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<title>新・気功的整体師の奮戦記</title>
<link>http://monme42.i-yoblog.com</link>
<description>宇和島の海辺の町で究極のリラクゼーションを目指して整体施術をしています。</description>
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<pubDate>Wed, 06 Feb 2008 19:21:52 +0900</pubDate>
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<title>塩成　日振島漁民の遭難</title>
<description>五月時雨の三十一日に　突如起こりしデラ台風は海の彼方の塩成沖で　血気盛んな日振の人の百と有余の生命をうばう　つきぬ恨みは塩成沖よデラ台風口説西宇和郡伊方町塩成（旧瀬戸町）昭和24年5月31日、九州四国地方に甚大な被害をもたらしたデラ台風で、一番多くの死者が出たのは宇和島市の日振島漁民でした。死者106名（出漁５３隻３２８名　当時の人口2300名）出漁していた八統の巾着網も壊滅的な被害を受け「日振島は死んだ」とさえ言われました。「日振島のはなし」より「デラ台風概要」 　デラ台風は、南西諸島に沿って北東に進み、６月20日に沖縄、奄美大島、屋久島を順に通過し、進路を北に変えて23時過ぎ鹿児島市付近を通過した。その後九州を北上し、対馬海峡に出て朝鮮半島の東で停滞し、温帯低気圧に変わった。　台風接近前の18日から梅雨前線の活動が活発となり、九州、四国、近畿、東海などでは、日降水量が200mm以上の大雨となった所があった。被害は九州から東北地方までの広い範囲に及んだが、鹿児島県で特に大きな被害となった。また、愛媛県の宇和海で多数の漁船の遭難や、門司・高浜（松山市）航路の旅客船「青葉丸」の沈没により多数の死者が出た。夏は海水浴客で賑わう美しい砂浜冒頭に掲げたのは三回忌に能登部落の梅林義一氏が作った「デラ台風口説」の一節ですが、もちろん塩成や塩成部落に「恨み尽きせぬ」訳ではありません。日振島村助役　濱田彰久氏は「遺体の収容については地元民の懸命な協力を得まして、漂流中または漂着した遺体を一人残らず収容できました。　中略　厚くお礼を申し上げました」と語っています。この塩成付近の海岸には、日振島漁民を含め１８０の遺体が打ち上げられましたが、その収容や生存者の救出に地元の方々が献身的に協力をされその上、三机村で慰霊塔まで建立されました。五回忌に、三机村が建立した慰霊塔昭和３０年に合併して瀬戸町になるまでは「三机村」だった。風は北東うなりを立てて　どっと逆巻く台風来る変わる姿は阿鼻驚嘆よ　死する今際の夫や親や兄や弟の気持ちはいかに 生る望みを断たれた今も親は子を呼び子は親を呼ぶ 兄は弟を弟は兄をデラ台風口説デラ台風の被害が斯くも大きくなった背景には、色々な事情がありました。台風の進路が急に変わった事その速度が時速60km.と、宇和海を通過する台風としては異例のスピードだった事。電気のない村もあり、ラジオによる天気予報を聞く事ができなかった。梅雨時に台風は来ないと言う言い伝えがあった。（ながせの船はよもぎの根に舫え、と言う諺があった。）不漁続きでやっと魚が獲れ出したので、無理を押して出漁したい事情があった。などが挙げられます。また、ある漁村では雲行きが悪いと言う古老の忠告を聞いて、被害がわずかであった地区もありました。日振島から約３０キロのこの地に、流れ着き命をとりとめた人もいた。思いますぞえ遺族の者は　百と有余の御霊よ早く帰り来たまえ我が故郷へ 祈る心は一つとなりて我ら集る今夜はここに　供養しますぞ諸霊の為にデラ台風口説この日は、穏やかに晴れていた。しかし台風のときは、遠浅のため場所によっては６～７ｍもの高波が押し寄せる事もあるという。日振島村で慰霊碑が建立されたのは１３回忌に当たる昭和３７年の事でした。そして建立の場所は最もこの地に近い沖ノ島に決められました。ハマユウの自生で有名なこの島も、後年害虫の発生のためそれらが壊滅的な危機に襲われたと言います。それを知った地元の中学生が生徒会で発案し、１９７７年より毎年、宇和海中学校生により、ハマユウの植樹、保護活動が行なわれています。私が３歳の頃、夜中に目が覚めて泣き出したのを憶えている。でも、なぜ泣いたのか思い出せない。後でお袋に聞いたら「父ちゃんが時化に遭った夢を見たんよ」と言った。その頃、我家は船があった。半農半漁で、夜間親父はまだ元気だったじーさんと、近所の人数人で漁に出ていた。３歳の私に「時化」なんて言葉の意味は無論分かるはずも無かった。分からないのに、なぜ夢を見て泣いたのか。おそらく、漁師だった大人たちが時折話す「時化の怖さ」が知らず知らずのうちに脳裏に焼きついていたのかもしれない。今もその事を思い出すが、「時化」の事より目を覚ましたとき窓から見える星空と、そばに置いてあった「小鹿のバンビ」の風船のおもちゃだけが妙に記憶に残っている。デラ台風から１２～３年くらい経った頃家の近所でも、その悲惨な災害は大きく言い伝えられていた事だろう。資料・出展　　「日振島のはなし」　田中皓正　　遊子の歴史ブログランキング参加中　ポチッと押してね♪</description>
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<category>名所旧跡・きれいなもの</category>
<pubDate>Sun, 26 Oct 2008 06:30:00 +0900</pubDate>

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