2008年12月20日

横新町と向新町



錦町に住んでいた友人が「自分の住んでる所は、以前『向新町(むかいじんちょう)』と称した」と言ったのを覚えている。

その時、そばに居た叔父がやはり錦町に住んでた事があったが、叔父が居た所もやはり「向新町」だったと言う。

昭和41年に現在の町名に改称されたが、当時私は小学校一年生。

当時はやっと板島橋を越えて学校に通いだしたばかりで私には今も、宇和島市の昔の町名は全く馴染みがない。

北町が大宮庫吉にちなんだ「大宮町」と改称したのはこの時だ。
(但し、市には大宮翁に因んだと言う記録は一切無いと言う)




向新町の案内表示 上部に新旧対称の見取り図がある。








内港方面にカーブした辰野川から駅前通あたり









向新町(錦町)の通り










向新町から穂積橋を見る。


江戸時代初期に伊達政宗が入府した時は、駅前の龍光院あたりまで海岸線が迫っていたと考えられる。
つまり、このあたりは駅を含めて城北中学校あたりまで海だった。

このあたりを埋め立てて、それまで龍光院前あたりの海に流れ込んでいた辰野川を西に付け替えた。

つまり、本町辺りから北を向いて、付け替えた辰野川の「向の新しい町」が「向新町」の名前の由来だ

ちなみに、伊達市入府前は辰野川は野川から流れて等覚寺あたりからマルオー洋品店あたりまで流れて内港辺りまで続いていたらしい。藤堂高虎の時代に現在の位置に付け替えられたと言う。
『私たちの郷土』宇和島市教育研究所編 参照

恵美須町にあった「いずみサウナ」は地下水を利用していて今も井戸があるという。地下水がこのあたりを今も流れているのだろう。


宇和島埋め立ての記録





向新町から龍光院が見える


つまり、江戸時代初期は丸之内4丁目のかつて渡し舟が着いていた、初代の「徳田理容所」から龍光院を結んだ線の北側は城北中学校辺りまで海だった。








穂積橋の向こうは「横新町」






辰野川上流  付け替えられたと言うことは勾配が緩くなるのかな?










辰野川下流










昭和5年架設  








穂積橋のふもとに石碑がある事を今日始めて気がついた。










ほずみはし橋名の碑  宇和島尋常高等小学校教職員児童一同 昭和5年



この碑には、穂積博士本人が銅像の建設を辞退したとあるが、





反対側の立て札には、死後遺族が辞退したとある。


予てから建設中のこの橋の名を「ほずみ橋」と命名した。

当時の市長山村豊次郎は、この年に辞任している。

穂積博士の功績については色々な本に書かれてあるが、中でも一番詳細に紹介してあるのは私の知る限りは「山村豊次郎傳」ではないかと思う。(宇和島市中央図書館で閲覧可)


余談だが
昭和3年に宇和島市の高等小学校を一つにまとめて天神町にあった第三小学校に統合した。
この統合は、教育費の削減の必要性から行われたものだが当然ながら市民には不評で、それまで人望があった山村人気に陰りが出てきたと言う。(山村豊次郎傳)


余談だが2
先日、「かーぺんたーずらいふ」のゆうこさんから借りた「過ぎさりしも」(松本麟一著)に、「尋高校涙をのむ」「少年野球で強豪と対決」と言う記事がある。

この年(昭和5年)6月25日第13回少年野球大会が宇和島中学グラウンドで開催された。

当時、宇和島尋常高等小学校、尋常科(6学年)531名、高等科(2学年)585名とある。
(旧宇和島町の高等科及び、九島村より負担金を支払っての戎山、保手、坂下津地区の生徒が通っていたと思われる。山村豊次郎傳より推察)



尋高校は、宇和島中学に勝利したものの、強豪の宇和島商業学校に敗れたと言う。

 



大正15年 4月7日の穂積博士の薨去を報じる当時の新聞
(穂積)男は、男爵の意

樞府(すうふ)とは「枢密院」の事。

亡くなる1年ほど前に前任者が事故死したので、穂積男は再三の辞退にも拘らず「枢密院議長」を拝命したと言う。
「過ぎさりしも」より











橋を渡れば横新町









地図が、現場の方角と反対になってしまってるのでわかり辛かったface07








疑問に思ったのは、埋め立てた内港(青線)も横新町に入ってるがこれでいいのか?


町名改称は41年で、その時は既に埋め立てられていた。埋め立てられた場所の一部も横新町だったのだろうか?
それとも埋め立て予想図を間違ってしまったか。誰か教えてface06









横新町から向新町を臨む







ここから裡町方面に










高野長英の住居跡の碑がある


揮毫は長栄と同郷の後輩で、鉄道院総裁も勤めた後藤新平

ちなみに彼は明治末期に鉄道敷設の視察に宇和島に来たことがあるが、陳情は受け入れられなかった。




現代の町並みにはよく目立つ石碑だ。







裡町(現・新町2丁目)からあの「大橋」を渡れば、向新町(現・錦町)





横新町と向新町の間を流れる辰野川


こうして見ると、昔の町名の方が地理や歴史がよくわかる。




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この記事へのコメント
気がつかないところに石碑がいっぱい。
街中をσ(^_^)は何を見て歩いているんだろう。
この頃は車で通り過ぎて 歩いたことないかもしれん。
今度春になったら 車をどこかに止めてじっくり街中探検してみたいな(*^-^*)
Posted by ゆうこ at 2008年12月20日 11:25
先生! 本町追手~宇和津町~愛宕町~笹町も歩くと 発見がありますよ(^O^)
Posted by はこはこ at 2008年12月20日 12:49
ゆうこさん
そうです。歩いてこそ見えるものあり。


はこさん
あの川沿いも魅力ある道筋ですね。
Posted by まーきみ。まーきみ。 at 2008年12月20日 12:52
こ この石柱は
ブラスト君の汗と涙が・・・・
思い出深いお仕事です
Posted by relief-mama at 2008年12月20日 15:36
relief-mamaさん
「トラは死して皮を残す」と言いますが、
石は未来永劫その姿をとどめるでしょう。
良いお仕事されてますな。
Posted by まーきみ。まーきみ。 at 2008年12月20日 15:46
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