2008年07月24日
宇和島鉄道の夜明 1

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。
僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」
カムパネルラの眼にはきれいな涙(なみだ)がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」
(宮沢賢治著 『銀河鉄道の夜』より)

駅を出る私鉄宇和島鉄道
私鉄宇和島鉄道の設立を最初に呼びかけたのは好藤村(旧広見町)の今西幹一郎で、明治37~8年の事でした。
宇和島のように航路が開けている海辺の町より、船が行く事のできない山間の町のほうにこそ鉄道が必要だと言う考えが当時の常識で、現在の鬼北地方から鉄道建設の声が上がったのは当然の事であったのでしょう。
国任せでは中々鉄道を敷くことができないと思った彼らは、
「国がやってくれんのやったら、自分らでやったらええわい!」と奮い立ちました。
現代では想像も付かない大きなエネルギーが、人々の中に燃え滾っていた時代。
それはあたかも機関車の釜の中で赤々と燃える石炭の炎のように力強かった事でしょう。

私鉄宇和島鉄道開通式 大正3年 宇和島ー近永 所要時間 1:40 運賃 大人二十九銭
社長 井上角五郎(広島)
副社長 今西幹一郎(好藤村)
専務 河野虎尾(好藤村)
取締役 井上要(松山市) 玉井安蔵(宇和島市・但し愛治村出身) 石崎忠八(宇和島町) 小西荘三郎(岩松町)
その宇和島鉄道の名前が残っている唯一の「鉄道遺産」があると聞いて、松野町吉野へ行ってきました。

車を停めて、いざ出発 このあたりがかつて宇和島鉄道吉野駅があったあたりか?

なんか書いてある?

えええええー

ちがいますぅーーーー

「おもしろ看板」決定


しかし、元公園らしい樹林はいくつもあるけど、発見には至りません。
あきらめて帰ろうとしたら一台の車が通りかかり、声をかけて中のご婦人に聞いたら、親切に車を降りて教えてくれました。


ありがとうございますー

感謝で見送るまーきみ。

美しい田園風景

この池が目印らしい

おや? あれか?

あった!

「文殊公園」の石碑

大正13年の竣工
宇和島運輸の堀部彦次郎が宇和島鉄道会社2代目社長に就任し、駅を当初の和霊町(城北中学校あたり)から鶴島町(現在のJR宇和島駅)に移転し、資本を増額して近永から吉野まで伸延。
同時に「文殊公園」を整備し行楽客を誘致した。
明治43年、沿岸航路の運行に着手した宇和島運輸が板嶋丸を建造、赤松遊園地を整備し同船を就航させ好評を博したのと同じ手法である。
後年同路線の国鉄への発展的買収を成し遂げるのにも有利に運んだ一因になった思われる。
「財界に堀部あり、政界に山村あり」
その堀部が死去し、あとを継いだ山村三代目社長(元市長)の活躍の話は後日に譲りたい。

敷地内には仏像が安置された文殊堂があり、それが公園名の由来となっています。
水の流れを組み込んだ庭園にはあじさいが数多く植えられており、花の頃には訪れる人々の目を楽しませてくれます
(松野町商工会)

この日は雨 紫陽花も名残の花を咲かせていた。

この古木も、悠久の歴史を見てきたのだろう。

下の畑で農作業をしていたご婦人に話しかけると、手を休めてかつてはこのあたり一体が宇和島鉄道の敷地だと教えてくれた。

当時のホームの跡があると、わざわざ案内してくれた。
右手の更地は最近まで製材所があったそうな。

この勾配と、左手のコンクリート(指先)が当時のホームの名残らしい。


「昔はあのあたりに小さな劇場があったらしい」と説明してくれた。
このご婦人の記憶には無い昔らしい。
「時々宇和島鉄道の事を調べに来る人がいる」とのこと
態々の親切を謝し、家路に着く。

吉野駅跡の全景
このあたりはかつて吉野村と呼ばれたところ。
1889年(明治22年) - 町村制・市制施行時に、吉野(よしの)、蕨生(わらびお)、奥野川(おくのかわ)の3か村の合併により吉野生村となる。
1955年(昭和30年) - 松丸町との1町1村の合併により松野町となる。
一次資料
「宇和島の明治大正史」津村寿男
「村上豊次郎傅」井上雄馬
「愛媛県百科大事典」
注 玉井安蔵は上記の資料では愛治村とあるが、株主名簿には「宇和島」とある。隠居後宇和島に移転した。
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