも知れません。
被災した主な場所は市誌では宇和島中央部と言う事ですが、下記の米軍の資料とは矛盾します。
13日と、29日の空襲の内容が錯綜
中小年で短期間に2回も大きな空襲を受けているので、どっちがどっちだか聞く人によって区々ですが、これは致し方の無い事でしょう。
「或る町内会長の手記」では29日の被災地は「本町、和霊町、鶴島町、朝日町」とあり、さらに13日の空襲は「火災は市の中央部から、南部東部へ燃え広がる。裁判所、赤松酒店、図書館、伊達家も焼失」とあり、その火災の分布に「宇和島市誌」と矛盾する点が見られます。
「米軍資料」と「或る町内会長の手記」と他の多くの手記から総合して、「宇和島市誌」は罹災場所について13日(市内北西部)と29日(市内中央部)が反対ではないかと言う疑問が生じます。
当時富沢町(現在・御徒町付近)の日本蚕糸鶴島工場にいた女子挺身隊(宇和島高等女学校)の方の手記では
29日の空襲で伊達家が燃えていて予科練生の消火活動を手伝ったとあります。
「戦後そこを通るたびに、あ、ここは私たちが消したのだと懐かしく思ったものです。今は新しく博物館が建っています。」
「ふと見ると、図書館の土蔵が焼け残り、あぁ良かったと思ったのに、後日扉を開けたら本は全部焼けてしまっていたとか」とあります。
推測ですが
1)米軍資料と町内会長の手記、他の方の手記は概ね被災場所について一致している。
2)女子挺身隊の方が、29日の空襲で伊達家が焼失したと言うのは、あるいは後日市誌の記録と照らし合わせた結果ではないか?
「国宝大手門」13日に焼失したと言う説と、29日という説もあるそうです。更なる資料の検討が要求されます。

米軍資料による13日と29日の被災地域
さらに、図書館に多くの資料を保存していた館長、兵頭賢一氏の手記でも伊達家と図書館の焼失は13日となっていて米軍資料を裏付けます。
裁判所、市立病院もこの時被災しました。この日、宮下、寄松、大浦、蛤、柿原なども被災したようです。
私が小学校低学年の頃、九島の親戚の家に遊びに行って叔父が「百ノ浦に観音様が出来た」というので見に行った覚えがあります。この観音様も戦災に遭った人々のために建立されたと言う事を知ったのはずっと後の事でした。

平和そのものの九島の風景。ここが空襲を受けて、小さな子供を含め何人も死んだなんて現在の人は信じるだろうか。
その「何らかの事情」がエンジントラブルである可能性が推測される記録を見つけました。
「宇和島の空襲第9集」の中の宇和空甲飛14期Kさんの手記
「宇和島が初めて空爆にあった時、私は練兵場(予科練)の北東端の指揮所にいました。(中略)当日、配置についてしばらくすると『敵機、数機目標北上中』の連絡があり、班長が双眼鏡でジッと南の空を視ておられましたが『おい来たぞB-29の編隊だ』班長の言われる方向を見ると鬼ヶ城の南東方面だったでしょうか、肉眼でも編隊が見えはじめました(20機くらいだったと思います)『一機が編隊から離れて宇和島に来るぞ』 『4つのエンジン一つ故障かペラ一つ停まっているぞ』(中略)『おい!落すぞ弾倉を開いたぞ、アッ落とした、伏せえ!』班長の怒号に私たちは瞬時に地べたに伏せました。ザァザァ・・近くをまるで貨物列車が通る音。・・・後略

B-29はプロペラ4基
この爆撃による遺体は、宇和島町立商業学校に運ばれました。
(19年より造船科と航空科による県立宇和島工業学校となる)
3,4年生は学徒動員で留守になり、1,2年生のみ在校していました。
その当時から校庭が空襲を避けるための避難場所確保のために取り壊した建物の廃材置き場になっていて29日の校舎炎上に拍車をかけることになりました。
在校した1,2年生(現在の中学生と同じ年代)は憲兵の命令によりトラックで次々と運び込まれる爆死した人の遺体を運搬するよう命令されたと言います。
そして憲兵より「今日の事は総て極秘」と厳命され、家まで尾行されたとあります。
当時、最早無意味と思われる「軍の機密の遵守」が正確な空襲の記録が収集し難い原因になっているのでしょう。
日時は前後しますが、13回の空襲のうち、7月には7回と、最も多く集中しています、うち25日11時頃に、大浦の宇和島鉄工所に爆弾を落とした攻撃機はそれまでのB29ではなく、空母から飛来したB29より小型の艦載機であるということです。
B-29と並んで名前を知られる「グラマン」と言うのがこれにあたります。
B-29(搭乗11名)より小型(搭乗1名)で、小回りが利くそうで湾岸などの狭小な目標に向いているそうですが、B-29が主流だった宇和島の空襲には特異なケースであると言えます。
「ある町内会長の手記」より
午前5時過ぎ、またも小機の分散来襲始まる。警報引き切れず。午前10時50分、敵艦上機4機、急降下して機銃掃射をやる。朝日町方面に黒煙上がる
また、8月12日正午前に、機銃掃射があたっと記録にあります。
宇和島中学の在校生の手記では、日時はかいてありませんが、宇和島中学グラウンドにグラマン(艦載機)が校庭に機銃掃射したとあります。これがあるいは、12日の空襲かもしれません。
また、別の手記には「艦載機が機銃掃射、予科練に爆弾投下」と言うのもありましたが、予科練に爆弾を投下したのはB-29ですので、おそらく混同しているのかも知れません。
被災した主な場所は市誌では宇和島中央部と言う事ですが、下記の米軍の資料とは矛盾します。
13日と、29日の空襲の内容が錯綜
中小年で短期間に2回も大きな空襲を受けているので、どっちがどっちだか聞く人によって区々ですが、これは致し方の無い事でしょう。
「或る町内会長の手記」では29日の被災地は「本町、和霊町、鶴島町、朝日町」とあり、さらに13日の空襲は「火災は市の中央部から、南部東部へ燃え広がる。裁判所、赤松酒店、図書館、伊達家も焼失」とあり、その火災の分布に「宇和島市誌」と矛盾する点が見られます。
「米軍資料」と「或る町内会長の手記」と他の多くの手記から総合して、「宇和島市誌」は罹災場所について13日(市内北西部)と29日(市内中央部)が反対ではないかと言う疑問が生じます。
当時富沢町(現在・御徒町付近)の日本蚕糸鶴島工場にいた女子挺身隊(宇和島高等女学校)の方の手記では
29日の空襲で伊達家が燃えていて予科練生の消火活動を手伝ったとあります。
「戦後そこを通るたびに、あ、ここは私たちが消したのだと懐かしく思ったものです。今は新しく博物館が建っています。」
「ふと見ると、図書館の土蔵が焼け残り、あぁ良かったと思ったのに、後日扉を開けたら本は全部焼けてしまっていたとか」とあります。
推測ですが
1)米軍資料と町内会長の手記、他の方の手記は概ね被災場所について一致している。
2)女子挺身隊の方が、29日の空襲で伊達家が焼失したと言うのは、あるいは後日市誌の記録と照らし合わせた結果ではないか?
「国宝大手門」13日に焼失したと言う説と、29日という説もあるそうです。更なる資料の検討が要求されます。

米軍資料による13日と29日の被災地域
さらに、図書館に多くの資料を保存していた館長、兵頭賢一氏の手記でも伊達家と図書館の焼失は13日となっていて米軍資料を裏付けます。
裁判所、市立病院もこの時被災しました。この日、宮下、寄松、大浦、蛤、柿原なども被災したようです。
私が小学校低学年の頃、九島の親戚の家に遊びに行って叔父が「百ノ浦に観音様が出来た」というので見に行った覚えがあります。この観音様も戦災に遭った人々のために建立されたと言う事を知ったのはずっと後の事でした。
平和そのものの九島の風景。ここが空襲を受けて、小さな子供を含め何人も死んだなんて現在の人は信じるだろうか。


