2008年07月31日
風雲児たち 大浦小学校の橋
江戸時代中期、田沼意次が権勢を誇った時代に蘭学は全盛を極め、彼の「解体新書」が発刊されました。
この解体新書についての苦労話が後世に伝わっているのは、そのプロジェクトに従事した杉田玄白が晩年に手記を残し、明治になってその存在を知った福沢諭吉が、自藩の先覚者「前野良沢」の偉業を知って感動し、「蘭学事始」と言う本に纏めた事で江戸時代の蘭学者の偉業を広く世に知らしめる事となったのです。
もし「蘭学事始」が後世に残らなかったら「解体新書」も歴史の渦の中に消えていたかもしれません。
それだけに「歴史を後世に残す」と言う作業は、歴史そのものと同じくらい重要であると言えます。
いつもながら、マエフリが長くなった。
「解体新書」より「買いたい新車」の今日この頃、まーきみです。

この橋の向こうにかつて「住吉小学校」の前身があった。
宇和島市の学校は明治、大正、昭和と幾多の変遷を経てその経緯を知る人は平成の時代にはだんだん少なくなりました。
昔、私の近所の人たちが通ったはずの九島尋常小学校坂下津分校はもとより、清渓中学校なども何処にあったのか知る人も少なくなりました。
この大浦にあった学校も年を経れば知る人も居なくなったかもしれません。
住吉小学校の前身「宇和島市立第五尋常高等小学校」がかつて、大浦の天満神社の近くにあることを古い地図で見て現場行ってみました。
すると・・・


『大浦尋常小学校創立の地』大浦尋常小学校記念碑建設委員会 (サムネイル)
住吉小学校の創立100周年を記念して作られたようです。
何か学校があったことを示す物があるのではないかと期待していましたが、ちゃんと立派なものがありました。
驚きと感動を禁じえません。
明治7~9年頃 1877年4月 - 大浦合浦小学校を創立したのがこの学校の初めですが、
大浦尋常小学校と改称した明治25年を学校創立の年と定めたようです。

新築なった「大浦尋常小学校」の校舎 明治41年頃 広見川に橋はまだない。
小学校が現在の地に移転したのは昭和12年ですから、この記念碑を作ろうとしたのは、そのあたりの卒業生の方々でしょうか。
関係者に呼びかけ、石碑を建てるということはかなり困難な事業であったのではないかと推察されますが、おかげさまで私のような門外漢でも住吉小学校の歴史を知ることが出来ました。

大浦湾に流れる広見川

この上流右岸(向かって左側)の山のふもとに小学校があった。

河口から2番目の橋 下流側の橋脚と桁は石だが

上流側はコンクリートだ
これは従前の橋(石橋)の横に新たに橋を作って幅を広げたものだろう。
年を経て道路拡幅のため橋の幅を広げるとき、工法の進歩で構造が左右違うことは意外に多い。
(例 国道一号線 名古屋市熱田区 白鳥橋など)

その上流の小学校に向かう道にかかる『天神橋』 これは車は通れないほどの幅員 かなり古そう

石碑が建っている

正面から 「天神橋」の文字が見える 側面に大正7年
この橋は役所が作ったではなく、大浦部落内でお金や労働力を提供して作ったようだ。
本来の公共工事は、このような形態で行われていたのでしょうか。
さらに進むと

堀のような水路に小さな橋が

天満橋 大正6年
天神と天満とは同じ意味なので、天満神社に参詣するための橋であると同時に小学校に通うための橋でもあったのだろうか。
。

この水路は、前述の明治時代の写真で見えるように、水田だった頃の名残でしょうか?

天満神社の前方付近にかつて小学校があった。
昭和12年に現在地の住吉小学校に移転
私はかつて学校のあった位置に石碑などが残っているのは、この大浦尋常小学校と新市立病院にあった宇和島高等女学校、吉田小学校を確認している。
少子高齢化の現在、宇和島市でも新たな小中学校の統廃合が検討されている。
移転、廃校になった学校は、幾年月の間にそれが在った事さえも忘れ去られてしまう。
われわれに今、出来ることは何だろう。
以下余談
ブログの冒頭に「蘭学事始」をマクラとして引用した。
「解体新書」を翻訳した功績者と言えば「杉田玄白」「前野良沢」の名前が挙げられる。
しかし、解体新書には前野良沢の名前はない。
完全主義者の良沢は、まだ不完全であった解体新書の発刊を最後まで反対した。
杉田玄白はやがて来る「寛政異学の禁」を見越して、自分たちに理解のある幕府の実力者田沼意次の権勢のあるうちに発刊して既成事実を作って置きたかった。
玄白の説得に折れた良沢は解体新書の発刊は認めたものの、自分の名前を出すことを拒んだ。
せめて序文でも書いてほしいと言う玄白の懇願に良沢はこう答えたと言う。
「いや、拙者かつて九州を歴遊いたした折、太宰府の天満宮へ参詣いたした節、かように申して起誓したことがござる。良沢が蘭学に志を立て申したは、真の道理を究めようためで、名聞(みょうもん)利益のためではござらぬゆえ、この学問の成就するよう冥護を垂れたまえと、かように祈り申したのじゃ。この誓いにも背き申すゆえ、序文の儀は平に許させられい!」
かつて、天神小学校があった山上にも天満神社が祭られている。(天満山と言う)
学問の神様の近くに学校を持ってくると言うのは理にかなった考え方であったのだろう
天満宮の前で学び、育った子供たちは単に学問を知識としてだけでなく、自らの人格向上に資するを第一と考えるようにというのが、当時の親たちの考えであったのだろうか。

この解体新書についての苦労話が後世に伝わっているのは、そのプロジェクトに従事した杉田玄白が晩年に手記を残し、明治になってその存在を知った福沢諭吉が、自藩の先覚者「前野良沢」の偉業を知って感動し、「蘭学事始」と言う本に纏めた事で江戸時代の蘭学者の偉業を広く世に知らしめる事となったのです。
もし「蘭学事始」が後世に残らなかったら「解体新書」も歴史の渦の中に消えていたかもしれません。
それだけに「歴史を後世に残す」と言う作業は、歴史そのものと同じくらい重要であると言えます。
いつもながら、マエフリが長くなった。
「解体新書」より「買いたい新車」の今日この頃、まーきみです。


この橋の向こうにかつて「住吉小学校」の前身があった。
宇和島市の学校は明治、大正、昭和と幾多の変遷を経てその経緯を知る人は平成の時代にはだんだん少なくなりました。
昔、私の近所の人たちが通ったはずの九島尋常小学校坂下津分校はもとより、清渓中学校なども何処にあったのか知る人も少なくなりました。
この大浦にあった学校も年を経れば知る人も居なくなったかもしれません。
住吉小学校の前身「宇和島市立第五尋常高等小学校」がかつて、大浦の天満神社の近くにあることを古い地図で見て現場行ってみました。
すると・・・


『大浦尋常小学校創立の地』大浦尋常小学校記念碑建設委員会 (サムネイル)
住吉小学校の創立100周年を記念して作られたようです。
何か学校があったことを示す物があるのではないかと期待していましたが、ちゃんと立派なものがありました。
驚きと感動を禁じえません。
明治7~9年頃 1877年4月 - 大浦合浦小学校を創立したのがこの学校の初めですが、
大浦尋常小学校と改称した明治25年を学校創立の年と定めたようです。

新築なった「大浦尋常小学校」の校舎 明治41年頃 広見川に橋はまだない。
小学校が現在の地に移転したのは昭和12年ですから、この記念碑を作ろうとしたのは、そのあたりの卒業生の方々でしょうか。
関係者に呼びかけ、石碑を建てるということはかなり困難な事業であったのではないかと推察されますが、おかげさまで私のような門外漢でも住吉小学校の歴史を知ることが出来ました。

大浦湾に流れる広見川

この上流右岸(向かって左側)の山のふもとに小学校があった。

河口から2番目の橋 下流側の橋脚と桁は石だが

上流側はコンクリートだ

これは従前の橋(石橋)の横に新たに橋を作って幅を広げたものだろう。
年を経て道路拡幅のため橋の幅を広げるとき、工法の進歩で構造が左右違うことは意外に多い。
(例 国道一号線 名古屋市熱田区 白鳥橋など)

その上流の小学校に向かう道にかかる『天神橋』 これは車は通れないほどの幅員 かなり古そう

石碑が建っている


正面から 「天神橋」の文字が見える 側面に大正7年
この橋は役所が作ったではなく、大浦部落内でお金や労働力を提供して作ったようだ。
本来の公共工事は、このような形態で行われていたのでしょうか。
さらに進むと

堀のような水路に小さな橋が

天満橋 大正6年
天神と天満とは同じ意味なので、天満神社に参詣するための橋であると同時に小学校に通うための橋でもあったのだろうか。
。

この水路は、前述の明治時代の写真で見えるように、水田だった頃の名残でしょうか?

天満神社の前方付近にかつて小学校があった。
昭和12年に現在地の住吉小学校に移転
私はかつて学校のあった位置に石碑などが残っているのは、この大浦尋常小学校と新市立病院にあった宇和島高等女学校、吉田小学校を確認している。
少子高齢化の現在、宇和島市でも新たな小中学校の統廃合が検討されている。
移転、廃校になった学校は、幾年月の間にそれが在った事さえも忘れ去られてしまう。
われわれに今、出来ることは何だろう。
以下余談
ブログの冒頭に「蘭学事始」をマクラとして引用した。
「解体新書」を翻訳した功績者と言えば「杉田玄白」「前野良沢」の名前が挙げられる。
しかし、解体新書には前野良沢の名前はない。
完全主義者の良沢は、まだ不完全であった解体新書の発刊を最後まで反対した。
杉田玄白はやがて来る「寛政異学の禁」を見越して、自分たちに理解のある幕府の実力者田沼意次の権勢のあるうちに発刊して既成事実を作って置きたかった。
玄白の説得に折れた良沢は解体新書の発刊は認めたものの、自分の名前を出すことを拒んだ。
せめて序文でも書いてほしいと言う玄白の懇願に良沢はこう答えたと言う。
「いや、拙者かつて九州を歴遊いたした折、太宰府の天満宮へ参詣いたした節、かように申して起誓したことがござる。良沢が蘭学に志を立て申したは、真の道理を究めようためで、名聞(みょうもん)利益のためではござらぬゆえ、この学問の成就するよう冥護を垂れたまえと、かように祈り申したのじゃ。この誓いにも背き申すゆえ、序文の儀は平に許させられい!」
かつて、天神小学校があった山上にも天満神社が祭られている。(天満山と言う)
学問の神様の近くに学校を持ってくると言うのは理にかなった考え方であったのだろう
天満宮の前で学び、育った子供たちは単に学問を知識としてだけでなく、自らの人格向上に資するを第一と考えるようにというのが、当時の親たちの考えであったのだろうか。

2008年07月30日
長洲園地

長洲園地は、旧御荘町の国道から、1キロ足らずの山添にある自然豊かな庭園です。
2年前まで、仕事でよく行っていました。
今日は電話で久々に仕事の依頼があったので是非ここを見たいと思って楽しみにして出かけました。

4が長洲園地 1が国道56号線との交差点(案内看板あり)
戦前は国道付近まで、海岸線が迫っていたと言う。
2の橋から撮影

上流方面 背割堤で分かれる川 左が長洲川本流で、右が長洲園地から流れてくる支流です。

下流(国道)方面 左右の山の間に細長く川原があったので「長洲」と名付けたのだろう。
3から

車の前方の細長い道が長洲園地へ行く道

車より左方 長洲川本流方面

見えてきた。

桜のシーズンには大変賑わいます。(水洗トイレあり)

東屋から

なんとなく、アンバランスと思われるモニュメントだ。

川は園地の池を経由して、冒頭の背割堤で長洲川に合流します。

さて、顧客様の家に到着 ここも田園の中です。
この車も、和霊さまのお祭り後には新車に替わる予定です。

さて、仕事の準備

その後、今日も鹿島の見える町へ移動です。
暑い一日はまだまだ続く。
7月22日撮影
2008年07月29日
きまぐれな彼女

きまぐれ土曜市
松山総合コミュニティーセンター
7月19日(土)開催されました。

主催者の松井さんです。
スタッフの方々と共に、我々参加者のために奮闘されています。
エ~~ふぅんとぉ~~
と、言うわけで取材させていただきます。

ブースを一つずつ尋ねながら、お話をしたり写真を撮ったり。

あ!木もれ日庵さんみっけ!


すかさずパチリ


こちらのお店も

メモを片手に取材でしょうか。

吹き出る汗を払いながら。。。

談笑

この日取材に来ていたクルーと打ち合わせ?



この日取材をされた竹工芸の作品 まるで生きててそのまま動くようだ!


我々の知らないところで、いろいろと気配り

目配り

アイス配り



あ!わたしにも! なんていってるひとは・・・


そんな松井さんをスケッチ?

さわやかな音楽を皆様にお届けする決め細やかな演出も
演奏者&ヴォーカルの皆様ありがとうございました。

おかげさまで、本日も無事終了!
来月もよろしくお願いします。
きまぐれ土曜市
来月の開催は
8月9日(土)
今回は、第二土曜日です。お間違えない様に

松山コミセンで会いましょう!
タグ :きまぐれ土曜市
2008年07月28日
内泊の鯨塚

美しい海辺が続く、旧西海町西浦地区内泊

小学校も海辺にあります。

愛南町立西浦小学校

先生がグラウンド整備をしていた。(5月撮影)
入り口の県道沿いに「飛揚鯨の塚」がありました。

海難事故の慰霊碑の右側

塚は二基
右は「鯨飛揚之塚」
左は「鯨之塚」

写真では良く見えないが明治15年とある。

明治庚子(かのえのね)は明治33年になる。
見た目は右のほうが綺麗で新しく見えたが、年代を調べると意外にも18年古い。
左側のほうが苔むして古く見えるのは、右の石が花崗岩で、左が砂岩だから。
今まで古い石碑を色々見てきたが、花崗岩は少なかった。
石の専門家で無いので詳しい事が分からないが、この時期花崗岩は珍しかったのではないだろうか?

内泊浦の文字が見える
愛南町のホームページに詳しく書かれている。
鯨塚は鯨墓と言われるように偶然浜に打ちあがった鯨を捕獲し、その供養のために建立されたものと聞く。
鯨が捕れたら七浦潤うと言われたように、ものすごい収入になった事と思われる。
藩政時代は、そのような場合の地元と藩の取り分も決められていたらしい。

このあたりに鯨が来たのだろうか?

それより船越寄りの道路沿いに、こんな石碑が

文字が滲んで判読困難だが、かつてこの地にあった「船越ばなの松」と親しまれた松の木が枯れてその縁に建立された道祖神のようだ。
裏面に5名の有志の名前がある。
森羅万象すべてを敬おうとした人々の気持ちが読み取れる。

取って返して「鹿島渡し」
海開きが終わり、海水浴客が多くなった。

時刻表 渡るだけなら往復で530円

そうかいな。

海水浴客を乗せて鹿島に向かうガイヤナ
今年は行ってみよう。
2008年07月28日
巨匠誕生!
きまぐれ土曜市
松山コミュニティーセンター
7月19日開催

きまぐれ仲間からキミコに暑中見舞いのはがきが届いた。
宇和島の「楽市楽座」にも出展してた墨絵アート?



となりのおねえさんが習字を
白と黒とのコンタクトストライト
じゃなかった・・・えええと

とにかく、自由自在に囚われず表現する事が大切(らしい)

こんなんできましたー

らく~~~

さらにみんなが集まってきました。

「ありがとう」の言葉をいただきました。

おねえさん(巨匠)がさらに力作に挑戦!
詳しくは↓の動画で!
http://www.youtube.com/watch?v=hPq1gc4nPy4
もう、巨匠の誕生といってもいいだろう。
しかし、おいらも小学校の頃こんなに声援されながら書いたら、もっと字が上手になってたかも
きまぐれ土曜市来月の開催は例外的に
第二土曜日になります。
8月9日(土)
松山コミュニティーセンター
7月19日開催

きまぐれ仲間からキミコに暑中見舞いのはがきが届いた。

宇和島の「楽市楽座」にも出展してた墨絵アート?



となりのおねえさんが習字を

白と黒とのコンタクトストライト
じゃなかった・・・えええと


とにかく、自由自在に囚われず表現する事が大切(らしい)

こんなんできましたー


らく~~~


さらにみんなが集まってきました。

「ありがとう」の言葉をいただきました。


おねえさん(巨匠)がさらに力作に挑戦!
詳しくは↓の動画で!
http://www.youtube.com/watch?v=hPq1gc4nPy4
もう、巨匠の誕生といってもいいだろう。

しかし、おいらも小学校の頃こんなに声援されながら書いたら、もっと字が上手になってたかも

きまぐれ土曜市来月の開催は例外的に
第二土曜日になります。
8月9日(土)
タグ :きまぐれ土曜市
2008年07月27日
八幡様のイブキ

河原のほとりに立つ八幡様の鳥居

八幡神社々殿前にあるイブキ 国指定天然記念物
このイブキは源義経が植えたと伝えられている。
樹齢約800年 ムササビが居て被害を及ぼすらしい「宇和島の自然と文化」(宇和島文化協会発行)より


一対の狛犬に書かれた文字は


宇和島市制を記念して奉納された。日付は合併成った大正10年(西暦1921年)8月1日
故に今年は市制を敷いて87年
これは試験に出ますよ(何の?)


八幡様の氏子は、旧八幡村だけではなく、舟大工町や恵美須町も含まれていた。
戎の字が、戒になってる?

この槙本源造という人は宇和島が町制を敷いたときの初代の町会議員の一人
(宇和島の明治大正史)によると
当時は誰も議員になりたいという人は居なかった。できれば御免蒙りたいと思う人ばかりであった。
仕方ないので各々の町内で協議会を開き、適当と思われる人を無理やり担ぎ出す。
従って選挙運動などはする必要は全くなかった。
上記の槙本氏は生涯議員嫌いで通した人で、ある選挙時期に、逃げて旅行に行ったが帰ってきてみるとちゃんと当選していたという挿話が残っている。
当初は無報酬であったが、2代目町長のとき「歳費を払ってはどうか」と提案したとき槙本氏は「議員をやめさせてくれるのなら逆に町に寄付をしても良い」と言い出す始末であったらしい。
それでも彼は、宇和島町と八幡村の合併委員に名を連ねている。
議員は嫌いでも、宇和島市への功績は大なるものがあったのだろう。

境内にある「八万橋」の親柱 いつのものか?

これが現在の八幡橋

須賀川下流 JRの鉄橋の向こうで須賀川は高串川と合流する。

和霊町あたり 小さな川が合流してる。

その川の少し上流の橋 反対側の親が撤去されているので年代が判らない


古川橋 味わいのある文字だ。 「は」と「し」の文字を混成している。
「わ」のような曲線のある文字は、描きにくいせいか、変形してる文字が多い。

和霊神社前の川底になにやら?
走りこみのときの竹を指す穴か。清掃した後なのでよく見えている。

もっと下流 須賀通りあたり 魚を取る人が
ここは海
造船所のレールが古びている

歴史をたどれば、限のない町宇和島。
2008年07月26日
シャツのほころび涙のかけら
あ~ほんとにひさしぶりの ゆうやけがきれいです

御荘湾に落ちる夕焼け

帰りを急ぐ高校生か やんちゃ坊主の時期は過ぎて

この界隈に夕日が落ちる。
大規模な河川改修を施さなかったためか、水も地形も美しい。

赤ん坊を乗せた婦人が
「ここより、上流のほうがきれいかもね?」とわざわざ教えてくれて
せわしなく立ち去りました。 これから洗濯物を取り込むのだろう。

洲に繁茂する植物も、自然のままで魚などのよい住処になっているだろう。

国道と八幡神社方面 子供たちが家路を急ぐ。

子供は好きよと言った君の
やさしさがゆれています。
本当にひさしぶりの
夕焼けがきれいです。

御荘湾に隣接する湿地帯
昼間は水鳥が遊ぶ。
小さな電球だけにしたような風景

おなじみの大島様 長崎から見た風景

由良岬方面に沈む夕日
寂しそうねと言った後の、君のほうが寂しそうです。
もののあはれを感じるねぇ


おまけ
田舎の堤防の夕暮れ時

2008年07月26日
時間をはずしたお祭り
皆様、明けましておめでとうございます。
どうぞ今年もよろしくお願いします。
なにおおっしゃるウサギさん!
まーきみ。。。。。。。ついに・・・・・・・
いえいえ、今日を本当のお正月として暮らしている人が世界には大勢居るのですよ。

13の月の暦
マヤでは天体観測に優れ大昔から一年は365,2420日と知っていたそうです。
それを純粋な月の起動周期である28日で割ると、13とあまり1日、そしてあまった一日を、旧年と新年の間に「時間をはずした日」としてお祭りをする習慣があったのです。
その日は7月25日 和霊大祭の次の日になります。
8年前、ふとしたきっかけから全国的に「時間をはずした日」のお祭りがあり、高知の東津野村で開催されたお祭りに参加したことがありました。

時間をはずしたお祭り風景 持ち寄りの料理は、ずばり「じゃこてん」

なぜか太極拳を指導する(若き日の)キミコ これも時間をはずしたお祭りか
写真は8年前の7月25日のものです。
皆さん、初対面なのにすぐに打ち解けました。
長いこと会ってないけどみんな元気かな。
どうぞ今年もよろしくお願いします。
なにおおっしゃるウサギさん!
まーきみ。。。。。。。ついに・・・・・・・
いえいえ、今日を本当のお正月として暮らしている人が世界には大勢居るのですよ。
13の月の暦
マヤでは天体観測に優れ大昔から一年は365,2420日と知っていたそうです。
それを純粋な月の起動周期である28日で割ると、13とあまり1日、そしてあまった一日を、旧年と新年の間に「時間をはずした日」としてお祭りをする習慣があったのです。
その日は7月25日 和霊大祭の次の日になります。
8年前、ふとしたきっかけから全国的に「時間をはずした日」のお祭りがあり、高知の東津野村で開催されたお祭りに参加したことがありました。

時間をはずしたお祭り風景 持ち寄りの料理は、ずばり「じゃこてん」

なぜか太極拳を指導する(若き日の)キミコ これも時間をはずしたお祭りか
写真は8年前の7月25日のものです。
皆さん、初対面なのにすぐに打ち解けました。
長いこと会ってないけどみんな元気かな。
2008年07月25日
原油高?
いつも先見の明があるまーきみ。は、原油高で四苦八苦の各業界を尻目に、それを逆手にとって今日も大儲けをしています。
まー、いわゆる、逆転の発想やね。

早朝から人目を忍んでブツを車に積み込む。
〇徳商〇 まーきみ。
高校野球の名門校のようだ。

着いたところは市内某所の商店
密かに順番を待つ。

今だ、チャンスだ!
真空飛び膝蹴り!


半年間の古新聞と牛乳パックを売った計算書

なんと、半年前と買取値が倍額になってる!
それにしても、こんな所からも原油高、各資源価格高騰の実情を知りました。
ニューヨーク原油は7月15日に1バレル=147・27ドルをつけ、最高値を更新したが翌日から反落、24日には124.44ドルと、終値ベースで6月4日以来の安値となった。
当日開催されたうわじま牛鬼祭りの神通力があったと地元宇和島では専らの噂が流れているかどうかは定かでない。
まー、いわゆる、逆転の発想やね。

早朝から人目を忍んでブツを車に積み込む。
〇徳商〇 まーきみ。

高校野球の名門校のようだ。

着いたところは市内某所の商店
密かに順番を待つ。

今だ、チャンスだ!
真空飛び膝蹴り!


半年間の古新聞と牛乳パックを売った計算書

なんと、半年前と買取値が倍額になってる!

それにしても、こんな所からも原油高、各資源価格高騰の実情を知りました。
ニューヨーク原油は7月15日に1バレル=147・27ドルをつけ、最高値を更新したが翌日から反落、24日には124.44ドルと、終値ベースで6月4日以来の安値となった。
当日開催されたうわじま牛鬼祭りの神通力があったと地元宇和島では専らの噂が流れているかどうかは定かでない。
2008年07月25日
宇和島鉄道の夜明 2 河原の石

線路を横断する鉄橋から見た宇和島駅 宇和島駅が当初の和霊町(現・城北中学校)から現代の位置に移転したのは大正5年。
尤も当時は国鉄ではなく「私鉄宇和島鉄道」であった。軽便鉄道で軌間(線路の巾)762mmで国鉄の規格である1067mmに変更工事が行われたのは、国鉄に買収された昭和8年以後のことである。
その後、国鉄は四国循環鉄道を敷設すべく計画し、地元も誘致に懸命に運動したのだが、その路線選定に紆余曲折があって予讃線が開通する最後の区間八幡浜ー卯之町間が開通し、西宇和郡双岩小学校で開通式が挙行されたのはたのは終戦間近の20年6月の事であった。
話は変わって

伊吹町の八幡川原

須賀川の右岸に建立された安藤継明忠死の碑 伊達宗彰氏揮毫

後方の古い石碑は字が読めないほど風化している 元吉田町長 清家吉次郎撰文の文字が見える。
寛政5年(1793年)2月12日、山間部の特産である紙の専売制反対と藩政の改革を掲げ、日吉村を中心とした吉田藩の百姓8000人(83ヵ村中80ヵ村)が蜂起し、宗家である宇和島藩の八幡河原に集結した。
一揆の収拾に苦慮した吉田藩家老安藤継明は14日に一揆勢の前で割腹。安藤の至誠に打たれた一揆勢は宗家宇和島藩の仲介もあって帰村。要求のほとんどは認められる事になる。
ご存知「武左衛門一揆」の顛末である。
ちなみに吉田の夏祭りは彼を祭った安藤神社の祭礼だ。
さて、この河原で戦時中、宇和島市長や助役を初め宇和島市民が挙ってこの河原に集結しました。
その様はまさに
「昭和の百姓一揆」

戦時中にこの河原に市民が集結した。
昭和8年に私鉄宇和島鉄道を買収した国鉄ですが、その後の四国循環鉄道は遅々として進みません。
それは路線選定に対して地元や国の意見がまとまらない事が最大の要因でした。
第104号路線
大洲ー宮之下ー近永ー江川崎ー須崎
(宇和島線は支線となる)
第103号路線
大洲ー八幡浜ー宇和町ー三間ー宇和島ー南宇和郡ー宿毛ー中村
当時の考えとして船舶の航行する海岸部より寧ろ交通不便な山間部こそ汽車を通すべきと言う考えが主流でしたし、また技術的にも法華津峠の勾配は汽車が走るにはきつすぎて結果、104号路線が有望で、国鉄もその計画で進めていたのですがなぜか実現したのは第103号線の計画に沿った現代の予讃線でした。
「村山豊次郎傅」にはその決定を「木の葉が沈んで小石が流れる以上の奇怪事」と表現しています。
昭和18年9月に着工したのですが、当時は戦時中。サイパン、グアム島守備隊が玉砕し、ここを拠点としたB-29の空襲が始まった時期です。
上田市長は国の鉄道建設に協力すべく地元選出国会議員と図って鉄材、人材の供出を呼びかけました。
一番必要な鉄材(レール)は、新設なった宇和島ー吉野生間の鉄道のレールを流用する事を計画しましたが当然ながら鬼北地方の住民に大反対に遭いました。
苦慮した上田市長は松山の伊予鉄道に赴き「松山ー高浜間の複線を単線にして、残るレールを払い下げて欲しい」と交渉しました。
上田市長と予てから親交のあった伊予鉄道の太宰社長はさすがに難色を示しましたが「国防上にも軍事的にも緊要な路線である」と言う戦時下の要求と福本知事の応援もあってこれを了承しました。
鉄材の確保が決まれば次は人材の確保です。
宇和島近辺のみならず、東、西、北の宇和三郡の男女青年団を中心に「速成同盟」を組織し突貫工事に従事しました。
遠くは西宇和郡の三崎半島の遠隔の地からも団体で参加したと言う事です。
前述の如く、宇和島の八幡河原には市長、助役、市会議員を初め各区民が順番で集まり砂利を採取して北宇和島駅まで運びさらに鉄道で工事現場に輸送しました。
勤労奉仕が当たり前の戦時下とは言え、血の滲むような努力で工事が竣功するのには実に3年の年月を要しました。
官民協力して鉄道の建設のために働く地元住民の姿を、かつてこの地で切腹して果てた安藤継明の霊はどのように眺めたのでしょうか。
その後の空襲で宇和島駅舎は消失しましたが鉄道は残りました。
戦後も工事に協力した住民各位は、汽車に乗るたびにかつてこの地にこだました工事の響きを懐かしくも誇らしく思い浮かべた事でしょう。
「僕もうあんな大きな暗(やみ)の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」
カムパネルラは俄(にわ)かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫(さけ)びました。
ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかりどうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。何とも云えずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向うの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕(うで)を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」
ジョバンニが斯(こ)う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座(すわ)っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。
宮沢賢治 『銀河鉄道の夜』

宇和島駅機関区 木製の電柱が往時を偲ぶ縁か
一次資料
「宇和島の明治大正史」津村寿男
「村山豊次郎傅」井上雄馬
2008年07月24日
祭りの衣装 奥ゆかしい彼
今夜は私もお祭りに馳せ参じます。
と言っても、おそらく皆様にお会いする事はないでしょう。
目立たずひっそりと、縁の下のドル箱欲しい
奥ゆかしい私にはぴったしの役柄
ちなみにこの服は夏冬兼用
あつくていけんよぉ
タグ :奥ゆかしい彼
2008年07月24日
宇和島鉄道の夜明 1

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。
僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」
カムパネルラの眼にはきれいな涙(なみだ)がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」
(宮沢賢治著 『銀河鉄道の夜』より)

駅を出る私鉄宇和島鉄道
私鉄宇和島鉄道の設立を最初に呼びかけたのは好藤村(旧広見町)の今西幹一郎で、明治37~8年の事でした。
宇和島のように航路が開けている海辺の町より、船が行く事のできない山間の町のほうにこそ鉄道が必要だと言う考えが当時の常識で、現在の鬼北地方から鉄道建設の声が上がったのは当然の事であったのでしょう。
国任せでは中々鉄道を敷くことができないと思った彼らは、
「国がやってくれんのやったら、自分らでやったらええわい!」と奮い立ちました。
現代では想像も付かない大きなエネルギーが、人々の中に燃え滾っていた時代。
それはあたかも機関車の釜の中で赤々と燃える石炭の炎のように力強かった事でしょう。

私鉄宇和島鉄道開通式 大正3年 宇和島ー近永 所要時間 1:40 運賃 大人二十九銭
社長 井上角五郎(広島)
副社長 今西幹一郎(好藤村)
専務 河野虎尾(好藤村)
取締役 井上要 玉井安蔵(愛治村) 石崎忠八(宇和島町) 小西荘三郎(岩松町)
その宇和島鉄道の名前が残っている唯一の「鉄道遺産」があると聞いて、松野町吉野へ行ってきました。

車を停めて、いざ出発 このあたりがかつて宇和島鉄道吉野駅があったあたりか?

なんか書いてある?

えええええー

ちがいますぅーーーー

「おもしろ看板」決定


しかし、元公園らしい樹林はいくつもあるけど、発見には至りません。
あきらめて帰ろうとしたら一台の車が通りかかり、声をかけて中のご婦人に聞いたら、親切に車を降りて教えてくれました。


ありがとうございますー

感謝で見送るまーきみ。

美しい田園風景

この池が目印らしい

おや? あれか?

あった!

「文殊公園」の石碑

大正13年の竣工
宇和島運輸の堀部彦次郎が宇和島鉄道会社2代目社長に就任し、駅を当初の和霊町(城北中学校あたり)から鶴島町(現在のJR宇和島駅)に移転し、資本を増額して近永から吉野まで伸延。
同時に「文殊公園」を整備し行楽客を誘致した。
明治43年、沿岸航路の運行に着手した宇和島運輸が板嶋丸を建造、赤松遊園地を整備し同船を就航させ好評を博したのと同じ手法である。
後年同路線の国鉄への発展的買収を成し遂げるのにも有利に運んだ一因になった思われる。
「財界に堀部あり、政界に山村あり」
その堀部が死去し、あとを継いだ山村三代目社長(元市長)の活躍の話は後日に譲りたい。

敷地内には仏像が安置された文殊堂があり、それが公園名の由来となっています。
水の流れを組み込んだ庭園にはあじさいが数多く植えられており、花の頃には訪れる人々の目を楽しませてくれます
(松野町商工会)

この日は雨 紫陽花も名残の花を咲かせていた。

この古木も、悠久の歴史を見てきたのだろう。

下の畑で農作業をしていたご婦人に話しかけると、手を休めてかつてはこのあたり一体が宇和島鉄道の敷地だと教えてくれた。

当時のホームの跡があると、わざわざ案内してくれた。
右手の更地は最近まで製材所があったそうな。

この勾配と、左手のコンクリート(指先)が当時のホームの名残らしい。


「昔はあのあたりに小さな劇場があったらしい」と説明してくれた。
このご婦人の記憶には無い昔らしい。
「時々宇和島鉄道の事を調べに来る人がいる」とのこと
態々の親切を謝し、家路に着く。

吉野駅跡の全景
このあたりはかつて吉野村と呼ばれたところ。
1889年(明治22年) - 町村制・市制施行時に、吉野(よしの)、蕨生(わらびお)、奥野川(おくのかわ)の3か村の合併により吉野生村となる。
1955年(昭和30年) - 松丸町との1町1村の合併により松野町となる。
一次資料
「宇和島の明治大正史」津村寿男
「村上豊次郎傅」井上雄馬
注 玉井安蔵は上記の資料では愛治村とあるが、株主名簿には「宇和島」とある。
2008年07月23日
花も嵐も 1

宇和島市津島町北灘地区
さて先日もブログを見て、整体に来てくださった方がいました。

その上、わざわざお菓子まで頂きました。
では、お客様のご協力にて・・・・

またかい!(゚Д゚)ノバシィィィィィィィィ

すんません・・また写真撮る前に食っちまいました。

有名なクリームイチゴ大福の敷紙と、これまた有名なお菓子「焼餅」の包装紙です。
津島町の有名なお菓子屋さん「保田家」
さすがに包装にも気品と風格を感じさせますね


施術の後 白熊の新聞記事に見入る顧客様
さて、津島の話題が出たところで思い出したのですが、先日お客様でやはり津島町嵐の出身の方に出会いました。

私は ある事情で「嵐」という地名を子供の頃から知っていました。
もしかしたら、45年前に既にここに立っていたかもしれないな!

下灘村 (愛媛県北宇和郡)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
下灘村(しもなだむら)は、1955年(昭和30年)まで愛媛県の北宇和郡にあった村であり、現在の宇和島市の最南の沿岸部に位置する漁村である。昭和の合併で、津島町となり、平成の合併で宇和島市となり、現在に至っている。

その嵐の方がおっしゃるには 「合併して津島町になるまでは、嵐に津島で一番大きな病院があった」 という事でした。
何時の頃からあったのかははっきりききませんでしたが、お話によると「小学校に行ってた昭和20年代に骨折の治療をしてもらった」との事。
場所は現在、漁協の倉庫になっているらしい。

信号を西に入ると橋がある。

嵐川 このあたりは埋立地らしい

下灘漁協 この建物の裏あたりか?

あの路地の向こうに青い屋根が見える


あそこだ


かなり広い 400~500坪くらいか? 聞いた話では、ここが病院だった場所だ。
かつて病院だったという名残は何も見当たらない。
戦前か戦後か分からないが、その時代に病院を建てるには今では予想できないくらいの苦労があったことと思われる。
昔々に大きな公共施設を作る場合、政治、経済に於いて偉い人が居たという事は簡単に想像できる事だが、歴史を調べていて感じたのはそれ以外に地元の人々に強い公共心があり、骨身を惜しまぬ協力があることが絶対不可欠だという事だ。
国や県に陳情してそれで終わりと言う現在とは違い、おそらく、当時の人々に話を聞けば現代人には想像が付かない「苦労話」とそれらを成し遂げた人々の胸に残った「郷土愛と誇り」を知る事ができるだろう。

病院跡の道を進むと嵐坂に向かう旧道になる。

嵐坂隧道に向かう国道56号線
微かに見える黄色い看板は、釣り人たちの間では有名な釣具店

この山道が嵐坂を越えて畑地に抜ける道だ
冬季には畑地から寒風が吹き抜けると言う坂
「嵐」と言う地名はそこから付いたものだろうか?
ため池や古い隧道もあるらしい。近いうちに踏査してみたいと思う。

旧道のひとつ 隧道はこの先か?
その先には「嵐浄水場」がある。

今は公園が平地されている。

水鳥が遊ぶ池 そこから嵐坂を臨む


この美しい公園も、様々なボランティア団体により維持管理されている。
「トレッキング・ザ・空海あいなん」 のルートの一つでもある。

美しい公園にたたずみ、暫し往時をしのぶ
2008年07月22日
白&オレンジの恋人たち
ガイヤのアップ一番乗り?

白いグループがやってきた。
紅一点はクッパ大王か?それともキノピオ?(謎)

よーい

スタート!
先は長いぞ!突っ走れ!
明日に向かって!

あ!思わずレッドゾーンを越えた!
それは、もう・・・
キミのハートに
ぱっしんぐ・おぶ・さいどらいん!
だぜーーーー!
単に、「勇み足」・・とも言う

マンダリンパイレーツは

愛媛カラーのオレンジ
姫たちが走り抜けた夏を忘れない!
白いグループがやってきた。
紅一点はクッパ大王か?それともキノピオ?(謎)
よーい
スタート!
先は長いぞ!突っ走れ!

明日に向かって!
あ!思わずレッドゾーンを越えた!

それは、もう・・・
キミのハートに
ぱっしんぐ・おぶ・さいどらいん!
だぜーーーー!
単に、「勇み足」・・とも言う

マンダリンパイレーツは
愛媛カラーのオレンジ
姫たちが走り抜けた夏を忘れない!
2008年07月22日
炎天下 きまぐれ土曜市

きまぐれ土曜市
7月19日開催

天窓のコミセンは夏は日差しが強いので、パラソルの花が咲いています。

テント設営も続々と
まるで気分はビーチサイド




キミコもちゃっかり・・・(注・木もれび庵さん所有)

「坊ちゃんキャンディー」を食べました。


あちらこちらにも

あ!気が付けばみんな食べてる。

このジュースでキャンディーを作ったらしい。一本百円。

今年初めて並んだメロンとスイカが夏らしい。


ベーグルを買おうと思ったら・・・

ベーグルやさんがおらんがな??

よ~くみたら。
あ!

なんて、しあわせそうな顔を・・・

(マッサージ 20分千円)
みなさん、暑い夏をめいっぱい楽しんでがんばっていました。
タグ :きまぐれ土曜市
2008年07月22日
吉田くんの町 海道を行く 4 大良の鼻
大良鼻に向かう途中、三浦半島方面が見える場所に来た。

右から「嘉島」「戸島」「三浦半島」 後ろに薄っすら見えるのが日振島か
今度は反対側が見える場所

九島 右側に野島と高島

堂崎(石応)と小高島

野島と高島
島々を、いつも見てるのと反対側から見るのって不思議な気がする。

スプリンクラーがあちこちにある。 南予用水事業か?
大良の鼻についた

人魚が見てるのは?

より近づいた野島、高島と

大良の鼻の小島? そんなのかんけいねー?

近づいてみる 上の道に上がってみよう

上から見たところ ここって見覚えがある。


潮が引いたら小島まで道ができる。 高校の遠足でそこまで渡ったことがある。
のどかな時代だった。。
しかし、ここまで歩いてきたのかあの頃は。
今なら車でも大変なのに
元気だったのね

帰りは運河から、赤い道を通って帰った。

帰りに見た貨物車?
このあたりにダムがあったはず
今度来てみよう。

著者近影

右から「嘉島」「戸島」「三浦半島」 後ろに薄っすら見えるのが日振島か
今度は反対側が見える場所

九島 右側に野島と高島

堂崎(石応)と小高島

野島と高島
島々を、いつも見てるのと反対側から見るのって不思議な気がする。

スプリンクラーがあちこちにある。 南予用水事業か?
大良の鼻についた

人魚が見てるのは?

より近づいた野島、高島と

大良の鼻の小島? そんなのかんけいねー?

近づいてみる 上の道に上がってみよう

上から見たところ ここって見覚えがある。

潮が引いたら小島まで道ができる。 高校の遠足でそこまで渡ったことがある。
のどかな時代だった。。
しかし、ここまで歩いてきたのかあの頃は。
今なら車でも大変なのに
元気だったのね


帰りは運河から、赤い道を通って帰った。

帰りに見た貨物車?
このあたりにダムがあったはず
今度来てみよう。

著者近影
2008年07月21日
こねこね亭 アゲイン
クラフトの里の蕎麦を食べに行った。

こねこね亭

メダカがおった。

まだお昼前だったので空いてた店内。

もりそばだと、生わさびを自分で擦る。 これがやりたい!

でも、定食だと生わさびは摺れないらしい。

月、木はどんぶりの日、 火・水・金は日替定食(どちらも850円)蕎麦湯つき。

そろそろ立て込んできた。 あれ?色紙が一杯あるぞ


多々良純のサインがあります。

多々良純はこんな人です。

続・大番より

満足の足取りのキミコ


シャーベットを食べる人が大勢。

これを食べなきゃ・・・

以下略・・・

さすがクラフトの里

中身の濃い飽きない場所です。

こねこね亭

メダカがおった。


まだお昼前だったので空いてた店内。

もりそばだと、生わさびを自分で擦る。 これがやりたい!


でも、定食だと生わさびは摺れないらしい。


月、木はどんぶりの日、 火・水・金は日替定食(どちらも850円)蕎麦湯つき。

そろそろ立て込んできた。 あれ?色紙が一杯あるぞ



多々良純のサインがあります。
多々良純はこんな人です。

続・大番より

満足の足取りのキミコ


シャーベットを食べる人が大勢。

これを食べなきゃ・・・

以下略・・・


さすがクラフトの里

中身の濃い飽きない場所です。
2008年07月20日
吉田くんの町 海道を行く3 奥南運河から大良鼻
奥南運河に着いた。



奥南運河
大正時代、地元出身の海運王山下亀三郎の寄付金により開削したもの。
山下亀三郎の銅像 (吉田町・横堀公園) と功績を記した石碑
ちなみに大正15年当時の奥南橋

灯台が見える。

北側に灯台が見える。

南側

海に臨む畑を降りれば

道があった。

海に降りる石段がある。

石段のそばに魚影が


ぎょえ~



これはチヌだな。
夏は~ちぃぬぅ~♪

セイ(亀の手)もいっぱい付いている。

あ!知らない間に 対岸にキミコが


子供の頃、ある冬に一家総出でここの魚(ホゴ)を根こそぎ釣ってしまったことがあるらしい。


灯台のふもと

運河と橋

明浜方面

あの壁面は、「はま湯」がある場所だ。

廃船がある。 もののあはれを感じる景色


のどかな風景 遠くに見えるのは嘉島か?

この漂流物は、船を陸揚げする時などの歯止めに使う楔だと思う。

運河を離れ、車を走らせて、岬の反対側から見たさっきの船
さて、大良鼻へ向かう、怪獣王子

2008年07月19日
吉田くんの里 海道を行く 2 立目、奥南編

ニナを捕ったが、小さかった。
立目から戎山が見える場所

その中にヤドカリがおった!


あ!あそこに人魚が!


大浦と九島の間に戎山が見えます。

キミコが何か珍しい花を見つけた


これはなんていう花だろう?

ツユクサ 英語で「君にあげる草」

雑草にまぎれて、サボテンが繁殖している。 誰かが捨てたのか?
ここは「冒険サボテン島」?

警察の水上パトロール
「そこの美男美女!止まりなさい!」
とは言われなかった。。。


奥南に向かいます。 「南君隧道」 JAのトンネルではない。


奥南保育園と奥南公民館

読みづらいけど昔、奥南中学校があった場所だろうか?
奥南村の時代

奥南小学校

消波堤に絵が描いてある。卒業記念か?
さらに進むと

奥南運河の橋が見えてきた。
2008年07月18日
世良公則とその時代 ’78
ある方から「あんたのバラードをユーチューブで拾って記事にしてみたら」と言われた。
それも面白いかも?とすぐ乗るまーきみ。
やっぱ
ロックンロールはノリがいちばんだぜぇぇぇぇぇぇぇ~~い。
何時からロックンローラーに・・・・・
http://jp.youtube.com/watch?v=IJyMLyW5sV8
あんたのバラード
私は、この曲は高校を卒業した1978年だと思っていたが意外にもその前年のリリースだった。
勘違いしたのは、紅白でこの歌を歌ったのが78年で、主にその年に流行ったからなのだろうと思う。
ちなみに「ロックが商業ペースに乗る事を証明した」のは彼らが最初で、78年のサザン・オールスターズのヒットに道をつける結果になった。
そういえば、最近テレビでよく見かける「迷い道」の渡辺真知子も77年のデビューだった。やはり78年の紅白にこの曲で出場している。
他に初出場で個人的に印象深いのは
平尾昌晃(4)・畑中葉子(初) カナダからの手紙
榊原郁恵(初) 夏のお嬢さん
庄野真代(初) 飛んでイスタンブール
サーカス(初) Mr.サマータイム
などなど、
現代でもカラオケで歌い継がれているスタンダードといっても過言ではない。
余談だがこの第29回NHK紅白歌合戦は、史上初めてレコード大賞を受賞しながら出場を辞退したピンクレディーが物議を醸した。
「普通の女の子に戻りたい」と言う名台詞を残してキャンディーズが引退したのもこの年だった。
私がなぜこの年のことを印象深く覚えているかというと、高校を卒業して愛知県のアイシン精機株式会社と言う自動車部品製造会社に就職、初めて暮らす異郷の地で耳にする音楽が、今まで以上に心に染みたからだと思う。
この年、何事においても消極的だった私が会社や寮の生活になじめず、だんだんと孤立感を深め、今思えば鬱寸前まで行って、自殺するまでは考えなかったがなんとなく「このままだと、生きてるのがいやになるのでは?」と言う訳の分からない不安にさいなまれる日が続いた。
仕事は昼勤、夜勤が週代わりで、夜勤の週は朝8時に終わって朝食をとり10時ごろ就寝、夕方6時前くらいに目を覚ます。
秋になって日照時間が短くなると、夕方目が覚めたらもうあたりが暗くなっていた・・そんな時狂おしいほど寂しい思いをした。
http://jp.youtube.com/watch?v=7H5555py7OA
森田童子の曲が身に染みるように感じたのもこの頃。
そんな年の暮れに労働組合の新入社員研修合宿の最終日、とあるアトラクションの時間に、やけくそでやったギャグが大うけに受けて、図らずも「最優秀賞?」を受賞した。
それまで目立たないキャラだったのに会社の構内を歩くと見知らぬ人からも声をかけられるようになり、何時しかさびしさや不安は消えていた。
愛媛県人会々長に担ぎ上げられて大弱りしたのもこの頃であった。
その頃の友人や先輩は結婚式にも遠路出席してくれた。今は皆、出世しているようだ。
ギャグは地球を救うとまでは言わないが、私が今日まで生きてこれたエネルギーの多くの部分を占めるのは間違いないかもしれない。
後年
現役当時は一番ヒットした曲でも5万枚しか売れなかったと言う超マイナーな森田童子の曲がテレビで流れて耳を疑った。
野島伸司プロデュースの「高校教師」の音楽に森田童子の数曲が使われたのである。
女房や子供に囲まれながらテレビから流れてくる童子の曲を聴きながら、往時の事を懐かしく思い出したものである。

寂しい時代を過ぎて、充実していた頃(19歳当時か)
それも面白いかも?とすぐ乗るまーきみ。
やっぱ
ロックンロールはノリがいちばんだぜぇぇぇぇぇぇぇ~~い。
何時からロックンローラーに・・・・・

http://jp.youtube.com/watch?v=IJyMLyW5sV8
あんたのバラード
私は、この曲は高校を卒業した1978年だと思っていたが意外にもその前年のリリースだった。
勘違いしたのは、紅白でこの歌を歌ったのが78年で、主にその年に流行ったからなのだろうと思う。
ちなみに「ロックが商業ペースに乗る事を証明した」のは彼らが最初で、78年のサザン・オールスターズのヒットに道をつける結果になった。
そういえば、最近テレビでよく見かける「迷い道」の渡辺真知子も77年のデビューだった。やはり78年の紅白にこの曲で出場している。
他に初出場で個人的に印象深いのは
平尾昌晃(4)・畑中葉子(初) カナダからの手紙
榊原郁恵(初) 夏のお嬢さん
庄野真代(初) 飛んでイスタンブール
サーカス(初) Mr.サマータイム
などなど、
現代でもカラオケで歌い継がれているスタンダードといっても過言ではない。
余談だがこの第29回NHK紅白歌合戦は、史上初めてレコード大賞を受賞しながら出場を辞退したピンクレディーが物議を醸した。
「普通の女の子に戻りたい」と言う名台詞を残してキャンディーズが引退したのもこの年だった。
私がなぜこの年のことを印象深く覚えているかというと、高校を卒業して愛知県のアイシン精機株式会社と言う自動車部品製造会社に就職、初めて暮らす異郷の地で耳にする音楽が、今まで以上に心に染みたからだと思う。
この年、何事においても消極的だった私が会社や寮の生活になじめず、だんだんと孤立感を深め、今思えば鬱寸前まで行って、自殺するまでは考えなかったがなんとなく「このままだと、生きてるのがいやになるのでは?」と言う訳の分からない不安にさいなまれる日が続いた。
仕事は昼勤、夜勤が週代わりで、夜勤の週は朝8時に終わって朝食をとり10時ごろ就寝、夕方6時前くらいに目を覚ます。
秋になって日照時間が短くなると、夕方目が覚めたらもうあたりが暗くなっていた・・そんな時狂おしいほど寂しい思いをした。
http://jp.youtube.com/watch?v=7H5555py7OA
森田童子の曲が身に染みるように感じたのもこの頃。
そんな年の暮れに労働組合の新入社員研修合宿の最終日、とあるアトラクションの時間に、やけくそでやったギャグが大うけに受けて、図らずも「最優秀賞?」を受賞した。
それまで目立たないキャラだったのに会社の構内を歩くと見知らぬ人からも声をかけられるようになり、何時しかさびしさや不安は消えていた。
愛媛県人会々長に担ぎ上げられて大弱りしたのもこの頃であった。
その頃の友人や先輩は結婚式にも遠路出席してくれた。今は皆、出世しているようだ。
ギャグは地球を救うとまでは言わないが、私が今日まで生きてこれたエネルギーの多くの部分を占めるのは間違いないかもしれない。
後年
現役当時は一番ヒットした曲でも5万枚しか売れなかったと言う超マイナーな森田童子の曲がテレビで流れて耳を疑った。
野島伸司プロデュースの「高校教師」の音楽に森田童子の数曲が使われたのである。
女房や子供に囲まれながらテレビから流れてくる童子の曲を聴きながら、往時の事を懐かしく思い出したものである。

寂しい時代を過ぎて、充実していた頃(19歳当時か)
