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<title>新・気功的整体師の奮戦記</title>
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<description>宇和島の海辺の町で究極のリラクゼーションを目指して整体施術をしています。</description>
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<pubDate>Wed, 06 Feb 2008 19:21:52 +0900</pubDate>
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<title>宇和島タイムスリップ　花街</title>
<description>先日、住吉山に登ろうと出かけたところコーラルホテルの駐車場前に石碑発見築地の花街を作ったときの記念碑この石碑を見ると、今では聞き慣れない言葉「料理屋業組合」「置屋業組合」などが書かれています。昭和の初期、須賀川の付け替えにより北新町（現・御幸町あたり）から泉新田（現・築地）に移転してこの新天地で営業を始めた上記の組合によって建てられた石碑のようです。撰文は高畠亀太郎市長　昭和１５年８月吉日　となっています。この石碑がある地域は、９０年代に埋め立てられた「朝日運河」の中になります。後に見えるこげ茶のマンション「東雲」の前までが運河であった地域です。朝日運河があった位置北新町あたりにあった花街が、泉新田に移転するきっかけになったのは、その所属する八幡村と宇和島町の合併協議が行なわれている大正９年に遡ります。宇和島町との合併がこじれていた現状を見かねて、在京の穂積博士が仲介の労を取った事は既に述べたとおりですが、合併に反対する人々に翻意を促す意外な出来事が起こりました。それは巡視に来た新任の警察部長が、「風俗取締りの観点から、農村に芸者を置くことは一律に禁じる方針であり、そうなると八幡村も村であるから当然置く事は参らぬ事になる」と警告したのでした。当時北宇和郡には、八幡村の他に「三間」「旭（近永町）」「明治（あけはる・後の松丸町）」「日吉」など各村にも花街がありそれぞれ全盛を極めていました。大正年には当時の鶴島町を舞台にした「伊予の仇浪」事件も起りましたが、この項では割愛します。八幡浜の経済基盤は当時、花街からの収入に拠る所が大きくもし廃止になれば現在の財政は維持されなくなります。これによって急転直下、翌年の合併実現となったのです。さて、合併後に予定された大事業のうち水道敷設は紆余曲折の大苦心の末に、大正１５年に県下に先駆けて完成することが出来ました。そして昭和五年よりもう一つの懸案事項「内港整備に伴う須賀川の付け替え事業」が始まりました。そして、その新しい須賀川が当時の花街を通るために、新たな移転先について警察を交えて協議することになったのでした。須賀川沿岸の地図　上の赤枠が「北陽花街」　下が「築地花街」佐伯酒店、キリン館（現・清岡眼科）前から国道５６号線にかけて須賀川が流れていた。この須賀川を、和霊神社の前方に架かる「御幸橋」から上流１２０間（約２２０ｍ）現在の城北中学校あたりから破線の部分に付け替える計画でした。昭和３年より用地買収交渉　買収対象面積１万５５５０坪、居住世帯１５０件、うち花街関連は、料理屋２５、置屋９軒が移動の対象となりました。地代、家屋の移転補償、休業補償なども市から拠出されました。施工は東京清水組（現・清水建設株式会社）起工は昭和五年完工は昭和７年１０月　通水式は翌年一月。ちなみに上水道の通水式同様、工事の一番の功労者である山村豊次郎はその席にいませんでした。起工式の翌年に行なわれた市会議員の選挙で自身の所属する政友会が民政党に敗れたため民意を尊重して辞職したのでした。昭和３５年頃の須賀川さて、花街の移転に関する警察の見解は「現在の北新町（北陽）は不適で、泉新田が適当であるが過去に現在地に集めるよう圧迫された歴史に鑑み、移転するのも現地に残るのも許可する」と言う方針であると言う極めて寛大なものでした。拠って、未開不毛の泉新田地区を敬遠し現在地に残る業者、新たな地で花街向きの建設を行いたいと言う業者とに分かれることになったのです。北陽の芸妓たち（大正１０年頃）築地花街　店の名前が記されている。その後、両者がどのような興隆ー衰退の歴史を辿ったかは、宇和島市誌には書かれていません。一時期は「料亭政治」が宇和島でも主流となり、山村豊次郎などもそれらを大いに活用したとある。戦後の民主的な法整備や生活様式、社会様式の変化により、その歴史は人知らず時代の波の中に飲まれていったのでしょうか。朝日運河から見た築地花街の様子（昭和３０年代か）映画「続・大番」より加東大介や多々良純三木のり平資料１　宇和島懐かしの写真集（遊郭）資料２　「築地建設記念」の石碑（サムネイル）資料３　原文を起こしたもの　所々間違いがあるかもしれませんがご容赦を昭和四年宇和島市港湾改修の進捗に伴い須賀川付け替えの議、決するや河身北陽を貫くを以って市長山村豊次郎深く之を憂い業者を融通して花街移転は計画を樹つ。業者は今岡松太郎、藤原茂馬、矢島亀壽、曾我禎吉、吉本格一、河野利八、上田輝廣、青井清三郎、小島岩太郎等、率先之に賛同し相謀りて地を朝日町埋立地に相し初めて築地と命名し花街建設を企画す。ここにおいて、まず地主兵庫県石野巳之助交渉してその協力を得、昭和五年四月料理屋営業地許可の指令に接すると共に直ちに工を起す。即ち葦萩を刈り〇棘を抜き衆人一願となりて土地開発に富るや、日ならずして環境全く面目を一新す、これ実に築地の草創なり、後石野は之を〇りて友人御影町、八木秀次郎志を継承し力を事業遂行に頒注す。家屋建築は専ら大阪市の請負業者黒石富蔵手にたくし六年五月営業を開始す。その間幾多の障害と困難に遭遇せしも業者よく結束して之に堪え拮据経営数年を経て基礎漸く定まる。爾来宇和島市の発展と共にこの地業界順調の進歩を遂げて遊宴の諸設備整い、社交場欠くべからざる地区として今日の興隆を見るに至れり。その創立10周年に際し、築地料理屋業組合、置屋業組合、によりて記念の碑を建て事跡を禄して永くこれを伝う。昭和15年　八月吉日　宇和島市長　高畠亀太郎　撰　拝書</description>
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<category>宇和島・南予タイムスリップ</category>
<pubDate>Wed, 25 Jun 2008 08:39:13 +0900</pubDate>

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<title>電話のお話</title>
<description>世界的に人気沸騰のアップル社の携帯　発売と同時に品切れが予想される（らしい）それはさておき、話はいきなり変わります。度々登場　「わたしたちの宇和島市」この中に水道に関して、次の記述がある。小学校の時、この文を見て印刷ミスではないかと目を疑った。当時「松山、新居浜、今治に次いで宇和島市は４番目の市」と言う思い込みがあった。「水道もまず松山が一番かと思った」と友人と話し合った記憶がある。大正年間に、上水道敷設を巡って山村市長を初めとする宇和島市民や在京の穂積博士がどれだけ苦労したかと言うことは折に触れて何度も述べた。そういった中で「宇和島が県下に先駆けて、水道を引かなければならない理由」と言うものが少しづつ見えてきた。さて、時代は更に明治時代に遡る。この時代既に、宇和島が県下に先駆けて行なった事業がある。それは「電話架設」注１（異説あり）その理由はやはり宇和島人の気性に拠る所が大であったのか。それは「でんわ、いそげ！」・・・・・・・明治三十六年、市内に閑居する一人の男が助役の一人に抜擢された。（当時の助役は２人制）元、大津警察署長　桑山吉輝かの「大津事件」があったときの署の責任者であった彼はその責めを負い職を辞して故郷に帰っていたのだった。事件から既に１２年が経過している。古言に「小人閑居して不善を為す」とあるが、重職を離れて多年経過した彼が助役に推されるという事は如何に人望があったかと言うことが伺われる。宇和島に限らず何事も発展の蔭には必ず「有為な人物」と「それを認める心ある市民」が存在する。詳しい経緯は割愛するとして一番困ったのは電話会社が架設のために提示した条件「電話口数は９０軒以上」が中々集まらなかったことだ。それは「架設負担金は１１５円」があまりにも高価で（一般家庭の４ヶ月分の生活費）商家が二の足を踏んだためと思われる。当時の反対理由を列挙してみると電柱が交通の妨げになる電話で用を足す事になると店に来る客が少なくなる。電話で注文されると配達しなければならず、余計な人手がいる。電話口で値切られると応対に時間を取られる。などなど、今では考えられないことだが、新しい時代の幕開けに抵抗する理由はいつも似たようなものだったろう。後年、大相撲がラジオ放送を開始する時も「誰も国技館に来なくなる」と言う反対意見が多数だったと言うし、同様の理由で吉本興業も芸人のラジオ番組出演を禁じていた時期もあったと言う。ただ、その中で現代でもありそうな反対意見があった。それは「いけんてや！」もうえぇわ！(ﾟДﾟ)ﾉﾊﾞｼｨｨｨｨｨｨｨｨ(ﾟДﾟ)ﾉﾊﾞｼｨｨｨｨｨｨｨｨ(ﾟДﾟ)ﾉﾊﾞｼｨｨｨｨｨｨｨｨ失礼しました。。。。現代でもありそうな反対意見、それは　「それほど電話が有益なものならば、県庁の所在地である松山などは、とっくの昔に開通していなければならないはずである。松山でさえも実現していない所を見れば市民が必要を感じていない証拠である。宇和島などが電話電話と騒ぐのはまだ早い」と言うものであった。それに対し理事者らは下記のように答弁している。「・・由来松山人間は何事にも消極的で、積極進取の気象がないからである。宇和島がその真似をしていたなら何時迄も発展を見ることは出来ない。・・後略・・」と言うものであった。（原文まま）松山のみなさ～～ん、私が言ったんじゃないんですよーーー　　[市駅]_･)ﾁﾗｯま～そのぉ・・田舎の人が都会の人のように鷹揚に構えとったらいけん！と言うことが言いたかったんやろうね。宇和島の電話事業は９０口の目標額には達しなかったが不足分を町が補い架設は成った。意外にも架設された電話に人気が沸騰し電話の有る家には見物人が押しかけ、持ち主が用もないのに電話をかけて見せると行った始末である。そのうち近所で電話のベルが鳴ると気が気でなくなりやがて自分も欲しくなって行く。「あの人が持っとるけん、わしも買わんといけんてや！」ちょうど携帯が普及しつつある時期と酷似しているな。やがて一桁の電話番号をプレミア付きで奪い合う騒ぎにもなったという。水道と電話、これは宇和島が一番だった。それはたまたまではなく、そうすることが宇和島の発展にとって必要だからそうした・・というだけの事なのだろう。自治体の合併が進めば進むほど、地方の力は中央に奪われていくのかもしれない。しかしながら「都会に追いつけ！追い越せ！」ではなく、常に先を行かんと、宇和島に未来は無いぞ！の気概を持ちたい。注１出展は津村寿夫氏の「宇和島の明治大正史」によるが、「明治４１年３月２６日松山郵便局が電話通話事務開始」（四国電信電話事業史）明治４３年広島逓信管理局設置される（広島・島根・山口・愛媛の４県管轄）同年７月２６日宇和島郵便局電話交換業務を開始、加入９４台」などの説があり、現在調査中。</description>
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<category>宇和島・南予タイムスリップ</category>
<pubDate>Sun, 08 Jun 2008 07:55:54 +0900</pubDate>

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<title>宇和島タイムスリップ余話３　古い地図</title>
<description>宇和島及び南北宇和郡の古い地図のコピーを貰いました。何枚かに分かれています。伸縮しないテープで貼り合わせます。コピーなので歪んでいて、ぴったりとは接合しません。なんとかできた。これが一番古い時代　明治４３年に出来た地図です。拡大すると１　丸穂尋常高等小学校　（ホルモン　はちのす　のあたり）この区域は宇和島町になりますが、宇和島を三方に囲んだ形の丸穂村は、どの地域からも均等な距離に小学校を作ろうとしたら、どうしても宇和島内になってしまうという事で、ここに建てられました。行政区外に自らの小学校を建てたと言うのは全国的にも類を見ない事例だそうです。２　宇和島女子尋常高等小学校　宇和島商業学校（たばこ産業跡地）５にあった尋常高等小学校から男女に分かれて女子の尋常高等小学校が出来ました。その右側が宇和島商業学校です。３　宇和島中学（現・市立病院の西隣）宇和島中学　商業学校と共に宇和島東高校の前身です。位置は丸穂村字鶴島（当時）４　宇和島高等女学校　（新市立病院　）宇和島家政女学校と共に、南高校の前身です。最近知った事ですが、ここは現在、新市立病院が建設中ですが、裁判所があった頃から「宇和島高等女学校の記念碑」があって、市立病院になってもそれは保存、設置されるそうです。明治、大正時代の学校創立の地で、記念碑が残っているのは「宇和島高等女学校」だけではないでしょうか？宇和島中学も宇和島商業学校も、創立の地がどこなのか忘れ去られようとしています。あるいは、時の流れとしてそれはそれでいいのかもしれませんが、「古きよき時代」を残そうと言う運動は、将来の宇和島にとっても大切なことではないかとも思います。ちなみに赤丸印は、宇和島実科女学校創設の地ではないかと思います。（現・賀古町）５　宇和島男子尋常高等小学校　（宍戸医院あたり）桜田屋敷跡に建てられました。６　宇和島幼稚園宇和島幼稚園は県下でも４番目に古い幼稚園だそうです。残念ながら現在はありません。平成１１年３月閉鎖４月より「わかたけ」大正１１年の地図　宇和島市発足１　宇和島商業学校　（ホルモン　はちのす　のあたり）丸穂尋常高等小学校は村が宇和島市と合併したので廃校になり代わって商業学校が来ました。商業学校は以後、３度引っ越します。（天神下ー予科練跡ー東高校）２　第二小学校　再び共学　現在の鶴島小学校の前身です。３　宇和島中学商業学校と共に宇和島東高校の前身です。現在の位置です。４　宇和島高等女学校　（新・市立病院　）場所に変化なし５　第一小学校　（宍戸医院あたり）ここが明倫小学校の前身です。６　移転した宇和島幼稚園　個人の寄付により建てられたそうです。平成16年このあたりで工事中に櫓の石垣が見つかって新聞記事になった事がありました。石垣はそのまま埋め戻されたので、元の姿のまま残っているはずです。この場所を通る度に、悠久のロマンを感じます。７　県立実科女学校（宇和津小学校）宇和島高等女学校と共に南高校の前身です。意外と知られていませんが、戦後しばらく城南中学校でした。８　第三小学校（法務局や社会保険事務所あたり）後に市内の高等小学校をここに統合しました。この場所は幾つも学校が入れ代わり設置されました。明治時代、ここに学校が建てられた時に天神様にあやかる様にと「天神下」と言う地名が付けられたと言う事です。（丸穂村時代）天神小学校と言う名前になったのは、戦後この地にあった城北中学校が現在地に移転した後です。宇和津小学校と同じく、戦後しばらくして児童数の増加から校区を再編して分かれて出来た学校です。９　第四小学校（勤労青少年ホーム）後の和霊小学校１０　宇和島酒類株式会社（ＪＡえひめ南中央）言わずと知れた大宮庫吉翁を輩出した会社　翁はこの頃既に京都へ１１　第五小学校（天満神社の近く）後の住吉小学校この頃になると、今の学校との関係がが見えてきます。昭和３４年にピークを迎える児童の増加に対応するため、財政再建途上にある宇和島市は学校の増築資金を捻出するため、昭和２６年頃から校区毎に目標額を定め、ＰＴＡを中心に一般市民から資金の借り入れをする事に決定しました。市民は概ね協力的だったようです。鶴島小学校の講堂が新設した直後に、本館が火事になった事があり驚いた付近の住民は挙って消火活動に駆けつけたと、今でも公民館などで古老から聞く事があります。「自分たちが建てた学校」と言う強い愛着心があったのでしょう。これから宇和島が迎える小中学校の統廃合も歴史の流れの一つでしょう。その中で我々が今、一番しなければならないことは何でしょうか。</description>
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<category>宇和島・南予タイムスリップ</category>
<pubDate>Fri, 06 Jun 2008 02:17:13 +0900</pubDate>

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<title>宇和島タイムスリップ余話２　　寿像</title>
<description>以前にもふれたが、大宮庫吉翁をよく知る人が、ホールに自分の名前を残したり、自身の銅像を建てる事を認めるのは「理解でき難い」と述べたと言う。「大宮庫吉小伝」によればかつて「ロダン像」の京都流出を防ぐために多額の寄付をしたときも「名を秘す京の篤志家」と地元紙に報じられた（大宮氏の名を報じた新聞もあった）決して目立つ事を決して喜ぶ人柄ではなかった事が伺える。図書館で色々調べているうちある本に出合った。「十一文の足跡」梶原計国梶原氏の銅像（三島神社）　梶原氏は、地域に功績のあった人々の銅像を各地に建設した実績があった。銅像と言うのは私は亡くなった人に対して造るものかと思っていたが、そうばかりではなく生きている人間に対し「いつまでも長生きして郷土のために尽くして欲しい」と言う思いを込めて作る場合が多いらしい。氏の最初に手がけたのはは南宇和郡出身で政財界で活躍した二神駿吉の銅像を故郷城辺町の諏訪神社に建設した事である。その他、宇和島各地にも多くの銅像を建設するために運動するため、「いつしか私は銅像の相談所になってしまった」（十一文の足跡）と言う。八幡屋春太郎翁（赤松遊園地）山下亀三郎（翁吉田町　横堀公園）清家吉次郎翁（吉田役場・当時）上記の銅像以外にも多くの銅像建設に尽力したり関わったりした（本文より）梶原氏の著書の中で大宮庫吉翁が公会堂に多額の寄付をしたときに、元市長の中村純一氏から翁の銅像建設について相談を受けたとある。建設場所　　　　和霊公園作家　　　　　　　木村硅治氏建設委員長　　　中川千代治市長題字　　　　　　　池田勇人氏撰文　　　　　　　伊達宗彰氏昭和３６年に夕刊宇和島日日に梶原氏の「大宮庫吉翁寿像の除幕式に寄せて」と言う題で挨拶文が掲載されているが、彼が庫吉翁と直接交渉したという記録は見つからなかった。しかし、他所に比べて銅像の少ない土地柄であった宇和島に銅像建設のマニュアルを作り上げた事は事実であろうと思われる。この文中に、上記の二神氏が吉田町の山下亀三郎翁（既に物故）の銅像除幕式の挨拶の時にこう述べたと言う記録がある。抜粋おい、山下の兄貴、ここにあんたの銅像が出来た。こう言えばあんたは、「お前が余計な口を利いて俺をさらしものにする」というだろう。どっこい、そうは言わせない。先年僕の寿像の話が持ち上がった時あんたは何と言ったか「あんたの銅像は、あんたのために建てるんじゃない、郷里の後輩を奮起させるために有志の者の思い付いた事で、あんたの関係する事じゃない」と、僕に猿轡をはめたじゃないか。・・・・後略・・・尚、祝辞の中には山下翁の子息は「この悪い時期に人様へご迷惑をかけては・・」と延期を申し出たが、二神氏が説得したとある。余談だが九島村が宇和島市に合併したのは昭和９年だが、大正年間から宇和島市に近い戎山や保手は、学校や病院など生活圏を宇和島市と共にしていたので分離合併を望んでいた。その合併委員長に保手出身の梶原氏の名前を見ることが出来る。宇和島市誌より「吾々二部落は宇和島市との合併を希望し、これを為すに非ざれば吾が部落の向上発展は期せども望めざるの現状にあり、宇和島市庁当局においても吾等の苦衷を諒察せられ、一日も早くこの問題を解決するようお取計らいあらむことを望む　右連署の上陳情候也　　昭和３年１０月　１６日」</description>
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<category>宇和島・南予タイムスリップ</category>
<pubDate>Tue, 03 Jun 2008 22:51:31 +0900</pubDate>

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<title>宇和島タイムスリップ余話１　ホッキョクグマ</title>
<description>先日ゆうこさんが来られた時、この項を書きかけていたので大宮ホールの話をするつもりで「ゆうこさん、シロクマ知ってますか？」と聞いたら「あ！知ってますアイスクリームですね！」・・・・・・これかい！カップ詰めされた白くま（天文館むじゃき・750ml）白くま出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』白くま（しろくま）は鹿児島県の氷菓で、鹿児島名物として知られている。鹿児島で白くまはかき氷の代名詞である。スーパーマーケットや駄菓子屋の軒先で売られるカップ入りかき氷も「白くま」である。南九州では古くからよく知られているが、ABCテレビ「探偵!ナイトスクープ」で取り上げられたこともあり近年では全国的に知名度が高い。べ・べつにうちに来てくださったからといって、、、わざわざネタ入れてくれなくても・・・ありがとうございます！早速頂きました！さて本題行きます！先日、デジカメを持って市役所に行った。目的は、ロビーに飾られている「ホッキョクグマ」を撮影するため。大宮ホールの事を書こうと思ったとき、かつてそのロビーにでかい「ホッキョクグマ」のハクセイがあったのだ。大宮ホール取り壊してからは、市役所のロビーに飾ってあるのだ。が・・・・・ウシオニしか、おらんてや！近くに居た親切そうな　柳原加　「ショップ店員」風な職員に聞いてみる。「せっかく白クマの剥製、写真撮ろぉおもたのに、どこにしもたんぞな！」そんな乱暴な言葉は使わなかったが、大体において自信を持ってそう聞いた。「？？？シロクマなんかいませんけどぉ」「白クマ言うてもなー鹿児島のアイスやないで！ホッキョクグマや！ここにあったはずやが？」「気になっちゃう感じですかー」「じゃー電話して〇長さんに聞いてみるねー」職員さんがわざわざ尋ねてくれたのは、南予文化センターと伊達博物館「そかそかそか～わっかりましたーー」ガチャリ「ごめーん！担当者居なかったわ～」・・・・おぉやや年配の職員も出てきて首をかしげる。見たことないと言う。ここにきて、やや自分の記憶に自信が無くなったぞ。昔の事をあれこれ調べていて判ったのは「人の記憶ほどあてにならないものは無い」と言うことだ。過去のブログにも書いたが思い違いが多数あった。おそらく「大宮ホールにあったホッキョクグマの剥製は現在市役所にある」と思い込んだと言うのは、その中でも最大級の珍事であろう。聞いた話だが。「大宮ホールの前に大宮庫吉さんの銅像があった！」と言い張る人も過去に居たそうだ。おぉ！同士よ！　この地上最大の「オオボケ」どうしよぉ？しかし、このオオボケのおかげで、思わぬ真実を知る事になったのだ。その数時間後、件の職員さんから電話を貰った。当時の事情を知る方が居たのだった。概ね下記の通りであった。昭和４９年１０月頃、伊達博物館に移管昭和６２年７月　　虫食いなど傷みが激しく処分したとのことだった。そして、どうして宇和島にホッキョクグマが？と言う疑問に対する答えが見つかった。なんと、昔宇和島で公演した「木下大サーカス」に連れて来られて、この地で死んだホッキョクグマを宇和島市が剥製にして保存したのだと言う。知らんかった。子供の頃、いつもそこにあるのが当たり前のように見ていた剥製。説明文かなにか立ててあったのかどうかも知らないし、話題に上ったこともなかった。ただ、「大宮ホールにはシロクマの剥製がある」と言うことだけ思い出していた。宇和島市役所にあったと思い込んだのはどうしてだろう？不思議だが、色々な事がわかってよかった。宇和島のあちらこちらに、歴史のロマンが眠っているのだね。ホッキョクグマ出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』ホッキョクグマ（北極熊、Ursus maritimus）は、哺乳綱食肉目クマ科に分類されるクマ。動物愛護管理法の規定による特定動物。地球温暖化の影響によって絶滅の危機が高まり、IUCNレッドリスト2006年版では、それまでの「保護対策依存種」（LR/cd）から、さらに絶滅のおそれの高い「危急種」（VU）に変更された。おことわり拙ブログには所々創作があります。市の職員さんは実際にはお笑いネタの「ショップ店員」さん風のトークはしません。まじめで且つ親切な対応に大いに感謝申し上げます。m(__)m</description>
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<category>宇和島・南予タイムスリップ</category>
<pubDate>Mon, 02 Jun 2008 10:02:54 +0900</pubDate>

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<title>わたしたちの宇和島市３　第一次産業</title>
<description>「はたけのしごとも　りょうのあいまにしていますが　このあたりでは　のうぎょうとぎょぎょうを　いっしょにしている家が多いようです」（わたしたちの宇和島市４２年度版より）半農半漁がこの地方の特徴でもある。我家もかつてそうだった。そして、自分もそうなるのが当たり前だと思っていた子供時代。「まーきみ。は不細工なけん、みかん作りも出来ない！」父談「まーきみ。は他になんちゃようせんけど、肩たたきだけは本職より上手なわい！」母談冗談のような話だが、今思えばこれら幼少期の親の会話が今の自分の職業を決定付けたと言っても良い。恐ろしきかな、親の洗脳さて、余談はともかく・・今は柑橘類に替わったが、かつては年間１３万トンの芋の生産があった（昭和４２年）薯に向く畑と、みかんに向く畑は微妙に違うらしい。そのようなマニュアルも失われつつある。山と言えば畑、畑といえば山このあたりの田んぼはだんだん消えてしまった。昔は、「店は商店街、工場は朝日町や築地・住吉町あたり宇和島の南北は田園だった。時代の流れとはいえ、「売る」施設が増えて「生産する」施設が減少するのは如何にもアンバランス。４５年ほど前に設置された近所の索道　使わなくなって久しい。　昨年撤去傾斜の激しい段々畑　転がっていきそうだ。宇和島は各種の農作物が、バランスよく収穫される土地だと聞いた。うまく行けば自給自足も可能だと。戦後しばらくはそうだった。しかし、芋や麦ばかりの食生活が、米のそれと比べて如何に辛いものか、私はよく知っているつもりだ。それらの気持ちがその後の開発と一次産業の衰退を招いたと言っても良い。食生活を町並みにしようと「原発誘致」の話を持ってきて、混乱した事もあったくらいだ。まーきみ。家の離農は祖父の意見を押し切って父の時代に始まった。「百姓では食えんけんな」祖父の嘆きに、父はそう答えていた。漁船を手放したのも同じ理由からだ。ここに伝馬船を係留して、魚釣りをしていた。かつて、我家が漁業だった唯一の証「ちりめん」　この頃は漁獲量も減ったようだ。子供の頃には「まーきみ。の手も借りたい位忙しい」かったので、よく手伝いに行った。陸揚げされた魚は、氷で冷たく。釜場は暑い。作業は朝６時頃から、大漁の時はお昼を越えた。毎日数千貫の漁獲があった。舳先が海面すれすれの船を毎朝迎えた。戦前も戦後も「大企業を誘致し、税収と雇用を計る」と言う政策は市を上げて行なわれたが、戦争や企業の海外進出など社会情勢に翻弄されてこの地を去った。言い方は悪いが「逃げ場の無い」地場産業でなければ「国家百年の計」を成し遂げる事はできない。今本当にやるべきことは荒れた田や畑を少しでも元に戻して行くことではないかと、荒れた山々を見ながら思った。数ある段々畑のなかでも、この石積みは立派だ。</description>
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<category>宇和島・南予タイムスリップ</category>
<pubDate>Mon, 28 Apr 2008 19:56:51 +0900</pubDate>

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<title>わたしたちの宇和島市２工業</title>
<description>「わたしたちの　宇和島市では、ちかくのものを　つかって　ものをつくる工場を　さかんにするとともに　大きな工場をよぶことが　宇和島を　ますますさかんに　することだと思います。」（わたしたちの宇和島市昭和42年度版）戦前の一大企業誘致「近江帆布」は戦争と言う事情もあっただろうが6年半で操業停止した。従業員数1000名平成の企業誘致「シロキ」もすぐ撤退したような印象があるが、近江帆布の倍以上の期間は操業していたことを考えるといかに短期間であったかがわかる。やはり産業は地産地消に加え、地産地加工が安定操業への基本だろうか？当時、宇和島で13万トンの芋の収穫があった。現在の「くみあい飼料」のある場所操業期間は10年位か？排水設備はないのか白い液が垂れ流しで、海に浮遊していました。ぼらがたくさん集まってきてそれを引掛ける釣り人がたくさん来ていました。親父もここで数年働いていました。昼夜２交代で残業もありました。大変珍しい、でんぷん工場構内の写真同上でんぷんからぶどう糖や水あめを作っていました。四国糖化工場と言うのが正式名称だった。澱粉工場を閉鎖するという新聞記事（昭和４５年）　当事親父は既に退職していた。当時のかんずめ工場も無くなった。やはり食品工場は排水問題が深刻だったろう。12、1、２、３月　みかん　　　吉田、宇和島4月　　　　タケノコ　　三間、来村、高光、津島5月　　　　イチゴ　　　来村6月　　　　びわ　　　　大浦、柿原、八幡浜７，８月　　もも　　　　宇和島　松山　大半は岡山香川9,10月　　くり　　　　　日吉村　野村　内子　鬼北　大洲当時の稼動カレンダーよりそういえば、子供の頃「風邪をひいたら桃の缶詰」が定番だったな。自動車工場は建材ですが、伊予ダンボールも撤退しましたね。今はバッハ＆メディコになっている。同級生が勤めていました。「宇和島造船」は昭和６２年頃廃業になった。現在の宇和島市体育館（終末処理場）宇和島では当時、一番大きな民間会社であったと思う。小学校の時は見学に行った。見学に行ったのは官庁以外ではここだけだった。それを題材に学芸会の時の劇の題材にした。出し物は3本立てで、他は国鉄と郵便局、郵便局はミュージカル仕立てだった。音楽担当は御存知Ｓ次郎先生！どの企業も「地の利」を生かした理想的な生産活動をしていたのに残念です。裾野の広い産業だったので打撃を受けた人や事業所も多いことでしょう。昭和４０年代から平成１０年あたりまで縫製業も盛んでした。一時期韓国製品に押され気味でしたが、なんとか凌ぎましたがバブル経済で高騰した日本の人件費より１０分の１以下だった安い人件費の中国に拠点を移すメーカーが続出し国内工場は徐々に廃業に追い込まれました。現在稼動しているのは、最盛期の１０％以下ではないかと思われます。産業は空洞化すると、元に戻すのは荒れた田畑を整備するより難しいかもしれません。ハード（土地や資材）は何とかなっても肝腎のソフト（技術や人材）の不足は如何ともし難い。やはり、地産地消、極論したら自給自足に近付ける事が地域復興のキーワードでしょうか。獅子文六の小説に登場する「善助餅」で有名な越智善助氏は「四国では農産物や鉱物資源がバランスよく産出され独立国になるもの可能」と言って「求心活動」つまり戦前のように海外進出して手を広げる「遠心活動」より逆に内に向いて自給自足の社会を作る。と言う運動をしていると言う設定でした。宇和島の産業構造は今はチグハグな気がします。暗い話になってしまいましたが「グローバルな視点からの自給自足」を探求する良いチャンスなのかもしれません。</description>
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<category>宇和島・南予タイムスリップ</category>
<pubDate>Sun, 27 Apr 2008 10:04:33 +0900</pubDate>

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<title>わたしたちの宇和島市１アーケード街</title>
<description>いきなり、古い本の表紙を見て、拍子抜けしたかもこれは私が小学校３年生頃使っていた社会科の副読本である。もちろん、今までこんな本を持っているほど私は勉強家ではない！威張ってどうする・・図書館で借りてきた。これを見て「あ～そんなんあったな～～」と思う世代は既に４０半ばを越えた人たちだろう。まさに「少年老い易くガクッと成りがたし」やねこの頃の宇和島市の現状や、将来の展望などが小学生の目線で書かれている。「不景気・ドルショック・オイルショック・金融恐慌」そんな言葉も無かった、比較的「あんき」な時代。「これまで発展してきて、さらに大きくなる町」確かに、子供の頃は「宇和島」に対する認識はそんなものだった。「よし！一生懸命勉強して宇和島のために尽くそう！」と、まーきみ。も思ったものだ。今の子供はどうだろう・大人が、子供の夢を摘んでいないだろうか！「とーちゃんも、がんばって大きな町にしてきたから、おいらもがんばろう！そう言った意欲を持ってる子供・・・昔は確かにいた気がする。小学校の２年制の頃だったか、社会科の時間に「商店街の名前調べ」と言って、アーケードまで出かけて行って二人一組で手分けして一店、一店聞いて回った事があった。アーケード街、車道と舗道が分かれていて、Ｌ字側溝が敷設されていた。信じられないが幼児の頃、ここで立〇〇ンしてた記憶があるが、勘違いかもしれない・・まさかねぇ・・戎山の田舎から、町へ出て、そんな大それたことはできない！と怯えていたが、コンビを組んだ子がすごく勉強が出来て明るい子だったので、意気揚々と「ごめんくださーい。ここの店の名前教えてくださーい」と、ハキハキ聞いて回ったので、まーきみ。もだんだん度胸が出てきて自分から声を出せるようになった。持つべきものは友達やねぇこの子は滝本と言って、お母さんを早くに亡くし、６年の頃オヤジさんの仕事の都合で転校していった。「さるが池のカブトムシ捕り」は彼に伝授してもらったものである。「岩村万年堂」が一番初めに訪ねた店だと言うのは記憶しているので、おそらくあの一帯だったのだろう。昭和４２年頃の宇和島商店街の「商店の種類と数」衣類や履物店が突出して多い。商店街は昔も今も「ファッションの町」かそういえば、愛媛県はアパレル関係の「アンテナショップ」が多いと聞いた事があった。「愛媛で流行るファッションは全国で流行る」と言うのが通例になってるそうだ。（ＪＡＶＡ･グループのスタッフの話）「わたしたちの宇和島市」ではさらに「かいものをしたあとに、えいがをみたり、ごはんをたべたりして　かえるひとが　たくさんありますので　たべものやや　えいがかんは　店のおおいとおりの　ちかくにあります」買い物の後に、映画や食事・・昔はそんな贅沢してたか？そういえば、子供の頃、バスで買い物に来て母親とたまに食堂に行った事がありました。「とーちゃんやじーちゃんには黙っとけ」と口止めされた事もありました。成長と共に、ポロポロ家でしゃべるようになったのでしょうか？あの頃から口が軽かったんやねぇ夜になって、両親と一緒に映画を観にいった事も何度かありました。もちろん「東映まんが祭り」なんてありませんので、大人の映画ばっかりです。おそらく裕次郎とか、加山雄三とかだったのでしょうが、内容は覚えてないよう・・これも記憶違いかもしれませんが、当時の大人たちは「キスシーン」になると、見んなゲラゲラ笑ってたような・・もちろん、私は笑うはずもありませんが。。。子供用の映画が出来るまで、映画館は床屋さんと並んでまーきみ。には退屈な場所でした。ご馳走であるはずの食堂のご飯もあまり美味しかったと言う記憶もありません。それよりも「しんばし」あたりの前にあった自動販売機のオレンジジュース、紙コップを手動で置くやつ。あの凍りつくほど冷えていたジュースが一番の楽しみでした。東映が在った通り東宝が入居していた丸フジが在った通り。</description>
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<category>宇和島・南予タイムスリップ</category>
<pubDate>Tue, 15 Apr 2008 00:51:17 +0900</pubDate>

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