2008年10月10日

広見川発電健在なり! 3


「藤の川」上流に神社が見える




ここにも「大本神社」がface08

藤好、近永など旧広見町には3社の大本神社がある。



大本神社の棟札 永正11年(1514年) 室町時代後期、応仁の乱以後、戦国時代へと向かう頃か。






古い手水鉢


こんなんでメダカを飼ってる人がいたな~って発想する私はバチアタリ?face06




古い石積みと灯篭 明治年間の文字が刻まれている。






こんなスリムで丸っこい狛犬をこの辺の神社でよく見るけど。




苔むした石が・・広見部落の文字が見える。






路傍の石灯籠に歴史を感じる。










広見川河口の堰を見に行く。




下広見川建設の記念らしい石碑があった。 文字が読めない。





古い橋のプレートか?


「広見町誌」に写真が出ていた、昭和28年架設の橋か。


広見町誌によれば
大正11年に三島村道の改修工事を行った。
そののひとつ、「広見線」(下大野ー広見)は総工費18860円のうち、村負担金1790円 郡負担金3017円 地元負担金は1万5053円と約80%が地元負担、すなわち住民の寄付に拠るものであった。

寄付には「労役」なんかもあったのだろうか?


村民総出で手に手に鍬を持って道路を作ってる写真を見たことがある。


明治の予土境道路は、日吉村の井谷正命が主唱したと言う。それが以後の四国循環鉄道構想を生むに至った北宇和郡の歴史。古来より交通の便の悪さをひしひしと感じたゆえの結果か。


道作り(橋梁を含む)と教育の振興が、当時の人々が最も力を入れた事業。


そして、やがてそれに「発電」が加わる。






バナナの木の向こうにコンクリートの構造物が見える。

農作業の方に、お願いしたらイノシシよけの電線を外して中に入れてくれました。


あそこの堰は水力発電の水を引き込んでいたらしいと話したが、若い方だったので

「そんなことがあったんですか?」と少し驚いておられました。


もう何年か過ぎたら、誰も覚えていなくなるかもしれません。




水門に近づいてきた。





堰に絡みつく蔓に足を取られないように注意して進む


角あたりは草が生い茂ってるので、えいやっと飛び越えた。


もし、転落したら増水した川の急流に流されるかな・・face09




この堰は、当事練石積みであった物を、後年改修し水田の用水に利用するようになったらしい。




水門で水量を調整して、用水を水田の畦沿いに、向こうの山まで流すようにしたのだろう。



赤線が発電用水路 




他の畦に沿って作られた用水路も老朽化が進み、漏水してる箇所も有るらしいと言うことです。




再び藤の川河口付近

ガードレールがある橋と、カーブで見えにくいですがミラーの向こう側にも橋があります。

手前が藤の川の橋  向こう側が藤の川の下を通った発電用水路の橋です。



下広見から轟あたりには、見え隠れで未だに水路が残っています。

漏水のためか流れはゆっくりですが、前述の農家の方のお話ですと、昔は怖いほど流れが急だったそうです。


大正11年7月30日に営業開始した「広見川水力電気株式会社」(事務所小倉)でしたが、電力不足と固定資本の膨張で負債に耐え切れずに1年余りで伊予鉄道電気会社に合併しました。
県内の電力会社はその後統廃合の末、後の四国電力になります。

鬼北地方に初めて電気を点した電力会社の稼動はわずかでしたが、人間社会の事情には関係なくそのために引かれた水路の水は平成の時代になっても当事のままに流れていました。

おわり


資料 「広見町誌」「愛媛百科大事典」「宇和島の明治大正史」(津村寿男) 



広見川発電健在なり   




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この記事へのコメント
手水鉢のメダカって風流ですじゃ
まーきみ。師匠
Posted by 文札 at 2008年10月10日 08:41
文札さん
ですね。
風流一番
Posted by まーきみ。まーきみ。 at 2008年10月10日 09:55
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