2008年07月09日

宇和島タイムスリップ 二重柿の下で思う

私が初めて「二重柿」という名前を知ったのは昭和63年春、宇和島東高等学校野球部が春の選抜で優勝した祝賀会に同校を訪れたときでした。
確か野球部員と関係者を乗せたバスが到着するのを待っていた玄関付近で見たような記憶があります。




大正11年11月25日 宇和島市に東宮殿下(皇太子時代の昭和天皇、当時摂政宮)がご巡啓されたとき、市内の高等小学校以上の生徒と一般の人々が出迎えたのが現在の東高校である「宇和島中学」でした。

出迎えた児童生徒は宇和島中学、宇和島高等女学校、実家女学校、第1(明倫小学校の前身)2(鶴島〃)4(和霊〃)5(住吉〃)の各高等小学校(天神町にあった第3小学校は新設のため高等小学校生徒なし)3610名


宇和島中学 大正9年ごろ

皇太子殿下は授業参観の後、講堂で行われた地元特産品の陳列をご覧になった折に清満村満願寺産の二重柿に特別の注意を払われ、ご苑内に栽培する思し召しにて品種献上のご沙汰があり出品者は無常の光栄に浴したとあります。


東高校の二重柿はその頃に植えられたものであるらしいのですが、その実際の経緯については同校とは関係の薄い私には分かり兼ねます。同校の卒業生の方ならあるいはご存知かもしれません。



戎山から見た樺崎方面 


当時、須賀川付け替え前の内港は水深浅く、大型船は「お上がり場」と呼ばれた樺崎桟橋に着岸していました。

皇太子殿下のお召し艦もこの地に着かれたのですが、行啓の際、殿下の後に従う序列の順番についてハプニングがありました。


現在の歴史資料館あたりか 後方に見えるのは戎山


当時県から市に通達された行列の順位のうち、山村豊次郎宇和島市長は宮内省関係者、県の高官の後だったのに、当日の列には最後尾であったはずの山村市長が殿下のすぐ後ろを歩いていました。
そして、宇和島城で伊達候より殿下に茶菓の饗応の宴があったのですが、殿下の正面の席にはやはり山村市長が座り、県の高官は別席だったということでした。


これらの「序列変更」の原因はいろいろと憶測はありましたが、その真実は長い間謎とされていました。
それらが一般に知られたのは、その時枢密院顧問官として殿下に随行してきた穂積博士が大正14年、枢密院議長の在職中に死去したときに博士を追悼する山村市長の談話によって明らかにされたのでした。

穂積博士は「殿下は宇和島市に行啓になられたのであるから、市長は市民全体の代表者として上位に着くことが当たり前で、県の定めたことは間違っているのみならず、高等官級の下位に市長を置くことなどは以ての外の無礼である」と言って当日の順位を変更したのでした。
その後に聞いた話では松山市でも、県の態度に憤慨した市長が列外でお迎えしたそうです。


殿下は、この時宇和島中学と、鶴島公園に宇和島中学校長、山村市長にそれぞれ乞われ松をお手植えになったそうです。
現在残っている二本の松はその松では無いでしょうが、その近くに植えられたものと思います。


雪景色の鶴島神苑 左手中腹の神社が鶴島神社(戦災で消失) 現在の松林眼科ー児童相談所のあたり

その後、殿下は上記の茶話会のために徒歩で城山に上られました。
このときのエピソードで、殿下の前に席を設けられた山村市長は殿下や宮内大臣の着席を待っていたのですが、いつまでたっても誰も座りません。
ますます恐れ入る市長に殿下傍らの穂積博士が「主人役の市長が座るのを殿下はお待ちになっておられる」と笑いながら話しかけたということです。
そのとき、どのような思いで山村市長着席したかは想像するしかありませんが宇和島中学に集まった児童生徒たちの奉迎歌に「日嗣の皇子」と歌われたその時代の皇太子殿下に礼を尽くされた事に対する驚きと感激は将来彼の胸から去らなかった事でしょう。


穂積博士の持論は「市町村長の如きは無冠の帝王であって全ての官吏との間に上下を論ずべき性質のものではない」と言うもので、「市長を尊ぶのは市民の意を尊ぶ為」と言う「ロンドン自治制発達の根源」に拠るものだったのでしょうか。

後に穂積博士は宇和島人の気性として「引っ込み思案」を「必要以上の謙遜礼譲」と心得る悪弊を指摘しております。

たとえば、多くの人が集まる席では皆下座に座りたがり、上座に空席が目立ち、それが為に徒に時間を空費する。
講師を迎えての勉強会などで、上座に空席が多いと大変失礼に当たるので主催者は大変に迷惑する、と言うことでしょうか。

穂積博士の夫人は東京近郊の人なので、夫妻のそれぞれの出身の子弟を書生として預かっても、婦人の出身地からでは青年は淡白無邪気にして与えるものを喜び食するも、宇和島の青年は遠慮して強いて進められてようやく恥ずかしげに口にすると言う有様を見て、これでは却って美風と思っているものが先方の行為を無にし礼を失する事になると戒められております。


私事ですが
高校を卒業して他県に就職したとき、寮の同室の先輩からやはり同じような指摘を受け諄々と諭されたことがありました。
当時は「人が礼儀を尽くしてるのに話の分からないいやな先輩」と思っていましたが今にして思えばまさに博士の言われたことと同じだったのだなと、ありがたく思っています。



最後に、博士の死後に発見された宇和島市民に宛てた遺言をここに書きます。


宇和島市民諸君へ

私は大正11年11月25日皇太子殿下が我が宇和島市へ行啓に相成ったとき、天赦園ご散策中陪席して地方の人情風俗に付き種々御下問に奉答しましたがその中に諸君の事については左の如く申し上げておきました。

宇和島市民の特色は、資性敦厚にして公共心に富んでいる事であります。
殊に当市の主なる実業家は皆社会の牛耳を執り公共事業の振興には非常に熱心に尽力致しますからこれが為にこの僻遠なる地も教育、産業その他百般の事業もその進歩が極めて著しゅうございます。

無論この地方にも政党政派もありますが、これが為に他の地方に往々見る如き弊は少しも認められません。市の公共事業まで国策に関する政権の異闘を及ぼす事なく、何事についても相談が纏まり同心協力の実が挙がる様であります。

市会議員並びに実業家の態度は只今の所では極めて満足であります。この宇和島には所謂我利我利と申す様な事業家は無い様であります。

或いは有るかもしれませんが彼等は影を潜めておりまして、往々他の地方において観る如く金力を以って幅を利かしているとい如き者は無いようであります。
この宇和島の近年の進歩は、全く市民が公共心に富んで居って何事に付けても同心協力の実が挙がるからであります。云々

殿下は池の西方にある大藤の株の横たわれるに御腰を掛けさせられ、いと御満足げに縷々お肯きに相成り、尚農村の事についても1,2ご下問がありました。
右の如く我同郷諸君の愛郷心に付いては諸君の郷里の地に行啓あった節、親しく実分に〇聞に達しておきました。この事を御忘れない様願います。
大正11年12月5日 
帰京の翌日記 穂積陳重



一次資料「山村豊次郎傅」


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この記事へのコメント
へぇ~、東高にも二重柿あったんですか。
清満の満願寺だけかと思ってました。
Posted by mak at 2008年07月09日 01:47
makさん
空襲で焼けたけど、また芽が出て復活したそうですよ。
Posted by まーきみ。まーきみ。 at 2008年07月09日 08:34
今時は、主張する我利我利がおおくなり、個人の資産増進のことばかり、いやな世の中だ。
Posted by 八坂石鹸 at 2008年07月09日 14:30
八坂石鹸さん
世の中の価値観があべこべになりましたね。
世のため人のためなんて本気で言ってると変人扱いされる。
最近の報道の教育現場の荒廃にも無関心なのはもうあきらめているのか?
Posted by まーきみ。まーきみ。 at 2008年07月09日 22:47
 

プロフィール
まーきみ。
まーきみ。
宇和島市で気功と整体の手技を調和させたセラピーをしています。
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