2008年07月25日

宇和島鉄道の夜明 2 河原の石



線路を横断する鉄橋から見た宇和島駅 宇和島駅が当初の和霊町(現・城北中学校)から現代の位置に移転したのは大正5年。

尤も当時は国鉄ではなく「私鉄宇和島鉄道」であった。軽便鉄道で軌間(線路の巾)762mmで国鉄の規格である1067mmに変更工事が行われたのは、国鉄に買収された昭和8年以後のことである。

その後、国鉄は四国循環鉄道を敷設すべく計画し、地元も誘致に懸命に運動したのだが、その路線選定に紆余曲折があって予讃線が開通する最後の区間八幡浜ー卯之町間が開通し、西宇和郡双岩小学校で開通式が挙行されたのはたのは終戦間近の20年6月の事であった。






話は変わって


伊吹町の八幡川原


須賀川の右岸に建立された安藤継明忠死の碑 伊達宗彰氏揮毫


後方の古い石碑は字が読めないほど風化している 元吉田町長 清家吉次郎撰文の文字が見える。


寛政5年(1793年)2月12日、山間部の特産である紙の専売制反対と藩政の改革を掲げ、日吉村を中心とした吉田藩の百姓8000人(83ヵ村中80ヵ村)が蜂起し、宗家である宇和島藩の八幡河原に集結した。
一揆の収拾に苦慮した吉田藩家老安藤継明は14日に一揆勢の前で割腹。安藤の至誠に打たれた一揆勢は宗家宇和島藩の仲介もあって帰村。要求のほとんどは認められる事になる。
ご存知「武左衛門一揆」の顛末である。
ちなみに吉田の夏祭りは彼を祭った安藤神社の祭礼だ。



さて、この河原で戦時中、宇和島市長や助役を初め宇和島市民が挙ってこの河原に集結しました。


その様はまさに


「昭和の百姓一揆」




戦時中にこの河原に市民が集結した。



昭和8年に私鉄宇和島鉄道を買収した国鉄ですが、その後の四国循環鉄道は遅々として進みません。
それは路線選定に対して地元や国の意見がまとまらない事が最大の要因でした。

第104号路線
大洲ー宮之下ー近永ー江川崎ー須崎
(宇和島線は支線となる)


第103号路線
大洲ー八幡浜ー宇和町ー三間ー宇和島ー南宇和郡ー宿毛ー中村


当時の考えとして船舶の航行する海岸部より寧ろ交通不便な山間部こそ汽車を通すべきと言う考えが主流でしたし、また技術的にも法華津峠の勾配は汽車が走るにはきつすぎて結果、104号路線が有望で、国鉄もその計画で進めていたのですがなぜか実現したのは第103号線の計画に沿った現代の予讃線でした。
「村山豊次郎傅」にはその決定を「木の葉が沈んで小石が流れる以上の奇怪事」と表現しています。


昭和18年9月に着工したのですが、当時は戦時中。サイパン、グアム島守備隊が玉砕し、ここを拠点としたB-29の空襲が始まった時期です。

上田市長は国の鉄道建設に協力すべく地元選出国会議員と図って鉄材、人材の供出を呼びかけました。

一番必要な鉄材(レール)は、新設なった宇和島ー吉野生間の鉄道のレールを流用する事を計画しましたが当然ながら鬼北地方の住民に大反対に遭いました。
苦慮した上田市長は松山の伊予鉄道に赴き「松山ー高浜間の複線を単線にして、残るレールを払い下げて欲しい」と交渉しました。
上田市長と予てから親交のあった伊予鉄道の太宰社長はさすがに難色を示しましたが「国防上にも軍事的にも緊要な路線である」と言う戦時下の要求と福本知事の応援もあってこれを了承しました。


鉄材の確保が決まれば次は人材の確保です。
宇和島近辺のみならず、東、西、北の宇和三郡の男女青年団を中心に「速成同盟」を組織し突貫工事に従事しました。
遠くは西宇和郡の三崎半島の遠隔の地からも団体で参加したと言う事です。

前述の如く、宇和島の八幡河原には市長、助役、市会議員を初め各区民が順番で集まり砂利を採取して北宇和島駅まで運びさらに鉄道で工事現場に輸送しました。
勤労奉仕が当たり前の戦時下とは言え、血の滲むような努力で工事が竣功するのには実に3年の年月を要しました。


官民協力して鉄道の建設のために働く地元住民の姿を、かつてこの地で切腹して果てた安藤継明の霊はどのように眺めたのでしょうか。

その後の空襲で宇和島駅舎は消失しましたが鉄道は残りました。

戦後も工事に協力した住民各位は、汽車に乗るたびにかつてこの地にこだました工事の響きを懐かしくも誇らしく思い浮かべた事でしょう。





「僕もうあんな大きな暗(やみ)の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」

「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」

カムパネルラは俄(にわ)かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫(さけ)びました。

 ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかりどうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。何とも云えずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向うの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕(うで)を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。

「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」

ジョバンニが斯(こ)う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座(すわ)っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。

宮沢賢治 『銀河鉄道の夜』




宇和島駅機関区 木製の電柱が往時を偲ぶ縁か



一次資料
「宇和島の明治大正史」津村寿男
「村山豊次郎傅」井上雄馬



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この記事へのコメント
このようなお話、もっともっと読みたいですね。
写真も綺麗な青空で素敵です。
Posted by issyoo at 2008年07月25日 22:19
issyooさん
そう言って頂くと立つ瀬があります。
あまりにもマニアックで古い話なので、こんなもの書いても意味がないのではと思っていましたので
Posted by まーきみ。まーきみ。 at 2008年07月25日 22:54
 

プロフィール
まーきみ。
まーきみ。
宇和島市で気功と整体の手技を調和させたセラピーをしています。  
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