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<title>新・気功的整体師の奮戦記</title>
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<description>宇和島の海辺の町で究極のリラクゼーションを目指して整体施術をしています。</description>
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<pubDate>Wed, 06 Feb 2008 19:21:52 +0900</pubDate>
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<title>幾山川</title>
<description>新市立病院、開業です。　旧病棟の解体工事などが終わらないと完成ではないらしい。病院の裏側から、表に通じる通路に新しい石碑があります。愛媛県立宇和島高等女学校創立の地宇和島高等女学校は明治32年にこの地に創立した。その時は宇和島町立だった。34年に県立に移管昭和8年に明倫町の現在地（現在は文京町）に移転するまでこの地で学んだ。明治42年創立の宇和島高等家政女学校（創立当時は「私立宇和島実科女学校」　その後町立ー群立ー県立、昭和18年より「鶴島高等女学校」に改称・県立に移管する）と共に宇和島南高等学校の前身である。宇和島高等女学校の同窓会「作楽会」（さくらかい）は明治35年の第一回卒業式のときに結成される。そのネーミングは桜町に由来するものと思われる。ちなみに「鶴島高等女学校」の同窓会は「甘棠会」（かんとうかい）と言う。（大正4年設立）この、石碑は「作楽会」の会員各位のご尽力により新病院建設に際しても新たに作られ残される事になった。私は知らないが、古い石碑も有ったらしい。出来れば古い石碑も残してもらいたいものだと思う。今日、宇和島中央図書館で宇和島の昔の写真が展示されていて、宇和島高等女学校の校舎もあった。創立頃の宇和島高等女学校　</description>
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<category>旧宇和島市</category>
<pubDate>Sat, 15 Nov 2008 21:30:31 +0900</pubDate>

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<title>工場前の謎</title>
<description>なかけんさんのブログall of ADで工場前の記事で旧宇和島缶詰（閉鎖当事、四国明治）の石碑があることを初めて知った。この向こうに石碑が建っている。北側　はるか天理教会あたりに「工場前」のバス停がある。元々、このあたりは宇和島を代表する工場がいくつもあっったのだが、知らない間に大型店になってしまった。往時を知らない若い方々が「工場前」と言うバス停に違和感を覚えるのは寧ろ当たり前の事だろう。そして、その「違和感」こそが、現在の産業構造、経済構造の歪みから生じたものなのかもしれない。宇和島は、かつての宇和島ではなくなってしまっている。。。デオデオの横にある石碑最初は丸の内で「宇都宮缶詰所」として明治２６年創業創業者は旧宇和島藩士で、大正４年に旧藩主の財団から資金提供を受け宇和島缶詰と改称昭和３６年この地に移転平成１６年閉鎖宇和島缶詰の事を調べようとネットで検索してきたらなんと・・・自分のブログが出てきたし・・・自分で書いて・・忘れてりゃ世話ないわ・・・重複になりますが、より抜粋これは南側から見たところ伊予ダンボール宇和島缶詰鶴島整備現在残ってるのは鶴島整備だけだろう。上記の「南らく」の文字と、今日住宅地図を見てて、下記の橋を見つけたなんと！「南酪橋」たしか、この橋の向こうに「らくれん」の工場があって、NHKの朝の連続ドラマ「北の家族」のロケで、高橋洋子（たぶん）がこの橋を自転車で渡って、勤務先の「らくれん」に行く・・・と言うシーンを見たような、記憶があるのだが、、、果たして事実か私の記憶違いか？職員役の役者が宇和島弁で高橋洋子と応対するのだが、たどたどしくもかなり正確な方言を使用しててさすが天下のNHK!と感心した記憶がある。私が中学校のときだ。　　誰か知ってた人がいたら教えて！文字通り、地産、地加工、地消だった　バランスの取れていた経済活動上記の地図に示された「工場前」のバス停の位置は、幾度か変更されている。８９年度版の住宅地図にはまだ、宇和島方面行きのバス停のみ、８９と書いた茶色の印の所にあった。（この時は「フジ北宇和島店」のバス停が出来る前である。）それ以前、私が高校時代は上下線とも現在のデオデオの横辺りにあったような記憶がある。地図南側の「フジ北宇和島店」のバス停が出来てから、現在の位置に「工場前」のバス停が移動したと思われる。おまけところで、北フジの入り口近くにある踏切「天理教踏切」どうして、その名が付いたのか？地図を見ても判る通り、天理教会と踏み切りはかなり離れている？ある時、天理教の関係者の方にその話をしたとき「踏切が出来たときは周りは田んぼばかりで、目印になる建物といえば天理教会しかなかった」との事である。国鉄がこの辺りを通ったのは、昭和１６年頃だからその頃の話であろうか。天理教踏切</description>
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<category>旧宇和島市</category>
<pubDate>Mon, 20 Oct 2008 23:29:00 +0900</pubDate>

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<title>宇和島の新名所</title>
<description>昭和３５年に埋め立てられた内港を、昔の地図や写真、古老の話を基に復元してみました。検証しているわけではないので、あるいは誤りがあるかもしれません。ご了承ください。内港は、この辺りまであったらしい。さて、この建物は？そうです。南予文化会館なんよ。裏から見るとちょっと判り難い。昭和の終わりくらいの時代に、これを建てる為に大宮ホールを壊すとき、時の市長が数人の議員と共に同ホールの大半の建設費を寄付した大宮庫吉氏の縁者を訪ねて挨拶をしたらしい。「南予文化会館、大宮ホールから」宇和島の新名所を引き継ぐこの空き地にかつて、丸の内百貨店ーフジ丸の内店があって屋上に東宝と、宇和島に唯一の観覧車を持つ遊技場があった。もう、誰も知らんだろうなぁ。出来たときは確かに宇和島の新名所だった。この時計台の建物は昭和初期の宇和島運輸の建物です。新築されたのは明治４５年　洋風で町役場より立派な建物は宇和島の新名所のひとつになりました。地図の●の位置　当事の堅新町、現在のササオカ薬局のあたりです。現在の位置地図①　その後方にある「三和」（現在）　　宇和島最初で唯一の豆腐専門店これから宇和島の新名所に！１０月４日には、　「宇和島本舗のツワモノども」がここで宇和島を盛り上げる総決起大会（通称、オフ会）を催した！。詳細は、各位のブログで大いに宣伝されることと思うので詳細は避けます。私が紹介すると、場違いでサブいギャグを連発し、折角の格調高いオフ会が御不快になると言う指摘があるので・・・この日の、私のプレゼントはこれ大洲の小藪温泉が舞台に　私のブログで紹介しました。ちなみに、私と三和の店長さんは同級生です。まさかこの店にこんなに大勢で行くとは思ってなかったので、ブログに書いちゃいました。でも、恥ずかしいので決して読まないでください！南予文化会館裏のふれあい広場から、新町１丁目のアーケード街裏通昔良く友人に「柳町に飲みに行こうや！」と誘われた「柳町」とはこのあたりのことだ。影か柳か　勘太郎さんか～♪「勘太郎月夜唄」柳町のなを象徴するかのように、通りのひとつにある柳の木昔、内港沿いにあった柳か？それが名前の起源？しかし、そんなに古い木でも無さそうにも見える。このあたりも、埋立地この一角から海までがすべて埋立地丸の内５丁目、この先に消防署がある。　道の角にある「中原（渉）町長頌功碑」　当初、旧内港に面する堅新町に有ったが、埋め立てのため市水道局入り口に移されたとある。（現在地）宇和島町長、中原渉（陸軍少将）在任、明治４０年～大正９年主な事業宇和島町役場の新設（広小路・山中医院あたり）伝染病院の新設（古城山麓）火葬場の建設（丸穂）町立病院の建設（現・市立病院）町立家政女学校の設置港湾改築事業（内港の浚渫・桝形町の埋め立て）向こうにかすかに見えるのが「湊橋」埋め立て前の辰野川河口この辰野川の石垣が当事の名残か　　古老の話ではマリン石油あたりが船の渡し場だった（らしい）その名も「ほりすえ橋」言い得て妙。　私の記憶では、小さい頃この橋が一番河口に近い橋だった。まさに「端の橋」九島に行く定期船に乗るには、明倫町から船を目前に見ながら遠周りしなければならず、もどかしかった。その後新たな埋め立てにより橋は増えた。延長した川は、実は実質的には海の一部と言えるだろう。地図②　丸の内側の渡し場　　私が幼稚園に通っていた頃、ここは「お浜」と言うバス停だった。卒園した数年後、バスの路線が変わったのか現在のバス停はマリン石油の向かいあたりになった。この角にあった床屋さんは、私の卒園を待って？現在地に移転した（とか）現在はその位置を示す石碑を建立しようと言う話が宇和島本舗の一部にあるやなしや。さぁ！宇和島を盛り上げよう！ヾ(￣∇￣=ﾉブログランキング参加中　ポチッと押してね♪</description>
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<category>旧宇和島市</category>
<pubDate>Sun, 05 Oct 2008 00:05:00 +0900</pubDate>

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<title>宇和島市立病院</title>
<description>先日の「顧客放置事件」でご迷惑をかけたAさんと談笑中、一般公開があった市立病院の話になって、「今の市立病院は、何時頃建ったのでしょう」と聞かれ、「中原町長の時代だから・・・確か大正初期だったと思います」とお答えしました。後で調べたら、明治４３年、広小路の仮病院で開業（宇和島市誌）とありました。最後の最後まで、顧客様にいい加減なことを申し上げた一日でした。　もうすぐ、新しい病院にバトンタッチする宇和島市立病院おおよそ、宇和島市民で本人若しくは縁者に、この病院にお世話になった人が一人もいない・・という人は皆無に近いのではないでしょうか？本来「救急救命センター」は県の業務で、東、中予は県立病院がその任に当たっていると聞きます。南予のみが、市立の病院がそれを担当していることからも、如何に重責を担っているかと言うことが推測されます。その市立病院が老朽化から、建て替えが急務となりその移転場所を巡り関係各位が如何に苦労したかと言うことは市民においても良く知るところでありました。また裁判所移転に伴い、その移転費用の国庫支出が閣議決定されたことは財政難に苦しむ宇和島市にとって大きな朗報でありました。宇和島町立病院　明治４３年頃宇和島町立病院は明治３９年頃、北宇和郡医師会で治療費及び薬価の現金取引制と値上げを決定したことから、一般市民の間に開業医に対する不満と公立病院の設置を要望する声が高まり、北宇和郡からの援助を受けて宇和島町立病院の建設の議が固まった。（宇和島市誌より）松根邸址の石碑　土地所有者は他に水間春明、愛治村庄屋で、隠居し宇和島に居を構えた玉井安蔵。大正１０年市制実施に伴い、市立病院と改称。同１２年に増築したときの写真。昭和２０年７月１２日の空襲で消失。この日も早朝より、長蛇の列が。新旧の市立病院新しい歴史の始まりは、同時に古い歴史の終わるときでもあります。古い病院はこの後解体され、立体駐車場になる予定。来年になれば、このあたりの景色も一変するだろう。今のうちに「宇和島の歴史」を心に留めておきたいと思います。新築の宇和島市立病院には昔、宇和島高等女学校があった（明治３４年頃）資料・出展　「宇和島市誌」ブログランキング参加中　ポチッと押してね♪</description>
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<category>旧宇和島市</category>
<pubDate>Thu, 02 Oct 2008 06:30:00 +0900</pubDate>

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<title>続・柿の木の庚申様　県道４６号線を行く</title>
<description>柿の木の庚申堂庚申信仰について調べてみました。「虫の居所が悪い」「腹の虫が治まらない」などと言うことがあるが、実は人間の体内には、  生まれながらにして三匹の虫がいるらしい。これを「三尸の虫」（さんしのむし）と言うらしい。この虫は、新婚さんを見ると　ヽ（*｀∀´*）ｲﾗｯｼｬｲバチアタリな話を戻そう庚申の夜、人が眠りにつくと天に昇り、天帝にその罪を告げ、天帝は罪の軽重に応じて、その人の寿命を決めていくといわれる。そこで、長生きを願う人々は、この日は眠らずに夜籠して身を慎んだという。上記の身を慎むとは当然、男女間の、いわゆる「少子化問題対策活動」を控えるという意味もあったそうな。（愛媛百科大事典）庚申堂をお参りして、さらに旧国道を進む。古い橋があった。三百田橋　昭和３８年３月竣工あちこちに遍路道がある。橋の手前に県道４６号線の表示が。さらに次の橋を超えて左折したら、県道４６号線　宇和島ー城辺青ビッツから、反対側を見る。青線かつての、県道４６号線ではないかと想像する。橋ができる前の一番古いルート。藩政時代のメインルートで藩主の領内見回りにはここを通ったと言う。赤線３つの橋が竣工したのはいずれも３８年３月。資料によればこの年に「法華津峠」「鳥坂峠」「内海トンネル」「犬寄峠」と共に整備されたとある。この時の５６号線がこれではないだろうか。２級国道だったそれ以前は、黄線のように左折していたと想像する。旧国道５６号線の松尾坂峠は、藩政時代は遍路道だったと言う。この道が車道として整備されたのは明治４３年　バスが岩松まで通ったのは大正８年であった。旧松尾トンネルが出来たのは昭和２６年。（愛媛百科大事典より）せいしんばしたきもとばしここがかつて、宇和島から南へ行くためのメインルートだった（と、思う）いきなり山道川がある　紫織橋ここにも遍路道が。　悠久の歴史を感じながら行きゆう。何時の時代から、歩いてた道だろう。ここにもバナナの木が！　後方は採石場こんな山奥にも工場がある。わき道があった。　このポンプは何のために？峠に差し掛かった。この先は、津島だ。津島方面から。ここから下りになる。ロープを張ってるわき道　林道か？判別不能の看板があった。判別不明の男が一人石が落ちてる！　いっしっし・・・ヽ（*｀∀´*）なんて言ってる場合ではない・・崩落してる・・ほうぅ！ここで引返せばよかったのだが・・・と後で思いました。先日パンクしたのも、こんな石ころを無造作に踏んだからだったな。綺麗に片付けてから進んだ。進むごとに落ち葉や枯れ木が道を覆うこの切れ端は？電柱でござる？ちょっと広くなったところにゴミが・・・・山奥の風景　さらに進むと・・・ぎゃ～～～～～さすがにこれ以上は進む気がしなかった。しかし回転できる所は・・・少しずつ、用心しながら下がる泣きそうになりながら数百メートル下がると資材置き場があった！緊急のため、入らせていただきます。ごめん！　チェーンはちぇんと掛けて帰りました。こんな恥ずかしいことを「三尸の虫」に天界に報告されたら、厳罰は間違いないな・・・庚申の日にはお堂に篭らなくっちゃ！最近人に言えない恥ずかしい経験をした人　一緒に篭りませんか！＼(^o^)／何はともあれこうして無事に帰れたのも行く前に庚申堂にお参りしたご利益だな。こうやってブログのこうしんもできるしね。                  ブログランキング参加中　ポチッと押してね♪</description>
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<category>旧宇和島市</category>
<pubDate>Mon, 22 Sep 2008 09:09:09 +0900</pubDate>

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<title>柿の木の庚申様　１　　</title>
<description>宇和島市祝森　柿の木の庚申堂中に収められて入る三猿全国各地に残されている庚申信仰には庚申（かのえさる）の日に、庚申堂にこもり眠らないで一夜を明かすと言う風習がある。この庚申堂を探しにいきましたが、現在自動車道路の工事が行われていて地図を見ても場所が中々わかりませんでした。近所のご婦人に話しかけたら、道を教えてくれて車を停めさせてもらった。ご婦人の話では、つい最近まで縁日には信者が集まりご詠歌をあげていたと言う。「熱心な人が亡くなったり、道路工事の立ち退きで引っ越してしもうて」今は昔ほど賑やかではないが、遠来からお参りに来る人が絶えないと言う。柿の木の旧国道　昭和５４年、現在の松尾トンネルが出来るまで宇和島と津島を結ぶメインルートだった。柿の木のバス停　国道にも同名のバス停があるが、ここは通学用で日に３往復のみ（学校休日は１便）バス停から国道方面の遍路道を進み、橋を渡って右折。樹木のトンネルが出来とんねる庚申堂の由来（サムネイル）（右手方面より）ここに出る。左方面に進めば国道へ道路をはさんで、時代の移り変わりを感じる。庚申堂下から見たところ時代を感じさせる手水鉢明治３３年の建物が、こんなに綺麗に残っているのは地元の方々が如何に協力してこられたかと言うことが判る。山の風景国道方面の風景宇和島道路と立体交差するこのボックス　ここに出てくる道路工事による移転がなくてよかった。ブログランキング参加中　ポチッと押してね♪</description>
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<category>旧宇和島市</category>
<pubDate>Sat, 20 Sep 2008 19:04:01 +0900</pubDate>

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<title>大浦の山から</title>
<description>いつも家の近所から見える大浦の山に登ってみた。ため池を目指して。広見川の支流がある。なんて名前だって？そんなの知りゅかいな・・川は住宅地を抜けてやがて山に住宅地はずっと上まであの曲がり角の笹があやしい！この道路が堤防になっている？ちらりと水面が見えた。　水は少ないようだ。危険が危ない！の表示草が生い茂り崖と道の区別がつかない。　危険なので深入りは避ける。農道をさらにあがれば・・・・・戎山が見える！さらに上がれば市内が一望　　高い煙突の建物は石丸の焼却施設か？戎山がより鮮明に見える。逆に言えば、戎山からここが見えていたと言うことか。なんだか不思議な気分だ。持参した１Lの飲料水も尽きたので下山する。　のどが渇いた。脱水症状をおこしそうだ。あ！あそこでワンが水を飲んでいるあ！丸々と美味そうな人間がおる！食ってやる！ワン！無事に帰って来ました。　新板島橋の上から鬼ヶ城を望む。後で判ったのだがこの日は今期最高気温を記録したらしい。ブログランキング参加中！　ポチッと押してね♪</description>
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<category>旧宇和島市</category>
<pubDate>Tue, 05 Aug 2008 07:43:27 +0900</pubDate>

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<title>薬師谷のイノシシとそうめん流し</title>
<description>今日、薬師谷のそうめん流しに行って来ました。すると・・・カメラマンが何かを写してる？イノシシの赤ちゃん！しかも慣れているそうめん流しの方の話では、親にはぐれたウリボウらしい。そうめんの残りをやってるので、時折山から下りてきている。近付くと怖がるので気をつけて欲しいという事でした。また、牙が鋭いので決して手を差し伸べないでくださいとのこと。日向ぼっこするウリボウ宇和島市内外から、涼を求めて来る人たち渓谷では下界の暑さが嘘のようにひんやりしている。岩戸の滝滝の中から子供連れのお客さんも多かったです。詳しい地図で見る</description>
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<category>旧宇和島市</category>
<pubDate>Fri, 01 Aug 2008 22:42:03 +0900</pubDate>

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<title>八幡様のイブキ</title>
<description>河原のほとりに立つ八幡様の鳥居八幡神社々殿前にあるイブキ　国指定天然記念物このイブキは源義経が植えたと伝えられている。樹齢約800年　ムササビが居て被害を及ぼすらしい「宇和島の自然と文化」（宇和島文化協会発行）より一対の狛犬に書かれた文字は宇和島市制を記念して奉納された。日付は合併成った大正10年（西暦1921年）8月1日故に今年は市制を敷いて87年これは試験に出ますよ（何の？）八幡様の氏子は、旧八幡村だけではなく、舟大工町や恵美須町も含まれていた。戎の字が、戒になってる？この槙本源造という人は宇和島が町制を敷いたときの初代の町会議員の一人（宇和島の明治大正史）によると当時は誰も議員になりたいという人は居なかった。できれば御免蒙りたいと思う人ばかりであった。仕方ないので各々の町内で協議会を開き、適当と思われる人を無理やり担ぎ出す。従って選挙運動などはする必要は全くなかった。上記の槙本氏は生涯議員嫌いで通した人で、ある選挙時期に、逃げて旅行に行ったが帰ってきてみるとちゃんと当選していたという挿話が残っている。当初は無報酬であったが、2代目町長のとき「歳費を払ってはどうか」と提案したとき槙本氏は「議員をやめさせてくれるのなら逆に町に寄付をしても良い」と言い出す始末であったらしい。それでも彼は、宇和島町と八幡村の合併委員に名を連ねている。議員は嫌いでも、宇和島市への功績は大なるものがあったのだろう。境内にある「八万橋」の親柱　いつのものか？これが現在の八幡橋須賀川下流　　JRの鉄橋の向こうで須賀川は高串川と合流する。和霊町あたり　　小さな川が合流してる。その川の少し上流の橋　反対側の親が撤去されているので年代が判らない古川橋　味わいのある文字だ。　「は」と「し」の文字を混成している。「わ」のような曲線のある文字は、描きにくいせいか、変形してる文字が多い。和霊神社前の川底になにやら？　走りこみのときの竹を指す穴か。清掃した後なのでよく見えている。もっと下流　須賀通りあたり　魚を取る人がここは海造船所のレールが古びている歴史をたどれば、限のない町宇和島。</description>
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<category>旧宇和島市</category>
<pubDate>Sun, 27 Jul 2008 08:21:36 +0900</pubDate>

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<title>白＆オレンジの恋人たち</title>
<description>ガイヤのアップ一番乗り？白いグループがやってきた。紅一点はクッパ大王か？それともキノピオ？（謎）よーいスタート！先は長いぞ！突っ走れ！明日に向かって！あ！思わずレッドゾーンを越えた！それは、もう・・・キミのハートにぱっしんぐ・おぶ・さいどらいん！　だぜーーーー！単に、「勇み足」・・とも言うマンダリンパイレーツは愛媛カラーのオレンジ姫たちが走り抜けた夏を忘れない！</description>
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<category>旧宇和島市</category>
<pubDate>Tue, 22 Jul 2008 20:46:16 +0900</pubDate>

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<title>和霊様　鳥居周辺</title>
<description>宇和島に帰ってもう一度、和霊さまの写真を撮ろうと思った城北中学校の「入らずの森」　ここが和霊神社だった時代があったらしい。日本一の大鳥居讃州　やはり徳島県か刻ざまれた文字の所が割れているやはり、元は一枚の石だったのか？そうしてると、フェンスの外から誰かに肩を叩かれた。「まーきみ。さん！なんしよらな？」ドキッ友人だった「大介庵に行かんかな？」「あーちょっと仕事が・・」「わしがおごるけん！」「さ！行くかな！！」明治時代の灯篭もう、道路の向こうまで行ってる。友人　知らなかったけどこの鳥居の柱にいっぱい名前が彫ってある。友人が待つ。急いで大介庵へあ！「たこやきなっちゃんだ」！　今日も美味しいたこ焼き食べてる人が。</description>
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<category>旧宇和島市</category>
<pubDate>Sun, 13 Jul 2008 08:13:39 +0900</pubDate>

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<title>もうすぐ和霊さま</title>
<description>梅雨が明けました。すっかり暑くなったですねー。暑くなったら和霊様ですね。この「太鼓橋」の上を大勢の人や神輿が空襲のことを調べていたら、この橋に焼夷弾の痕があると知りました。そういえば、宇和島市が空襲に曝されたのはこの時期です。大分消えかかっているらしい　見つかるかな？公園側から４段目、下流側の欄干から１ｍあまりとかあれ？？誰かが色をつけていた意外と小さい。１０センチくらいか。　すでに書きましたが、このあたりが空襲にあったのは２度。和霊神社が焼けたのは７月２９日須賀川付け替え前は、ここから左に流れていたらしい。あの左の角あたりが、かつての川の左岸か。　公園の中を流れて現在の国道あたりに沿って清岡眼科前を流れ市役所前の内港に。山村豊次郎の功績をたたえた石碑その右側にある水準点水準点は「地盤が強固な山や丘陵地に設置されることが多く、設置場所も道路から少し離れた林や公園の中などに設置され」とある事から、ここに川が流れていたとは考えにくいので、ここより左側を流れていたのだろう。このあたりか日本一の大鳥居大鳥居の両脇に、八角の台座を見つけた　（上流側）こっちも（下流側）何個かの石を組み合わせて八角にしたのかと思ったが、どうも割れたようにも見える。（上流）名前が刻んである。阿州（阿波）下浦邑　武市増助　と読める？徳島の古文書に名前があった。この広場で高校時代、２対２でよく野球をしていた。冬季以外は、朝から晩まで　よく体力があったものだ。その頃はまだ、慰霊碑はなかった。今日もきれいに掃除をしてくださる人が　ご苦労様でございます。</description>
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<pubDate>Fri, 11 Jul 2008 07:03:38 +0900</pubDate>

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<title>石碑は語る</title>
<description>最近は宇和島でも珍しくなくなった鵜やはり、大洲から来たのか？餌場がなくなって、宇和島に来たのか？ちゃんと真っ直ぐ来たのか？それとも、やはり、鵜だけに迂回して来た？さて、水辺だけにさらりと流して本題です。鵜が泳いでいたのは、城北中学校の前の須賀川。昭和初期の須賀川の付け替え工事の起点がこのあたりだと思って何か痕跡はないかと探していましたがこんなものを見つけました。折れた石碑？桜と書いてある。しかしまだ上に何か文字があったはず？六百年記念は、上に「皇紀二千・・・」と続くはず。文字の配列から察するに、桜の上に二字ほど文字があったのでは？これも上に何か文字が？昭和１５年の　「紀元二千六百年記念行事」は全国的に行なわれていました。宇和島の各所にこの文字を刻んだ石碑が他にもあるはずです。（丸の内の和霊神社にも有った）次に愛宕山です。左奥に見える高い石碑宮城（皇居の事か）を遥かに拝する所かそして、この塔の裏に宇和島尋常高等小学校天満山から撮影　左側が高等小学校　右の広い校庭があるのは宇和島商業学校これは昭和３年に宇和島市内の高等小学校を一つにまとめた学校で、場所は今の天神町（我々の時代天神小学校があった場所）にありました。宇和島市誌に「昭和３年　全市小学校の高等科を統合して、宇和島尋常高等小学校とし、これを第三小学校に併置した」とあります。第三小学校はこの年より「宇和島尋常高等小学校」と名を改め、他は「尋常小学校」となりました。昭和12年「宇和島高等小学校」　16年の「国民学校令」で中央国民学校と改称します。昭和２０年７月２９日の空襲で焼失。戦後予科練の仮校舎でしばらく授業を続け、23年学制改革により「城南中学校」「城北中学校」の二つに分かれます。この石碑は旧制の高等小学校の唯一の名残かもしれません。愛宕公園の桜は、宇和島市長山村豊次郎の兄で村松 恒一郎と言う人が「明治39年には戦争に対する功労の故をもって，政府から金三百円を下賜された。その金で，恒一郎は郷里愛宕公園に桜を植え，第２次大戦まで市民を楽しませた」（たむやむ　人名事典　村松 恒一郎より引用）と、あります。今の桜が総て、その時の桜なのかどうか、また当時の桜が残っているかどうか分かりません。「宇和島の明治大正史」によると、今の桜は2代目だそうです。第二次大戦中芋畑として開墾しました。愛宕公園の中腹にある芭蕉の句碑　明治丁未（ひのと ひつじ）とあります。調べてみると明治４０年でした。桜を植えた公園整備事業の一環として建立した碑でしょうか。全くの私見ですが、村松が対露強硬派であった事や尋常高等小学校教職員の石碑から「天皇を敬い、国威を高揚する」と言う意義があったのでしょうか。他の石碑にもそんな感じがする。最近亡くなった坂村真民氏の有名な言葉　宇和島東高校でも教鞭を取ったらしい。その右脇にある趣意書　ここにも皇紀を示す文字が。先日読んだ津村寿夫氏の「宇和島の明治大正史」にも日露戦争の勝利を祝って宇和津彦神社の上に作られた公園と書いてあったような記憶がある。しかし、調べれば調べるほど、歴史って不思議だなぁ。かつて頂上広場にあった「天狗杉」伊達秀宗が京都の愛宕山から苗を持ち帰り植えたものだと言う伝説がある。公園化は日露戦争の祝勝記念に北宇和郡医師会長小高元等が発起し、氏子の協力を得て造営したとある。津村寿夫著「宇和島の明治大正史」</description>
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<category>旧宇和島市</category>
<pubDate>Thu, 10 Jul 2008 09:50:29 +0900</pubDate>

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<title>野川の森林鉄道跡</title>
<description>ネットで偶然見つけた「滑床森林鉄道」の名残と思われる線路を使った橋が野川の旧営林署跡地にあるというので、探しに行きました。野川は狭隘な道が山中まで続き、決して車が通行しやすい道ではありませんが、昔仕事で毎日通っていたと言う経験から、割りと馴染みがあったので気軽に行く事ができました。現場の入り口です。右手の荒地は、十年ほど前は綺麗な畑でした。足の悪いおじいさんが耕していました。出会った頃は自転車で上がってきていましたが、それも危なくなると息子さんと思われる方に車で連れてきてもらっていました。畑の中を這いながら草を取っておられたのを印象深く思い出しました。畑に対する愛着の強さは、農業をしたことのない我々には想像ができないものなのでしょう。この小川は辰ノ川の名もない支流の一つでしょう。この上流に件の橋があるはず。国有財産売り払い地　やはりこの上流付近か？この上流らしいが、草が生い茂っている。　もうあきらめて帰ろうか？と思ったら上で人の気配が擁壁のヘリを滑りながら・・長靴を履いて来てよかった後で分かりますが、この手すりの左側、１ｍほどに小川があります。草深い夏場は、知らずに歩くと、大変危険です。人がおった萱（カヤ）を刈っておるんかや？この写真よく見ると、線路がここが探してた橋だ！おじさんに森林鉄道の事を聞いたら知っていました。いつ頃まで？と聞いたら「５０年くらい前までや、なかろうか？」「昔のものは、なんもかも無くなってしまいよらい」と述懐しておられました。このように、線路を何本も渡しています。脇には欄干も橋の向こう側の駄馬　ここに伐採した木材を運んできたのか。だとしたら、これから滑床にかけて鉄道の跡があるかもしれない。知らなかったら見逃してしまいそうな線路の橋長い年月の風雨にも耐えている。　そしてそれがそのまま「歴史」になる。すっかり近代的な宅地になって往時の面影は無い。時間は常に動いていると言う事か。</description>
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<category>旧宇和島市</category>
<pubDate>Mon, 07 Jul 2008 06:15:54 +0900</pubDate>

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<title>オレンジロード　夏物語</title>
<description>オレンジロード　花壇の花の植え替えが始まりました。天気が心配されましたが、運よくこの日は晴れでした。これから植える、たくさんの花の苗　数にして８００～９００くらいか？補導ボランティアや町内、公民館関係者と、大勢の人に集まって貰いましたので、順調に進みました。椅子に座ってる人は、交通量調査の人らしい。鍬で畝を作り色や花の種類に分けて植えて行きます。みんなで植えると、早い早い川崎源八木の周りにも、プランターを並べて外周にも植えて、出来上がりです。場所は、駅前通りの旧ロータリーです。皆さん、是非見てくださいね。梅雨時になんですが・・水をまきます。案の定、次の日は雨でした。残念！最後に掃除と後片付けで無事終了。花を愛でてくれた人には、花の妖精たちから「優しいハート」のプレゼントがありますよ。シャイなアナタ「照れるぜ・・よーせぃよぉ」なんて言わないで！</description>
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<category>旧宇和島市</category>
<pubDate>Mon, 30 Jun 2008 10:31:30 +0900</pubDate>

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<title>住吉山の三角点</title>
<description>小学校の時、遠足で行った住吉山に登りました。実に４０年ぶり？　上り口に行く途中に、石碑発見築地の花街を作ったときの記念碑コーラルホテルの駐車場前に須賀川付け替えのお話は、また後日に譲るとして登山道に向かいます。コーラルホテルから宇和島市立歴史資料館、宇和島徳洲会病院に向かう途中にあります。上り口から歴史資料館を見る。鬱蒼とした林が続きます。　石垣がありました。　これが住吉神社の境内の跡か？石に文字が彫ってある。（サムネイル）寛政七　乙卯　９月吉日　（グレゴリオ暦１７９５年１０月中～）日本史では、松平定信が失脚し大黒屋光太夫が帰国した直後あたり。そのあたりの時代に、出来た神社なのか？住吉山とか住吉町とか名前は知ってるけど神社のいわれは全然知らん周りの石積み崩れている貴重な遺跡が・・さて、頂上です。　宇和島で一番低い山かソメイヨシノが数本ありました。どれかがかつての「標準木」だったのか？建物はもう跡形もない。測候所だけに・・・（以下略）名札の付いた樹木が残るだけの公園広場の奥、左手に小道がこれは中から見たところ進んでいくと前方に三角点の標識があった！三角点を探せ！三角になってるのが目印だ！（うそ）草をかき分けるとありました！三角点なのに四角だ？なんて言ってるヤツはどこのどいつだぁぁっぁ～い！大切な物なので、無闇に触ってはいけませぬ！点名　住吉山等級　４等三角点基準点コード　　4932647401　周りに数箇所、観測点が見通せるように樹木を伐採したと思われる跡がありました。住吉神社のいわれを、調べてみたいと思いました。おまけ験潮場　もう一つの気象庁の施設は、こんなところにありました。</description>
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<category>旧宇和島市</category>
<pubDate>Mon, 23 Jun 2008 00:01:41 +0900</pubDate>

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<title>別府航路の跡</title>
<description>今は使われていない宇和島運輸の待合室の裏に、残っている案内板。今、誰のために此処に立っているのか？ここから車を搭載していた。もう、ここが稼動することは無いのだろうか験潮場も以前は、大浦にあった。この灯台も、昔は対岸にあったような昭和３５年頃　小林旭がギターを弾いている。この女優は？ここに松根東洋城の句碑があります。貝寄や　あこやはいづこ　うつせ貝この句碑は元、坂下津の県立水産試験場（現・水産高校学生寮）にあった。宇和島真珠養殖組合の要請で建立された。没前年（1964年）のもの。</description>
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<category>旧宇和島市</category>
<pubDate>Tue, 17 Jun 2008 01:51:57 +0900</pubDate>

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<title>お台場</title>
<description>宇和島藩には３つの砲台があった。一つ目、久良砲台（愛南町）二つ目、樺崎砲台（築地）そして、もう一つが小説や歴史書などには記載され、図面も残っているのですが長い間場所が特定されずに「幻の砲台」だったうちの裏山の砲台について、「お台場」「玉蔵」と言う地名が語り継がれている場所がある事を知りました。５０年程前には穴を掘っていて砲弾と思われる鉄の玉を数個掘り出し、子供達が転がして遊んでいた。。。と言う話も聞きました。歴史を研究してる人たちと一緒に地権者に案内してもらいました。赤松遊園地から見た所大浦から現場です。対岸樺崎に近いところこの小道も、当時に作った物か？周りを探索お台場と呼ばれていたところ。この前方に他の畑とは明らかに大きな石を使った壁があった。これは別の場所下からしかも、その段のさらに・・下は・・・草をなぎ払ったら、吸い込まれるような絶壁　７～８ｍはあろうか・・落ちたら大変！足がすくむいわゆる土木の石積みの三分勾配より急傾斜に見えた法面。　人工的に作ったに違いないが農地のためならこんな危険な崖は作らないだろう。やはり、「お台場」風設計か？敵に対する備えとか、戦略的な理由があるのか？そういえば、樺崎のお台場も、周りは堀があった。敵が攻め寄せてきた時の備えがあるのは当然と言えば当然だろう。だとしたら、こんな身近に戦場があった？生まれ故郷に軍事施設があったとしたら驚きであり、歴史の息吹を生々しく感じてしまうのは私だけだろうか？この露出した自然石は悠久の時間の中で総てを見てきたのだろう。明治初期に、宇和島藩士によって作られた図面　頓所や井戸も記されている。射程方向は、樺崎方面より北、赤松～大浦あたりに見える。追記宇和島市誌によれば明治28年に避病舎（伝染病隔離施設）を九島村の内、坂下津長衛門谷旧火薬庫跡に建築したとある。長衛門谷の場所はスイミングスクール裏の山の麓～宇和島道路バイパス坂下津トンネル付近までを言う。伊達温泉敷地内にある、これは旧海軍航空隊の火薬庫　避病舎はもっと北方だったらしい。（サンワの裏あたりか）その火薬庫が戎山砲台のために作られた火薬庫だったのだろうか？全然オマケ</description>
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<category>旧宇和島市</category>
<pubDate>Mon, 16 Jun 2008 09:11:31 +0900</pubDate>

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<title>お堀の水は、しょっぱいか？</title>
<description>セイコウさんから借りた、天保時代の宇和島の見取り図トレースしていますが、未だ途中お城山西部　お城山東部赤の十字は合印（あいじるし・・愛食さるじるしの略ではない）２枚の図面を合わす為に２箇所、離して入れました。合印を合わせた所未だ未完成。お恥ずかしい根をつめてやってたら、肩が凝って休んでいます。あ！肩が凝ったのは仕事のし過ぎという説も！（極一部に）字が汚くてスンマセン最近知った事（聞いたこと）宇和島城のお堀は、海水を引いて、と本に書いてありますが明治初期に撮った写真では大手門（現、メガネのミキあたり）や豊後橋（現、松林眼科付近）には蓮が群生していました。標高が一番高いのは大手門あたりか？護国神社近くの1等水準点から概算すると７～８ｍ近くはあったのではないでしょうか？天赦園から北側（城南中学校あたり）には鶴池と言って鶴がたくさん生息していた沼地があったそうです。もしやそれが「鶴島城」の由来か？（鶴の剥製は天赦園に現存する・・とオジさんが言うとられましたですけん）故に海水であったのは、内港あたりを中心とした東西で、標高が高いところは湧き水だったのではないでしょうか？三浦屋人形店が経営してた「いずみサウナ」も地下水でした（井戸は現在もある）ように、あのあたりは地下水が豊富なところです。サブライムあたりには「純友」と言う酒を作ってた造り酒屋もあったし。日ノ本焼酎を生んだ「日本酒類」あたりもまた美味しい水に恵まれていたのでしょう。汽水域はどのあたりで、どんな植生物が存在していたのか今となっては知る由もありません。以上はほとんど聞いた話や資料からの想像ですが、「堀の水が全部海水ではなかった」のかな？セイコウさん、来週早々にはお返しに上がります。</description>
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<category>旧宇和島市</category>
<pubDate>Thu, 12 Jun 2008 08:05:15 +0900</pubDate>

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<title>ＴＨＥ　ＩＭＯＴＵＢＯ</title>
<description>さて、ここでお約束の問題です！子供の頃、オイタをしてママから「そんなワルい子は〇〇〇〇に入れます！」と叱られて「くらいよ～せまいよ～こわいよ～」（面堂 終太郎風）と、泣きじゃくる。場所は？スタンダードなところでは、「押し入れ」ところが最近、私より一回りも若い女性から違った風習があるのを聞いた。それは「イモツボ（芋壷）」　↑これではないこれだ！最近取り壊した、築100年くらいの民家。実際に入れられた子供がいたかどうかは別にして、それをいわれた子供は震え上がったらしい。芋が主食だった時代、秋に取り入れた芋を翌年の春くらいまで保存した。どの家も畳に当たるほど詰め込んだという。周りより高くして、水の浸入を防ぐ。それ以降から盆過ぎの芋ができるまでは、切り干し芋を使った「かんころめし」や芋の粉を使った「芋の餅」に替わる。左が切干、右が芋の粉（乙亥の里で購入）戦後に建てられた家はイモツボはほとんど見られないと思います。</description>
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<category>旧宇和島市</category>
<pubDate>Tue, 03 Jun 2008 09:57:50 +0900</pubDate>

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